No.404
ヒューマントラストシネマ渋谷で映画「魂のゆくえ」を観ました。「出版寅さん」こと内海準二さんも一緒でした。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『タクシードライバー』などの脚本を担当し、『白い刻印』などの監督としても活動しているポール・シュレイダーが放つドラマ。信仰に疑いを抱き始める牧師を映し出す。『6才のボクが、大人になるまで。』などのイーサン・ホーク、『マンマ・ミーア!』シリーズなどのアマンダ・セイフライドらが出演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ニューヨーク州北部にある小さな教会『ファースト・リフォームド』で牧師をしているトラー(イーサン・ホーク)は、ミサに訪れたメアリーに環境活動家の夫マイケルについて相談したいと言われる。マイケルは地球の行く末を悲観し、妊娠中のメアリーの出産を止めようとしていた。トラーは、心の中では彼の考えに賛同しつつも、出産を受け入れるように説得する。そんな中トラーは、教会が環境汚染の元凶である大企業からの支援を受けていることを知る」
わたしは、一条真也の映画館「ある少年の告白」で、この「魂のゆくえ」を紹介しました。というのも、「ある少年の告白」の主人公ジャレッドの父親はラッセル・クロウが演じていますが、彼はキリスト教福音派の牧師です。そして、「魂のゆくえ」のイーサン・ホーク演じるトラーも、同じくキリスト教福音派の牧師なのです。
アメリカ合衆国の福音派は、世界教会協議会(WCC)のエキュメニズム、自由主義神学(リベラル)、新正統主義を否定しますが、キリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)にも同意できない福音主義の立場によって形成されました。2009年には正教会(アメリカ正教会など)、カトリック教会、福音派の指導者が共同で、「マンハッタン宣言」を発表し、人工妊娠中絶、同性愛といった罪に抵抗すると宣言しています。
この「魂のゆくえ」の内容は、わたしの心に重く響きました。ネタバレ覚悟で書いてしまうと、この映画では、環境活動家のマイケルが自ら命を絶ちます。妊娠中の妻メアリーを残して......。愛する者を残して自死する場面はショッキングであり、わたしは一条真也の映画館「アリー/スター誕生」で、ブラッドリー・クーパー演じる往年の人気歌手がレディ・ガガ演じる最愛の妻アリーを残して自死した場面を思い出しました。愛する者との別れは、いつだって突然やってくるのです。
上智大学でのグリーフケア講義のようす
わたしは「死」や「グリーフケア」を専門テーマとしているので、この映画の中の自死について考えさせられました。ブログ「上智大グリーフケア講義」で紹介したように、2016年7月20日、わたしは初めて上智大学の教壇に立ってグリーフケアの講義を行いましたが、そこでは「自死」の問題についても話しました。上智大学は日本におけるカトリックの総本山ですが、カトリックは自死を完全に否定しています。693年のトレドの宗教会議で、「自死者はカトリック教会から破門する」という宣言がなされ、「自死」が公式に否定されたのです。さらには聖トマス・アクィナスが「自死は生と死を司る神の権限を侵す罪である」と規定したことで、「自死=悪」という解釈が定まりました。その結果、自死者は教会の墓地に埋葬してもらえないという時代が長く続いたといいます。
講義で「自死」について語りました
「三大世界宗教」といえば、キリスト教・イスラム教・仏教です。『100文字でわかる世界の宗教』(ワニ文庫)でも紹介しましたが、イスラム教においても、仏教においても自死を否定的にとらえています。しかし、自死はけっして「自ら選んだ」わけではなく、魔や薬のせいという要素も強いと言えます。ただでさえ、自ら命を絶つという過酷な運命をたどった人間に対して「地獄に堕ちる」と蔑んだり、差別戒名をつけたりするのは、わたしには理解できません。それでは遺族はさらに絶望するというセカンド・レイプのような目に遭いますし、なによりも宗教とは人間を救済するものではないでしょうか。
『100文字でわかる世界の宗教』(ワニ文庫)
さて、「魂のゆくえ」の主人公であるトラー牧師のファースト・リフォームド教会はカトリックではありません。いわゆるプロテスタントです。カトリック教国よりもプロテスタント教国のほうが自死者が多いことは有名です。自死を完全に否定するカトリックは「自死者は天国へ行けない」と教えます。カトリックには告解の制度があり、信者は日々の悩み罪の意識を和らげることができます。実際、告解で罪は赦されますが、プロテスタントの信者は悩みや罪の意識をすべて自分自身で処理しなければなりません。このことがカトリックとプロテスタントの自死者の数の差に表れているとされています。
いま、宗教関係者以外で、自死を果たした人を責める人はあまりいないでしょう。昔は「自殺するのは弱いからだ」「死ぬ気があれば何でもできる」といった考えが主流でしたが、現在では「うつ病患者は自死しても仕方ない」「病気だから気の毒だ」という考えに流れが変わっているように思います。わたしも基本的には、自死をされた方を責める気はまったくないのですが、残された遺族の方々の深い悲しみに接するにつれ、「もう少し何とかならなかったか」と複雑な気分になります。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
昨年、拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)を読まれた女性の方とお話しさせていただいたのですが、あまりにも壮絶な体験談に絶句しました。その女性が妊娠中にご主人が自死をされたそうです。まさに「魂のゆくえ」のケースと同じなのですが、さらに気の毒なことには彼女はご主人の実家と絶縁状態にあり、夫の通夜にも葬儀にも参列できませんでした。それを聞いて、わたしは彼女の深い悲しみに共感するとともに、自死をされたご主人に対して「愛する奥さんや生まれてくる子どものために、どうしてもっと生きてくれなかったのか」と思いました。自死を肯定するのは思想の自由かもしれませんが、残された者の悲しみを忘れてはなりません。
『愛する人を亡くした人へ』はグリーフケアの書ですが、「魂のゆくえ」もまたグリーフケアの映画です。トラー牧師自身が息子を亡くした悲嘆者であり、夫を亡くしたメアリーの悲嘆に寄り添っていきます。この2人が、体を合わせて目の動きや呼吸も合わせるというカップル瞑想のような行為を行います。その結果、2人はトリップして地球環境破壊のビジョンを見ます。それは、ある意味でセックスよりもエロティックな営みであり、エクスタシー以上のトリップを体験するのでした。ただ、わたしは「これで、この2人の感情は収まるだろうか?」と考えたのですが、ラストシーンではやはり「収まらなかった」ことがわかりました。
『ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫)
夫を自死によって失ったメアリーの悲しみは深いですが、彼女に対して、トラーは自分の父親が銀行のエレベーターの中で心臓麻痺で亡くなった話をします。エレベーターという密室の中であったのに、トラーの父は最期に「わたしは今、聖域にいる。靴を脱がせてくれ」と言ったそうです。トラーはメアリーに「きっとマイケルが亡くなったときも聖域にいたのではないかな」と言って、傷心の未亡人を慰めるのでした。そのシーンを見たとき、わたしは「死は最大の平等である」というわが信条を思い浮かべました。それは、どんな死に方であっても、死の瞬間の体験は同じであるという考えです。拙著『ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫)で詳しく紹介しましたが、世界中に数多く存在する、死に臨んで奇跡的に命を取り戻した人々、すなわち臨死体験者たちは共通の体験を報告しています。
死んだときに自分と自分を取り巻く医師や看護婦の姿が上の方から見えた。それからトンネルのようなものをくぐって行くと光の生命に出会い、花が咲き乱れている明るい場所が現れたりする。さらに先に死んでしまった親や恋人など、自分を愛してくれた人に再会する。そして重大なことは、人生でおかした過ちを処罰されるような体験は少ないこと、息を吹き返してからは死に対して恐怖心を抱かなくなったというようなことが主な内容です。そして、いずれの臨死体験者たちも、死んでいるあいだは非常に強い幸福感で包まれたと報告しています。この強い幸福感は、心理学者マズローの唱える「至高体験」であり、宗教家およびロマン主義文学者たちの「神秘体験」、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じるものです。ブログ「天国は本当にある」で紹介した映画は臨死体験を描いた実話ですが、この作品も「魂のゆくえ」と同じヒューマントラストシネマ渋谷で観ました。
『命には続きがある』(PHP研究所)
いずれの体験においても、おそらく脳のなかで幸福感をつくるとされるβエンドルフィンが大量に分泌されているのでしょう。臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳がつくりだした幻覚だという説があります。しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。こんなすごい平等が他にあるでしょうか! まさしく、死は最大の平等です。日本人は人が死ぬと「不幸があった」などと馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に浸っているとしたら、こんなに愉快な話はありません。そんなことを現在は東京大学名誉教授の矢作直樹氏との対談本『命には続きがある』(PHP研究所)で話しました。矢作氏といえば、その面影というか佇まいが「魂のゆくえ」の主人公トラー牧師に重なったことを告白しておきます。