No.466
新型コロナウイルスの猛威が衰えません。
世界での感染者が240万人、死者は16万人を超えました。人類が完全に立ち往生しているといった印象ですが、そんな中、日本で生まれたウイルスによって人類が滅亡の危機に瀕するSFパニック映画をDVDで観ました。角川映画の「復活の日」(1980年)です。原作は日本SF界の巨匠・小松左京。主演は草刈正雄、オリビア・ハッセ―。細菌兵器によって全世界はパニックとなり、45億人の人類が死亡する物語です。氷に閉ざされた南極大陸には863人の探検隊員が残され、滅亡寸前まで追いこまれた人類が生き残るドラマが壮大なスケールで描かれます。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「小松左京の同名SFを映像化。1982年、東ドイツの研究所から猛毒ウイルスMM-88が盗まれた。ところが盗み出したスパイの乗った飛行機はアルプス山中で事故に遭い、ウイルスが蔓延した地球は、南極にわずかな人類を残して滅亡する。その生存者の一人、地震研究者吉住は、さらに大きな危険が近づいていることに気づく。アメリカ東部に大地震がおきる可能性があり、それは核ミサイルの発射を誘発するものだった・・・・・・」
「復活の日」はじつに壮大なスケールのSFパニック映画ですが、じつは新型ウイルスに加えて、巨大地震、核兵器と、「これでもか」とばかりに人類に超弩級の波状攻撃が与えられます。草刈正雄演じる地震学者の吉住周三とボー・スベンソン演じる米軍のカーター少佐はワクチンのサンプルを渡され、南極から大西洋を経てポトマック川をさかのぼり、ホワイトハウスに潜入します。しかし、すでにアメリカで地震は始まっており、地下にある自動報復装置を停止しようとする彼らの決死の行動もむなしく、核ミサイルは発射されてしまいます。その結果、世界は二度目の死を迎えますが、ワクチンは有効でした。ただ1人生き残った吉住は歩き出し、アメリカ大陸を徒歩で縦断していきます。極限状態にあった彼は精神を病み、次第に死者の声が聴こえるようになりますが、それでも歩みを止めませんでした。やがて吉住は、チリ南端にある湖畔へたどり着きます。そこは、核攻撃から避難していた人々が作った集落でした。ここから、人類は奇跡の「復活」に向けて大いなる歩みを始めるのです。
原作小説『復活の日』を小松左京が書いたのは、なんと1964年。東京オリンピックの年でした。原作では、大相撲やプロ野球が短縮されたり中止になったりします。
映画の中のウイルスの画像は新型コロナに酷似しています。イタリアで感染拡大して「イタリア風邪」と呼ばれるのですが、そのうち「新型ウイルス」という名前が付きます。最初は咳が出るので単なる風邪かと思ってしまうのも新型コロナにそっくり。感染は医療関係者にまで拡がり、医療崩壊を招き、ついには日本全土に戒厳令が発令されます。そして、感染は世界中に拡大されて人類が存亡の危機を迎えるのでした。あまりにも映画の描写が現在の状況と似ているので、怖くなってきます。小松左京は予言者だったのでしょうか?
バイオテクノロジーによる破滅テーマの本格SFとしては、日本では『復活の日』が嚆矢になりました。小松左京によれば、執筆当時の香港かぜの流行、東昇の『ウイルス』、カミュの『ペスト』『戒厳令』、南極には風邪がないと記された岩波新書の『南極越冬記』、また冷戦時代の緊張下で同じく人類滅亡を扱ったネビル・シュートの『渚にて』を下敷きとしているそうです。また、この作品で地震について調べたことが、代表作『日本沈没』にもつながったといいます。小松にとっては『日本アパッチ族』に次ぐ長編第2作であり、ハードSFの書き下ろしとしては第1作でした。SF作家の堀晃は、『復活の日』が日本のSFのレベルを引き上げたと高く評価しました。また、評論家の石川喬司は、細菌兵器による終末テーマのSFの代表的な作品の1つとして扱いました。
一条真也の映画館「コンテイジョン」、「アウトブレイク」で紹介したハリウッド映画、そしてこの「復活の日」の他にも、人類がウイルスや細菌兵器と戦う映画はたくさんあります。それらは「SF映画」と呼ばれることが多いですが、一条真也の読書館『SF魂』で紹介した本の「あとがき」で、著者の小松左京は「SFとは思考実験である」「SFとは文明論である」「SFとは哲学である」といったSFの定義を延々と並べてから、最後には「SFとは希望である」と締めくくっています。人類が未曽有の危機に瀕している現在、わたしたちはSFにおける想像力を「人類の叡智」として使う時期なのかもしれません。そして、そこには「希望」があることを信じています。
さて、映画「復活の日」のキャッチフレーズは「愛は、人類を救えるか」でした。「愛」を説いた人といえば、かのイエス・キリストです。映画のラストで荒野を彷徨う吉住の姿はまさに受難者イエスを彷彿とさせますが、「人類」という概念はイエスが発明したとされていると聞いたことがあります。また、「復活」はイエスの代名詞として知られています。紀元前4年頃にガリラヤのナザレに生まれ、30歳の頃にヨハネの洗礼を受けたとされるイエスは、ユダヤ教の指導者層を批判します。その結果、ユダヤ人に捕らえられ、ローマ提督ピラトによって十字架刑に処せられました。しかし、三日後にイエスが復活したとの信仰が弟子たちに生まれ、彼こそメシア(救世主)としての主キリストであると信じられたのでした。そのイエスの教え、すなわちキリスト教を信じている人々はウイルス感染から救われるのかというと、現在の新型コロナウイルスの場合は残念ながら違います。
カトリックの本国といえるイタリアでは、危篤に陥った新型コロナウイルス感染者らの臨終の際、祝福を与えた聖職者らが、次々と命を落としています。イタリアでは、聖職者は医師と同じように重篤な状態にある感染者らと接触しますが、ある神父は、「われわれ聖職者は、マスクと帽子と手袋とローブ、そして防護用の眼鏡を着用し、聖堂の中をゾンビのように歩き回る」と話したといいます。プロテスタントは、どうか。アメリカのバージニア州にあるキリスト教会の牧師だったジェラルド・グレン司教は3月22日の説教の中で、「神はこの恐ろしいウイルスよりも大きいと固く信じる」と述べ、自身は死ぬことを恐れないと語っていました。しかし、彼は新型コロナウイルスに感染して死亡したことが4月12日にわかりました。カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、イエス・キリストの教えを信じる人々もウイルスの猛威からは逃げられなかったのです。
しかしながら、わたしは、ウイルスは愛に似ていると思います。奇妙なことを言うようですが、ウイルスも愛も目に見えないという共通点を持っています。一条真也の読書館『星の王子さま』で紹介した不朽のファンタジーで、フランスの作家サン=テグジュペリは「大切なものは目には見えない」と書きました。そこで彼が言いたかった「大切なもの」とは、ずばり「愛」のことでしょう。愛も目に見えませんが、ウイルスも目に見えません。目に見えない「愛」ですが、「かたち」として可視化することはできます。たとえば、ハグやキスやセックスです。また、結婚式や葬儀といった儀式です。
それらの愛が「かたち」にするものをウイルスは無化することができます。ウイルスは、愛する者同士にハグをさせません。恋人同士にキスもセックスもさせません。
そして、ブログ「儀式を消すウイルス」に書いたように、結婚式や葬儀といった大切な儀式を消し去ってしまいます。まさに「目に見えないもの」の正のメタファーが愛なら、負のメタファーがウイルスなのです。「愛は、人類を救えるか」という「復活の日」のキャッチコピーは、そのことを言っているように思えてなりません。