No.523


 5月14日の夜、この日から公開された映画「ファーザー」を小倉のシネコンで観ました。第93回アカデミー賞において、脚色賞(クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール)、主演男優賞(アンソニー・ホプキンス)の二冠に輝いた作品です。ホプキンスは、史上最高齢受賞で、なんと授賞式にその姿を見せませんでした。認知症の父親の物語ですが、想像していたような感動のヒューマンドラマというよりは、とてつもなく怖い映画でした。これはもう、ミステリー映画、いやホラー映画だと思いましたね。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「世界中で上演された舞台を映画化したヒューマンドラマ。年老いた父親が認知症を患い、次第に自分自身や家族のことも分からなくなり、記憶や時間が混乱していく。原作を手掛けたフロリアン・ゼレールが監督と脚本を担当し、『羊たちの沈黙』などのアンソニー・ホプキンスが父親、『女王陛下のお気に入り』などのオリヴィア・コールマンが娘を演じ、『SHERLICK/ 忌まわしき花嫁』などのマーク・ゲイティスや、『ビバリウム』などのイモージェン・プーツらが共演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ロンドンで独りで暮らす81歳のアンソニー(アンソニー・ホプキンス)は、少しずつ記憶が曖昧になってきていたが、娘のアン(オリヴィア・コールマン)が頼んだ介護人を断る。そんな折、アンが新しい恋人とパリで暮らすと言い出して彼はぼう然とする。だがさらに、アンと結婚して10年になるという見知らぬ男がアンソニーの自宅に突然現れたことで、彼の混乱は深まる」

 この映画、何が怖いって、自分が信じていた現実が次から次に変容していくのです。認知症の老人の視点が主体となっているのですが、正しいと思っていた記憶や時間が歪んでいく恐怖は大きいです。もともとは世界30ヵ国以上で上演された舞台ですので、撮影は1ヵ所のアパートで進むのですが、このことが、観客にさらなる混乱を呼びます。アパートは趣味の良い英国家具で飾られていますが、この美術を手掛けるのは「タイタニック」「ハリー・ポッター」シリーズ、「バットマンビギンズ」「ロケットマン」など数々の名作に携わってきたピーター・フランシスです。監督は原作舞台を手掛けたフロリアン・ゼレールです。長編初監督にして、この映画を現実と幻想の境界が曖昧になっていく父の視点で描き、これまでにない画期的な表現を実現させました。

 とにかく、この映画を観ていると、何が本当の現実かわからなくなり、得体の知れない不安に襲われます。映画評論家の佐藤久理子氏は、映画.comで「本作が欧米でこれほど評価された大きな理由は、その映像スタイルにあるだろう。ゼレール監督はこれが一作目とは思えないほど鮮やかに、演劇的な要素を映像的な表現に切り替えている。とくにアンソニーの頭のなかの混乱を、時間感覚が麻痺するようなシチュエーションの反復を用いたり、ふたりの俳優に同じ役を演じさせ他者の認識を曖昧にすることで観客に体感させるのだ。まったく見知らぬ人間が居間にいて、娘の夫だと名乗るかと思えば、見慣れぬ女が娘として振る舞い、夫などいないと主張する。不条理で不確かな世界に身を置く恐怖が、ひしひしと伝わって来る」と述べています。そう、この映画の恐怖は不条理な世界に身を置く恐怖なのです。アンソニー・ホプキンスが演じる彼と同名の主人公アンソニーは「おかしな事ばかりだ」と口にします。

 アンソニーの視点で物語を追っている観客も同じように「おかしな事ばかりだ」と思います。スクリーンを観ながら認識した登場人物の名前や顔や役割なども次から次に変わって、じつに嫌な気分になり、不安感に包まれます。この嫌な感じや不安感は以前にも体験したことがあると思ったら、一条真也の映画館「マザー!」で紹介した日本公開中止になった超問題作映画を観たときだと思い出しました。「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキー監督が描く驚愕のスリラーである「マザー!」の舞台、はある郊外の一軒家。そこには、スランプに陥った詩人の夫と若くて美しい妻が住んでいました。ある夜、家に不審な訪問者が訪れますが、夫はその訪問者を拒むこともせず招き入れます。それをきっかけに、翌日からも次々と謎の訪問者たちが現れ、夫婦の穏やかな生活は一転します。それととともに夫も豹変し始め、招かれざる客たちを拒む素振りを見せず次々と招き入れていきます。そんな夫の行動に妻は不安と恐怖を募らせるのでした。わたしをこの上なく不安にさせた二大映画のタイトルが「ファーザー」と「マザー!」というのはあまりにも出来過ぎていますが、もしかしてゼレール監督は怪作「マザー!」を意識したのかも?

「ファーザー」は、認知症患者の精神世界をリアルに表現した点が秀逸です。観客も認知症をバーチャル体験できるわけですが、わたしは「ファーザー」と同じくロンドンのアパートを舞台にしたサイコホラー映画の名作「反撥」(1965年)も思い出しました。ポーランドを離れ渡英したロマン・ポランスキーが、カトリーヌ・ドヌーヴを主演に迎えて発表した異色作です。第15回ベルリン国際映画祭において銀熊賞の審査員グランプリを受賞しました。ドヌーヴ扮するキャロルは、姉ヘレンと暮らしています。キャロルは美容室で働いており、彼女をデートを誘う男コリンもいます。キャロルは、姉が妻子持ちの男マイケルを毎晩のように部屋に泊めることに強い嫌悪感を抱いていました。毎晩のように姉の喘ぐ声が聞こえてくるのですが、神経質で潔癖性のキャロルは、男性恐怖症になると同時に男に犯される夢を見るようになり、徐々に精神的に壊れて行きます。「反撥」という映画は、精神を病んだ人間の内面を観客がバーチャル体験できる作品でした。

 それにしても、アンソニー・ホプキンスの演技は最高に素晴らしかったです。まさに、半世紀を超える役者人生の最高傑作にして集大成とも言える演技を披露してくれました。アカデミー6部門にノミネートされた時点で行われたインタビューで、彼は「私は父を演じた」「私は老戦士、引退する気はない」「人生の終わりを意識し、命が美しいものに思えてきた」などと述べました。これまで、「羊たちの沈黙」(1991年)でアカデミー賞主演男優賞受賞、「日の名残り」(1993年)では同賞主演男優賞にノミネート、「2人のローマ教皇」(2019年)では同賞助演男優賞にノミネートされたアンソニーですが、日本時間4月26日に行われるアカデミー賞授賞式では、史上最高齢主演男優賞ノミネートなど気にすることなくマイペースに、家族とウエールズに滞在していました。授賞式の最後に発表された主演男優賞で彼の名前が読み上げられましたが、本人が不在という前代未聞の事態となりました。

 最近、観る映画はすべてグリーフケアの映画だと気づきます。この映画も、やはりそうでした。アンソニーの新しい介護人となるローラという若い女性がアパートを訪れ、リビングで娘のアンを交えて3人でくつろぐ場面があります。ローラから何の仕事をしていたかを尋ねられたアンソニーは、「ダンサーだった」と答えますが、アンから「お父さん、エンジニアでしょ」と訂正されます。すると「知らないくせに。タップが売りだった」とアンソニーは言い、驚くローラに向けて「信じないか? 今でも踊れるんだよ」と茶目っ気たっぷりに突然、タップを踊り出します。アンソニーの不意のおどけたダンス姿にローラは思わず笑い出します。アンソニーはそんなローラの姿を見て、「下の娘のルーシーの若い頃にそっくりだな。どうだね?」とアンに問いかけます。このアンの妹ローラは事故で亡くなっており、彼女の存在が父娘の関係を一層複雑なものにしています。なぜなら、姉のアンよりも亡くなった妹のルーシーの方が父であるアンソニーのお気に入りだったからです。彼の頭の中では、ルーシーはいまだ生きており、アンは父に対する愛憎の狭間で揺れ動きます。この映画も、やはり死者の濃い影が漂っているのでした。