No.602
日本映画「峠 最後のサムライ」をシネプレックス小倉で観ました。累計発行部数386万部超の司馬遼太郎の小説『峠』初の映画化です。コロナ禍によって何度も公開が延期された作品ですが、残念ながら映画は原作の良さがまったく出ていない駄作でした。主人公の河井継之助は、陽明学者として「志」についての素晴らしい思想の持ち主でした。もっと、そのへんを描いてほしかったです。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『蜩ノ記』などの小泉堯史が司馬遼太郎の『峠』を映画化した時代劇。越後長岡藩の筆頭家老である主人公が激動の時代を生きた姿を、スクリーンに焼き付ける。主人公を数々の主演作を誇る役所広司、その妻を『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』などの松たか子、主人公の父をダンサーで『蜃気楼の舟』などに出演した田中泯が演じる」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「大政奉還が行われた1867年、260年余り続いた江戸幕府が倒れて諸藩は東軍(旧幕府軍)と西軍(新政府軍)に分裂する。翌年には鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争へとなだれ込むが、越後の小藩である長岡藩の家老・河井継之助(役所広司)は冷静に事態を見守っていた。彼は東軍と西軍いずれにも属さない武装中立を目指し、和平を願い談判に挑むが・・・・・・」
河井継之助は、文政10年1月1日(1827年1月27日) 生まれで、慶応4年8月16日(1868年10月1日)没。江戸時代末期(幕末)の武士で、越後長岡藩牧野家の家臣です。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」としますが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としています。禄高は120石。妻は「すが」。戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られます。敵軍50000人に、たった690人で挑んだ行為が「最後のサムライ」という言葉が映画タイトルに付けられた理由でしょうか?
映画では、小千谷会談が描かれました。新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張しました。こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めました。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとしました。新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談。継之助は新政府軍を批判し、長岡領内への進入と戦闘の拒否を通告したのでした。
わたしは、役所広司も松たか子も好きな役者なのですが、この映画には他にも仲代達矢、田中泯、榎本孝明、井川比佐志、山本學、吉岡秀隆、東出昌大、香川京子、芳根京子といった信じられないような豪華俳優陣が出演しています。「それなのに、なぜ、これほどまでに面白くない映画になったのか?」と思わざるを得ません。役所広司と言えば、一条真也の映画館「聯合艦隊司令長官 山本五十六」で主役の山本五十六を演じましたが、彼も河井継之助と同じ長岡藩の出身です。史実として、河井継之助と山本五十六が最後に置かれた状況が似ていることは役所広司も気づいていたのではないかと思います。しかしながら、司馬遼太郎の原作を読んでいる者ならば、「最後のサムライ」などという安易なコピーは出てこないと思います。
同じ小泉堯史監督、役所広司主演の映画でも、一条真也の映画館「蜩ノ記」で紹介した映画は名作でした。この映画を観て、死生観について考えさせられました。役所は、無実の罪で3年後に切腹を控える武士・秋谷を見事に演じました。この映画で最もわたしの心に響いたセリフは「死ぬことを自分のものとしたい」という秋谷の言葉でした。予告編には「日本人の美しき礼節と愛」を描いた映画という説明がなされ、最後は「残された人生、あなたならどう生きますか?」というナレーションが流れます。切腹を控えた日々を送る武士の物語ですが、ある意味でドラマティックな「修活」映画と言えるでしょう。「峠 最後のサムライ」でも、主人公の継之助が「死ぬことを自分のものとする」ことを訴えるシーンが登場しますが、シナリオが悪いため説得力がありませんでした。一条真也の映画館「PLAN75」で紹介した同日公開の作品ともども、尻切れトンボで残念なエンディングだったと思います。