No.605
日本映画「神は見返りを求める」をシネプレックス小倉で観ました。かねてより「なんか怪しいなあ」と思っていたムロツヨシの怪演が光る作品で、かなりの胸糞映画ですが、正直言って大傑作。今年の「一条賞」候補です!
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『BLUE/ブルー』『空白』などの吉田恵輔監督が脚本も手掛け、YouTuberを題材に描くラブストーリー。見返りを求めない優しい男性とどん底YouTuberの関係を映し出す。ドラマ「親バカ青春白書」や『マイ・ダディ』などのムロツヨシ、『ケイコ 目を澄ませて』などの岸井ゆきのをはじめ、若葉竜也、吉村界人、淡梨、柳俊太郎らが出演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「イベント会社で働く田母神尚樹(ムロツヨシ)は、YouTuberの川合優里(岸井ゆきの)と合コンで出会う。再生回数の少なさに頭を悩ませる優里に同情した田母神は、彼女のYouTubeチャンネルを見返りを求めることなく手助けする。人気が出ないながらも彼らは前向きに努力を続け、お互い良きパートナーになっていくが、あることをきっかけに二人の関係が大きく変化する」
この映画は「YouTubeあるある」というか、底辺YouTuberが下品な路線に走り始めてから登録者数をどんどん増やしていき、だんだん調子に乗っていく様子が胸糞悪く描かれています。日常挑戦系動画もあれば、迷惑系動画もあります。迷惑系などは本当に下らない内容で、社会に対する影響は本当に悪影響しかないので、もっと法律で取り締まるべきだと思います。また、「面白ければなんでもあり!」という軽いノリでYouTubeに群がる人々もいます。登場人物たちはどうしようもなく愚かですが、彼らはフツーの人々でもあるのです。
わたし自身はYouTube動画はよく観ます。最近は、感動系アニメ動画あなどをブログでも紹介しました。動画は観ますが、いわゆるYouTuberという職種には疑問を抱くことも多々あります。もちろん教育系YouTuber、読書系YouTuber、映画系YouTuberなどをはじめ、素晴らしい仕事をされている方がたくさんおられるのは知っています。アントニオ猪木、長州力、前田日明をはじめ、往年のスター・プロレスラーが近況報告してくれる動画も嬉しい限りです。あと、大食い動画がけっこう好きで、執筆後の息抜きなどに見ますが、「飯テロ」というか、夜中に腹が減って困ります(苦笑)。
「神は見返りを求める」に登場する「ゆりちゃん」こと川合優里(岸井ゆきの)は、いわゆる底辺YouTuberでした。日常挑戦系動画を配信しており、スパゲティを食べながらフラフープをするみたいな動画を投稿しています。それが一向にバズる気配はなく、登録者数もまったく伸びませんでした。そんな優里を知ったイベント会社で働く田母神は彼女をサポートします。田母神の献身的なサポートによって、動画はそこそこのクオリティになりましたが、それでも登録者数は増えません。あるとき、優里は人気YouTuberと知り合いになりお色気企画に挑戦、さらには能力ある動画デザイナーを紹介してもらいます。彼女の動画はバズり、チャンネル登録も増えてきます。しょせんは素人でセンスのない田母神が次第にお荷物に感じるようになった優里は、彼を切ったばかりか、恩を仇で返すような真似を続けるのでした。
ムロツヨシ演じる田母神尚樹は、借金漬けの後輩に金を貸してやるような基本的に優しい男です。ある日、合コンで泥酔した優里を田母神は介抱します。それから数日後、優里から田母神に相談の電話が入ります。それは、「企画動画で着ぐるみを使いたいが、どうしたら良いかわからない」というものでした。田母神は以前に仕事で使った着ぐるみ「ジェイコブ君」を優里の元に届け、そして「中の人」としてダンスまでするのでした。さらに、動画のテロップへの指摘コメントに凹んでいた優里の愚痴を聞き、流れでテロップ作成まで引き受けてしまいます。他にも、炎上したときは示談金を払い、もろもろの経費も彼が払いますが、優里に対して一切の見返りを求めません。しかし、優里が自分の恩を忘れてディスっている事実を知り、突如、田母神の中で何かが壊れました。怒りのあまりに暴露系YouTuber「ゴッティー」となった田母神から、現在のYouTube業界における暴露王の「ガーシー」を連想したのは、わたしだけではありますまい。
とにかく「神は見返りを求める」を観終わった直後は、一種の放心状態で、「すごいものを観てしまった」という思いでした。「すごいもの」といっても決して感動とかではなく、とにかく胸糞の悪い、不愉快な、救われないような感情を伴うものです。「以前も、こんな嫌な感じを映画を見たことがあるな」と思ったら、 一条真也の映画館「空白」で紹介した同じ吉田恵輔監督の作品でした。古田新太と松坂桃李が共演を果たしたヒューマンドラマで、万引きを目撃され逃走中に車と衝突した女子中学生の死をめぐり錯綜する、被害者の父親と事故に関わる人々の姿を描写しています。わたしは、ブログに「これほど不快感のある、やりきれない、登場人物が全員不幸で、ひたすら辛い映画もなかなかないと思います。しかし、これほど感動する映画もなかなかありません。多大なストレスを観客に与え続け、最後には少しだけカタルシスを与えるグリーフケア映画の大傑作でした」と書いています。
「映画.com」には、「神は見返りを求める」を観た30代男性編集部員のレビューが紹介されていますが、彼は「開口一番「すさまじい映画を観てしまった」という感想。観ていて、こう、心が温まるどころか、すきま風が吹き込む......むしろ嫌な気分がジェンガみたいにうず高く積み上がり、画面の前から逃げ出したくなる瞬間もあったりする。しかし、それこそが本作の最大の魅力。えげつないものを強烈に求める人間心理をこれでもかと刺激する。やがて観る者の感情は爆発することになるが、その起点となるのがムロツヨシだ。この男、やはり半端ではない」と述べています。さらに、この作品は一条真也の映画館「ジョーカー」で紹介したホアキン・フェニックス主演映画と相似関係にあると指摘し、「心優しいアーサーが、社会や周囲の人々の無関心にすり潰されジョーカーとなったように、田母神もまた闇に堕ちていく。なるほど、日本版『ジョーカー』と呼ぶにふさわしい、すさまじいドラマだ」と書いています。わたしも、まったく同感ですね。
結局、優里は男に媚びるおねだり女ですし、田母神は下心のあるオッサンでした。まあ水商売などでは当たり前の話ですが、この映画を観て、わたしは「利他」の問題について連想しました。一条真也の読書館『おもいがけず利他』で紹介した政治学者の中島岳志氏の著書の第三章「受け取ること」では、「利他と利己のパラドクス」として、近年、大手企業は「社会的貢献」を重視し、様々な取り組みを行っていることが取り上げられます。著者は、「例えばSDGsという言葉を、最近よく目にします。これは「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」のことで、貧困、紛争、気候変動、感染症のような地球規模の課題に対して、2030年までに達成すべき目標が設定されています。企業はこのSDGsにコミットしていることを強調し、自社の取り組みをアピールしています。どうでしょう? この取り組みを見ていて、『なんと利他的で素晴らしい企業なんだろう』と心を動かされるでしょうか。もちろんほとんどの取り組みは素晴らしい事業で、実際、大きな貢献を果たしていると思います。SDGsにかかわり、行動を起こすことはとても大切なことです」と述べます。これまた、まったく同感!
しかし、中島氏は「どこかで『何かうさん臭いな』という気持ちを持ってしまうことはないでしょうか。結局のところ、企業のイメージアップのために『社会的貢献』を行っているだけで、それって企業の利潤追求の一環だよね、という冷めた見方を、私たちはどこか心の片隅に持っていないでしょうか。正直なことを言うと、私はそう思ってしまいます。特に『社会的貢献』の成果を、CMや広告でことさら強調されると、どうしても企業の『利己性』を感じてしまいます」と述べ、さらには「利他的なことを行っていても、動機づけが利己的であれば、『利己的』と見なされますし、逆に自分のために行っていたことが、自然と相手をケアすることにつながっていれば、それは『利他的』と見なされます」と述べています。わたしも同意見です。
「利他」を謳いつつも、その根底に「利己」がある場合は、多大なストレスを生み、最後は田母神のように人を狂わせます。「利他が支配に変わるとき」として、中島氏は「ギフト」という言葉を取り上げます。「ギフト」という単語には2つの意味があり、1つは「贈り物」、そしてもう1つは「毒」だと述べられています。わたしたちは贈り物を貰ったとき、まずは「嬉しさ」を感じますが、次第に返礼をしなければいけないという「負い目」を感じることがあり、それは「負債」のように心の錘になります。この両者の間に何が起きているのでしょうか? 著者は、「それは与えた側がもらった側に対して『優位に立つ』という現象です。もらった側が、十分な返礼ができないでいると、両者の間には『負債感』に基づく優劣関係が生じ、徐々に上下関係ができていきます。これが『ギフト』の『毒』です」と述べます。
児童養護施設から贈られた色紙
この「毒」は、溜まれば溜まるほど、相手を支配し、コントロールする道具になっていくとして、著者は「『贈与』や『利他』の中には、支配という『毒』が含まれていることがあり、これが『利他』と『利己』のメビウスの輪となっています。自分の思い通りに相手をコントロールしようとする『ギフト』は、『利他』の仮面をかぶった『利己』ですよね」と述べています。ちなみに、ブログ「こころの贈り物」に書いたように、わが社は児童養護施設のお子さんたちに七五三や成人式の晴れ着をプレゼントしましたが、わたしたちは、けっして一方的に児童養護施設のお子さんたちに贈り物をしたのではありません。わたしたちも素晴らしい「こころの贈り物」をいただきました。そして、お互いが「こころの贈り物」を贈り合う行為を「ケア」というのです。わたし個人も、わが社も、これからも「利他」や「ケア」を実現できる存在になりたいです。