No.608
TOHOシネマズ日比谷でホラー映画「ブラック・フォン」を観ました。久々の話題のホラー映画ということで大変楽しみにしていたのですが、それほど怖くはありませんでした。イーサン・ホークの怪演が注目されているようですが、常に変な仮面を被っているので表情がわかりません。あれでは、中身はイーサン・ホークでも他の誰でも同じです。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ホーンズ 容疑者と告白の角』の原作などで知られるジョー・ヒルの短編集『20世紀の幽霊たち』所収の一編「黒電話」を映画化。誘拐犯によって密室に監禁された少年が、部屋にある断線した黒電話を通じて過去の犠牲者たちとつながる。製作陣には『ゲット・アウト』などのジェイソン・ブラムが名を連ね、監督を『エミリー・ローズ』などのスコット・デリクソンが担当。連続誘拐犯を『フッテージ』などのイーサン・ホークが演じるほか、メイソン・テムズ、マデリーン・マックグロウらが出演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、「子供の失踪事件が相次ぐアメリカ・コロラド州の町。気弱な少年フィニー(メイソン・テムズ)は、ある日マジシャンを名乗る男(イーサン・ホーク)と出会い無理やり車に押し込まれ、気が付くと地下室に閉じ込められていた。その部屋には頑丈な扉と鉄格子の窓、断線している黒電話があり、通じないはずの電話が突如鳴り響く。それは、この部屋の真実を知る死者からのメッセージだった。一方、フィニーの失踪にまつわる予知夢を見た妹のグウェン(マデリーン・マックグロウ)は、夢を手掛かりに兄の行方を追う」です。
「ブラック・フォン」は19時からの回を観たのですが、TOHOシネマズ日比谷の3番シアターは満員でした。コロナ感染者が5000人を超えて「第7波」到来の可能性も叫ばれているのに、東京の人にはあまり危機感がないようですね。わたしの両横にも人が座っていました。というか、左横の席は空いていたのですが、上映開始直前に大きなポップコーンのカップを抱えた若い男性が駆け込んできました。わたしは「えっ、それを1人で食べるの?」と思うほどのビッグサイズでしたが、彼はずっとそれをボリボリ音を立てて食べていました。わたしは我慢して映画を観ていたのですが、なんと彼がわたしに向かって「すみません、声がうるさいですね」と言ってきたので驚きました。もちろん、わたしは話してなどいませんし、声も立てていません。念のため、右隣の方に「わたし、声を出していましたか?」と尋ねましたが、答えは「いいえ、そんなことないですよ」でした。なんか左隣の男性が不気味に思えてきて、映画よりも彼の方がホラーでしたね。
まあ、これまではコロナで映画館が満席になる経験から遠ざかっていたので、久々に密になったわけですが、両横の席に人がいるだけで、息づかいや咳払いなどにストレスを感じるのかもしれません。ポップコーンといえば、ブログ「ザ・ロストシティ」で紹介した映画でも、右側の席に大きなポップコーンを抱えた女性が1人で座っていたことを思い出しました。そのときは「ポップコーンを食べる音がするのが映画館の当たり前」と肯定的にとらえたのですが、まあ「ザ・ロストシティ」も「ブラック・フォン」も、いわゆるポップコーンムービーということなのでしょう。ポップコーンムービーとは、ポップコーンを片手に気楽に鑑賞できるような映画のことです。シリアスな内容が極力含まれない愉快な内容の映画を指します。本格的に映画に集中すると、ポップコーンどころではありませんが、そこまで集中せずに観ることができます。というか、多少シーンを飛ばしたとしても、大筋に影響がない内容なのが、ポップコーンムービーの特徴ですね。
「ブラック・フォン」の主人公フィニーは気弱な少年です。学校でいじめられているのですが、いじめられっ子たちを避けて男子トイレに逃げ込んだところ、そこに乗り込んできたいじめっ子たちから「ここは俺たちのトイレだ。お前は女子トイレに行け!」と言われるシーンがありました。要するにフィニーが男らしくなく、女の子みたいだというわけです。その場面を観て、わたしはアメリカで起こった事件を連想しました。4日、イリノイ州で行われた独立記念日を祝うパレードで銃の乱射事件がありました。警察は、ロバート・E・クリモ3世容疑者(21)が合法的に購入したライフルを使用したと発表、建物の屋上から70発以上発砲し、女装して逃走したと明らかにしました。クリモ容疑者の犯行動機は不明ですが、発表された彼の顔や女装姿の写真から、わたしは一条真也の映画館「ミッドナイトスワン」で紹介した日本映画の主演俳優・草彅剛の女装姿に似ているなと思いました。「ブラック・フォン」では、いじめっ子が逆にボコボコにされるシーンも登場しますが、喧嘩や格闘技の達人でも銃には勝てません。合法的に銃が購入できるアメリカで、どれだけの数のいじめらっれ子たちが銃での復讐を夢想しているかと思うと、ゾッとします。
「ブラック・フォン」を観て、わたしが連想したのは銃乱射事件だけではありません。ある1人の映画監督も連想しました。M・ナイト・シャマランです。そして、彼の最高傑作と最低の駄作の両方の要素が「ブラック・フォン」に影響を与えているように思いました。M・ナイト・シャマランの最高傑作といえば、ご存知、「シックス・センス」(1999年)です。わたしはこの作品が大好きで、映画館での鑑賞のみならず、DVDでも何度も観ました。ブルース・ウィリス演じる精神科医のマルコムは、かつて担当していた患者の凶弾に倒れます。リハビリを果たした彼は、複雑な症状を抱えたコールという少年の治療に取り掛かるのですが、コールには死者を見る能力としての「シックス・センス(第六感)」が備わっているのでした。マルコムはコールを治療しながら、自身の心も癒されていくのを感じますが、最後には予想もつかない真実が待ち受けていました。サスペンス・スリラー映画の最高傑作であるのみならず、コールの死者への接し方にはオカルトを超えた仏教的な世界観さえ感じました。この映画を観たとき、わたしは「シャマランは天才だ!」と思いました。ちなみに、「ブラック・フォン」のフィニーは死者と交流しますし、フィニーの妹のグウェンには明らかに「シックス・センス」が備わっています。
一方、M・ナイト・シャマランの最低の駄作とは、一条真也の映画館「スプリット」で紹介した2017年の映画です。高校生のケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)は、クラスメートのクレア(ヘイリー・ルー・リチャードソン)の誕生パーティーに招待される。帰りは、彼女とクレアの親友マルシア(ジェシカ・スーラ)をクレアが車で送ってくれるが、途中で見ず知らずの男性(ジェームズ・マカヴォイ)が車に乗り込んでくる。彼に拉致された三人は、密室で目を覚まします。女子高校生たちを連れ去った男が、23もの人格を持つ解離性同一性障害者だったという衝撃的な物語が展開されます。複雑なキャラクターを演じたのは、「X−MEN」シリーズなどのジェームズ・マカヴォイ。高校生対23の人格による激しい攻防戦はそれなりの見所でしたが、いかんせんラストのどんでん返しが最低過ぎました。この犯人の拉致ぶりとか、意外な監禁場所なども「ブラック・フォン」によく似ていると思いました。
もう1本、「ブラック・フォン」を観て連想したホラー映画があります。2012年のイギリス映画「恐怖ノ黒電話」です。離婚し、環境を変えようとしている主人公メアリーが引っ越してきたアパートには、すでに回線の繋がった古い黒電話が据え付けてありました。電話をかけてきた相手の姿が見えない分、恐怖感や切迫感が増幅され、真綿でジワリジワリと首が絞められてゆくような感覚に苛まれるのです。「恐怖ノ黒電話」では、主人公に頻繁に電話をかけてくる相手は中年女性で、ローズという名でした。孤独で誰かと話したがっているローズは、「台所に収納庫があるでしょ? 入って右手の壁に絵を描くわ。その絵が、私が過去にいる証拠になるはず。確認してみて」と言い、電話を切ります。メアリーは収納庫の内側の壁を見るが、絵はありません。しかし、ヘラで壁紙を剥がしてみると、そこにバラの絵が描いてあったのです。「ブラック・フォン」にもこれにそっくりの描写がありました。そもそも、ブラック・フォンとは黒電話のことですね。
『唯葬論』(三五館)
「恐怖ノ黒電話」では過去からの電話が描かれていましたが、「ブラック・フォン」に登場する黒電話では死者からのメッセージが告げられます。ネタバレになるといけませんが、主人公フィニーは多くの死者たちからのメッセージで窮地を切り抜けます。わたしは、これをホラー映画の超常現象というより、ある行為のメタファーではないかと思いました。その行為とは、ずばり読書です。拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)の「交霊論」にも書いたのですが、わたしは、読書という行為は死者と会話をすること、すなわち交霊術であると考えています。というのは、読書とはもともと著者の魂と読者の魂の交流であると思うのですが、著者は生きている人間だけとは限りません。むしろ古典の著者は基本的に亡くなっています。つまり、死者です。死者が書いた本を読むという行為は、じつは死者と会話しているのと同じことなのです。このように、読書とはきわめてスピリチュアルな行為なのです。
『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)
2001年にわたしが社長に就任したとき、わが社は危機的状況にありました。それを、拙著『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)にも書きましたが、わたしは『論語』での孔子という故人の言葉を心の糧にしながら、その状況から逃げずに運命に挑みました。他にも、渋沢栄一や出光佐三や松下幸之助や安岡正篤や中村天風といった故人の著作を読んで経営者としての考え方を固めました。さらには、ドラッカー(読み始めた頃は存命でしたが、すぐに亡くなりました)の著作を読んで経営戦略を立てたのです。多くの死者たちのメッセージを受け止め、それらを愚直に実践していった結果、わが社は数年で多額の借金を完済し、売上も利益も急増して、Ⅴ字回復を果たすことができました。読書によって救われたわけですが、わたしは死者たちによって救われたと思っています。死者たちのメッセージによって現実の危機を乗り切ったという点で、「ブラック・フォン」の黒電話は読書のメタファーだと思った次第です。そんなことを考えながら映画を観ていたところ、まさに例のポッポコーン男から「すみません、声がうるさいですね」と囁かれたのでした。天地神明に誓ってわたしは声を出してはいませんが、もしかすると彼はわたしの心の声を聴いていたのではないかと思えてきました。ということは、あいつ、シックス・センスだったのか!