No.640


 10月18日の夜、一条真也の映画館「スペンサー ダイアナの決意」で紹介した映画を観た後、ダイアナ元皇太子妃についてもっと詳しく知りたくなり、TOHOシネマズシャンテに移動してドキュメンタリー映画「プリンセス・ダイアナ」を観ました。ダイアナの生涯とは深いグリーフに包まれたものであったと痛感しました。また、彼女の結婚式と葬儀のシーンが圧巻で、じつは極上の冠婚葬祭映画でもありました。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「イギリスのダイアナ元皇太子妃の半生をアーカイブ映像で振り返るドキュメンタリー。チャールズ皇太子とのなれ初めやロイヤルウエディング、二人の息子の誕生、離婚、慈善活動、世界中に衝撃を与えた事故死と葬儀まで、さまざまな場面を映し出すとともに、有名人と大衆の関係やメディアの問題を浮かび上がらせる。監督を『本当の僕を教えて』などのエド・パーキンズが務める」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、「1981年、イギリスのチャールズ皇太子はスペンサー伯爵の令嬢、ダイアナと結婚する。二人の息子が誕生し、幸せの絶頂にあったダイアナ妃だったが、チャールズ皇太子の不倫や彼女自身のスキャンダルなどが重なり、別居を経て1996年に離婚が成立する。そして1997年8月、ダイアナはフランスで交通事故に遭い、帰らぬ人となってしまう」です。
 
「プリンセス・ダイアナ」はイギリスのダイアナ元皇太子妃の半生を描いた初の劇場用ドキュメンタリーです。1981年にチャールズ皇太子と婚約する数週間前から1996年の突然の死までの約16年間にスポットを当てています。特に、歴史に残るロイヤルウェディングのシーンが圧巻です。1981年2月に王太子と婚約し、7月29日にセント・ポール大聖堂で結婚式を執り行いましたが、大聖堂に到着したダイアナは、バージンロードを父とともにゆっくり進み、王立海軍礼服を着用して待つチャールズ皇太子の横に立ちました。この結婚式の模様はテレビ中継され、全世界70か国7億5000万人もの人々が見守っていました。ダイアナが全世界の人々の視線を釘付けにした瞬間でした。王室が若く美しいイギリス人妻を迎えたことで、それを祝福する英国民の熱狂ぶりはすさまじく、時代遅れと見られていた君主制へ好意的な見方をする人々が一気に増えました。イギリスの人気も世界中で急上昇しました。ダイアナは、チャールズと結婚することによってイギリス王室および英国に最大級の貢献をしたのです。
 
 ダイアナの結婚生活は、とにかくマスコミとパパラッチに追われ続けた毎日でした。いや、結婚する前からすでにそうでした。1980年秋にはマスコミが皇太子とダイアナの交際を突きとめました。この時から昼夜問わずマスコミがダイアナのところへ押し寄せてくるようになり、ダイアナに私生活は無くなったのです。映画の冒頭シーンにもあるように、当時ダイアナが勤務していた幼稚園にまでマスコミがやって来るようになりました。彼女の赤いローバー・メトロは何台ものマスコミの車から追跡を受けるようになりました。タブロイド紙には彼女と皇太子が婚前交渉をしたという捏造記事まで出て、彼女はひどく傷つきました。娘を不憫に思った母フランセスは「タイムズ」紙に宛ててプライベート無視のマスコミ報道を批判する手紙を送りました。これがきっかけとなり英国議会も「ダイアナ・スペンサー嬢に対するマスコミの扱いを遺憾に思う」とする批判動議を決議。しかし、マスコミはスクープを物にしようとダイアナ追跡を続けました。それは離婚後も、彼女が自動車事故で死ぬ瞬間まで続いたのです。
 
 おそらくは人類史上最大級のマスコミからの追求を受けて深い悲嘆を抱いたダイアナは、彼女の私生活に関する暴露本が出版された後、1995年11月放送のBBCテレビ番組「パノラマ」のインタビュー録画映像に出演。このインタビュー映像はイギリスのみならず日本を含む101カ国で放送されました。その中で彼女は皇太子と不倫相手のカミラの関係について「この結婚生活には3人の人間がいたのです。少し窮屈すぎますね」と表現しました。また彼女自身もヒューイットと不倫していたことを認めました。結婚生活が崩壊した責任はどちらにあるのかという質問に対しては「半分は私にあると思います。しかしそれ以上ではありません」と述べ、離婚するのかという質問に対しては「私は離婚を望んでいません。夫の決断を待っています」と述べました。そして自分が王妃になると思うかという質問に対しては「思いません。(私は皆さんの)心の王妃になりたいです。チャールズも国王になることには葛藤があります」と述べた。この放送はドキュメンタリー番組としては過去最高の視聴率を記録しました。
 
 その後、ダイアナとチャールズは離婚交渉に入り、1996年8月28日の離婚確定判決をもって正式にダイアナと皇太子の結婚生活は幕を閉じました。離婚後王室の公務が無くなったダイアナは、その隙間を埋めるようにこれまで以上に国際的慈善活動に積極的に取り組みます。特にエイズ問題、ハンセン病問題、地雷除去問題への取り組みに熱心でした。1997年1月にはBBCの取材チームとともに内戦の影響で地雷の多いアンゴラを訪問。地雷原を歩く姿をマスコミに撮影させ、地雷問題への世界の関心を集めました。1996年12月にアメリカ元国務長官ヘンリー・キッシンジャーはダイアナを「今年の人道主義者」に選出し、ダイアナはニューヨークでの授賞式に出席しています。1997年6月25日にはニューヨーク・マンハッタンで自分のドレスのオークションを行い、その売上金はエイズ・癌患者に寄付しました。「思いやり」や「慈悲」や「隣人愛」などを英語で「コンパッション(compassin)」といいますが、ダイアナはまさにコンパッションの人でした。彼女が王妃になっていたら、「コンパッション・クイーン」としてどれほど世界の平和や福祉に貢献できたことだろうかと思ってしまいます。おそらくは、ノーベル平和賞を受賞したのではないでしょうか?
 
「プリンセス・ダイアナ」で、離婚後のダイアナの慈善活動ぶりを見ながら、わたしは一条真也の映画館「オードリー・ヘプバーン」で紹介したドキュメンタリー映画を思い出しました。「プリンセス・ダイアナ」と同じTOHOシネマズシャンテで観た作品ですが、この映画を観て、わたしは、"永遠の妖精"と呼ばれたオードリーが幼少期に経験した父親による裏切りで深い悲嘆を生涯にわたって抱えていたことを知りました。その結果、彼女は父親の面影を感じる男性と3度の結婚をすることになるのですが、いずれも破綻しました。2人目の夫である医師のアンドレア・ドッティなどは、オードリーという世界的な美女を妻としながら、なんと200人もの女性と不倫をしたといいます。夫から裏切られ続けたというグリーフを抱えていた点で、オードリーとダイアナは共通しています。離婚やパパラッチといったストレスから、オードリーはチェーンスモーカーとなっていきます。まさにパパラッチに追われ続けて心を病んだダイアナの悲しみに通じています。そして、1989年にオードリーはユニセフ国際親善大使に就任。世界的に活躍して、ユニセフの募金収入を大いに増やしました。夫から「愛されない」という悲しみから、恵まれない多くの人々を「愛すること」への転換を図ったオードリーもダイアナも、大いなるコンパッションの人でした。
 
 1997年、ダイアナはパリで交通事故による不慮の死を遂げました。事故原因は運転手の飲酒だったとされていますが、これにはさまざまな陰謀説もあります。パパラッチが乗った車に追跡され、それを振り切るために猛スピードを出していたともされています。事故があった際、女王と皇太子はバルモラル城に滞在しており睡眠中でした。ダイアナの死を知った皇太子はパリに行って彼女の遺体を引き受ける決心をします。女王は「ダイアナは離婚してウィンザー家を去った人です。遺体は民間の安置所に安置されるべきです」と主張して反対したが、時の首相トニー・ブレアの支持も得て皇太子は女王を説得しました。午後7時、皇太子はダイアナの棺を王室専用機の中に運ばせてフランスを発ち、王立空軍のノーソルト基地(英語版)に帰国した。ダイアナの棺はそこからセント・ジェームズ宮殿へ運ばれました。ブレア首相はダイアナの遺体がイギリスに戻る直前に彼女についての演説を行い、「彼女は人々のプリンセスでした。そしてこれからも永遠に私たちの心と記憶に留まり続けるでしょう」と述べました。それを立証するかのようにイギリス国民が次々とバッキンガム宮殿やケンジントン宮殿にやってきてダイアナのために献花し、宮殿前は無数の花束で埋め尽くされました。
 
 ダイアナの棺を載せた霊柩車が通るときは、人々が花を投げ続け、霊柩車が花だらけになった映像が遺されています。これほど多くの人々から悲しまれた葬儀もなかなか存在しません。わたしは、ブログ「エリザベス女王の国葬」で紹介した葬儀を思い出しました。ダイアナにとっては窮屈な姑であったであろうエリザベス女王ですが、彼女もイギリス国民から愛されていたことが沿道で追悼する人々の姿からよくわかりました。国葬では、すっかり老人となったチャールズの姿がありましたが、彼は母親の国葬のとき、25年前のダイアナの国民葬を思い出したのではないでしょうか? エリザベス女王の国葬も荘厳で素晴らしかったですが、ダイアナの国民葬は葬儀という儀式の意味と重要性を見事に示したように思います。プリンセス・オブ・ウェールズことダイアナは、人類史上最も注目を集めた結婚式と葬儀の主役でした。それは、彼女が最も人類の記憶に残る「プリンセス」であった証かもしれません。