No.694


 3月24日の夜、この日から公開の日本映画「ロストケア」をシネプレックス小倉で観ました。わが社は「隣人館」という高齢者介護施設を運営していますので、介護殺人をテーマにしたこの映画は観ていて辛かったです。介護職という、この上なく尊い仕事への冒涜ではないかとも思いましたが、「ケア」の本質を問う素晴らしい力作でした。


 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『凍てつく太陽』などで知られる作家・葉真中顕の日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作を映画化。老人介護の現場で起きた連続殺人事件をめぐり、検事が事件の真相に迫る。『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』などの前田哲がメガホンを取り、『ストロベリーナイト』などの龍居由佳里が脚本を担当。殺人を犯した心優しい介護士を『聖の青春』などの松山ケンイチ、彼と向き合う検事を『MOTHER マザー』などの長澤まさみが演じる」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、「ある民家で老人と介護士の死体が発見され、死亡した介護士と同じ訪問介護センターで働く斯波宗典(松山ケンイチ)が捜査線上に浮かぶ。彼は献身的な介護士として利用者家族からの評判も良かったが、検事の大友秀美(長澤まさみ)は斯波が勤める施設で老人の死亡率が異様に高いことに気付く。そこで何が起きているのか、真相を明らかにすべく奔走する彼女に、斯波は老人たちを殺したのではなく救ったのだと主張する。彼の言説を前に、大友は動揺する」となっています。

 映画と同名の原作小説は、2013年に葉真中顕によって書かれました。戦後犯罪史に残る凶悪犯に降された死刑判決。その報を知ったとき、正義を信じる検察官・大友の耳の奥に「悔い改めろ!」という痛ましい叫び声が響きました。介護現場に溢れる悲鳴、社会システムがもたらす歪み、善悪の意味......。現代を生きる誰しもが逃れられないテーマに、圧倒的リアリティと緻密な構成力で迫る!全選考委員絶賛のもと放たれた、日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作です。

 この映画、何よりも主演の松山ケンイチの演技力が圧倒的でした。彼の代表作である「デスノート」のエルを連想させるような妖気漂う表情は凄みがありましたね。彼が演じる介護士・斯波宗典が42人の老人を殺害したことは冒頭で明かされています。よって、この映画ミステリーとしての犯人探しの要素はなく、しまうため、ポイントはその動機となります。「なぜ、献身的な介護士だった斯波が大量殺人を犯したのか」という問いから、介護をめぐる現代日本社会の実情と生死を超えた「人間の尊厳」という深いテーマが浮かび上がります。取り調べ中に「自分は殺したのではない。救ったのだ」と一貫して喪失の介護(ロストケア)を主張する斯波には一切の迷いはなく、後悔もなく、その佇まいは殺人鬼というよりまるで聖者のようでした。

 その斯波と白熱の取り調べを繰り広げる検事の大友秀美を演じた長澤まさみも熱演でした。彼女自身、母親を老人ホームに預けているという自責の念、離婚して20年前に別れた父親が孤独死するのに助けの手を差し伸べす、見殺しにしたというトラウマを抱えていました。そんな彼女は、「殺したのではない。救ったのだ」とロストケアを主張する斯波に感情の昂ぶりを抑えきれず、声を荒げてしまうこともしばしばでした。その超シリアスな演技は、一条真也の映画館「シン・仮面ライダー」で紹介した同時上映映画で「レッツ・パーティー!」と能天気な奇声をあげるサソリオーグを怪演した女優と同一人物とは思えないほどでした。「役者って凄いなあ!」と思った次第です。

 その松山ケンイチと長澤まさみが初共演を果たした映画「ロストケア」は、観る者の魂を揺さぶる問題作であり、大変な傑作でした。とにかく、これほど観て嫌な気分になる映画もそうそうありません。わたしにも老親がいますので、「もし、自分が斯波のような状況に置かれたら?」と考えると、暗澹たる気分になりました。重い認知症の親を抱えて、働きにも出ることができず、かといって生活保護を受けることもかなわず、絶望の淵にある方は多いと思います。そんな方が親御さんを亡くした場合、きちんと葬儀をあげることも難しいケースがあるなと思いました。

「ロストケア」を観て、「この嫌な感じ、前にも感じたな」と思いました。それは、一条真也の映画館「PLAN75」で紹介した日本映画を観たときの感じでした。日本の近未来を描いた作品ですが、暗く、悲しい物語でした。観る人によっては恐怖も感じたかもしれません。75歳以上の高齢者に自ら死を選ぶ権利を保障・支援する制度「プラン75」の施行された社会が、その制度に振り回される物語です。超高齢社会を迎えた日本で、75歳以上の高齢者が自ら死を選ぶ制度「プラン75」が施行されてから3年、自分たちが早く死を迎えることで国に貢献すべきという風潮が高齢者たちの間に広がります。78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)は夫と死別後、ホテルの客室清掃員をしながら一人で暮らしてきましたが、高齢を理由に退職を余儀なくされたため、「プラン75」の申請を考えるのでした。

「PLAN75」も「ロストケア」も、わたしは同じ映画館で鑑賞しましたが、ともに普段はあまり映画館を訪れないような雰囲気の高齢者の観客が多かったのが印象的でした。ともに映画がエンドロールを迎えて物語が終わっても、現代日本の高齢者問題の深刻さは変わらない事実を前に呆然とし、憂鬱になる点も似ています。「PLAN75」の主人公ミチは、家族もなく、頼れる親族もいません。いわば彼女は無縁社会の只中にいます。その意味では、「ロストケア」の老人たちは家族がいるだけでも幸せだとも言えますが、その家族が地獄のような思いをしているのでは、「何のために長生きするのか?」という根源的な問題に辿り着きます。

老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)



 日本では、2025年には国民のおよそ5人に1人が75歳以上になるといいます。超高齢化社会を迎える日本にとって、長生きする老人たちをどう支えていくのかは、本当に大きな問題です。拙著『老福論』(成甲書房)で、わたしは「高齢化社会=ディストピア」というネガティブ・シンキングを食い止める「老福」というキーワードを提唱しました。現代日本における自死者の多くは高齢者ですが、わたしたちは何よりもまず、「人は老いるほど豊かになる」ということを知らなければならないと訴えました。世界に先駆けて超高齢社会に突入した現代の日本こそ、世界のどこよりも老いを好む「好老社会」であることが求められます。日本が「嫌老社会」で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれるのです。まさに「天国か地獄か」であり、わたしたちは天国の道、すなわち人間が老いるほど幸福になるという思想を待つべきです。

 しかし、「ロストケア」は「老い」というよりも「痴呆症」の深刻さを描いています。一般に痴呆症は不幸なことであるとされますが、記憶を失うことは不幸なことではないという見方もあります。一条真也の読書館『解放老人』で紹介した本には、「認知症の豊かな体験世界」というサブタイトルがつけられていますが、認知症を"救い"の視点から見直した内容になっています。著者の野村進氏は、「重度認知症のお年寄りたちには、いわゆる"悪知恵"がまるでない。相手を出し抜いたり陥れたりは、決してしないのである。単に病気のせいでそうできないのだと言う向きもあろうが、私は違うと思う。魂の無垢さが、そんなまねをさせないのである。言い換えれば、俗世の汚れやら体面やらしがらみやらを削ぎ落として純化されつつある魂が、悪知恵を寄せ付けないのだ。こうしたありようにおいては、われらのいわば"成れの果て"が彼らではなく、逆に、われらの本来あるべき姿こそ彼らではないか」と述べています。

 さらには、痴呆老人について、野村氏は「人生を魂の長い旅とするなら、彼らはわれらが将来『ああはなりたくない』とか『あんなふうになったらおしまい』と忌避する者たちでは決してなく、実はその対極にいる旅の案内役、そう、まさしく人生の先達たちなのである」と述べるのでした。このように、一般的に良くない現状を「陽にとらえる」発想は、とても大切ですね。わたしたちは、認知症の人との心の断絶、あるいは心の距離の遠さを感じます。親から顔と名前を忘れられた子は、誰でも深い悲嘆を抱きますし、絶望することも多いことと思います。

グリーフケアの時代』(弘文堂)



 しかし、別に認知症でなくとも心の距離が遠い人は現実にたくさんいます。「ロストケア」に登場する斯波も大友は、生き方も考え方もまったく嚙み合っていません。しかし、この映画のラストシーンで2人は涙を流します。その涙を流すという行為において、2人の心は初めて通じたように思います。「涙は世界で一番小さい海」という言葉がありますが、人が涙を流すのは悲しいとき、嬉しいとき、感動したときなのです。つまり、心が共振したときに初めて共に涙を流すのです。そして、涙からは「共感」が生まれ、共感からは「慈悲」の心が生まれます。その意味で、「ロストケア」はコンパッション映画の名作であり、グリーフケア映画の傑作であると思いました。