No.702


 4月11日、一条真也の映画館「パリタクシー」で紹介したフランス映画を観た後、TOHOシネマズシャンテでイギリス映画「The Son/息子」のレイトショーを観ました。非常に重く暗いグリーフ映画であり、そこにケアは描かれていませんでした。同じ劇場で前日に観た一条真也の映画館「ザ・ホエール」で紹介した映画と対のような作品であると思いました。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ファーザー』などのフロリアン・ゼレール監督が、親子の心の距離にフォーカスした人間ドラマ。同作に続き自身の戯曲を映画化した家族3部作の第2弾で、新たな家族と幸せに暮らす弁護士が、思春期にさしかかった前妻との間の息子を受け入れる。製作総指揮も務めた『レ・ミゼラブル』などのヒュー・ジャックマンを主演に、『マリッジ・ストーリー』などのローラ・ダーン、『私というパズル』などのヴァネッサ・カービー、『ファーザー』で2度目のオスカーを受賞したアンソニー・ホプキンス、ゼン・マクグラスらが出演する」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「弁護士のピーター(ヒュー・ジャックマン)は新しいパートナーとの間に子供が生まれ、幸せな日々を過ごしていた。ある日、前妻が17歳の息子ニコラス(ゼン・マクグラス)を連れて現れる。息子は心に問題を抱えて苦しんでおり、ピーターのもとで暮らしたいというのだった。ピーターはニコラスを現在の家庭に迎え入れる」
 
 この映画のメガホンを取ったフロリアン・ゼレールの初監督作は、一条真也の映画館「ファーザー」で紹介したアンソニー・パーキンス主演映画です。この作品で、ゼレールは第93回アカデミー脚色賞を受賞しました。世界中で上演された舞台を映画化したヒューマンドラマで、年老いた父親が認知症を患い、次第に自分自身や家族のことも分からなくなり、記憶や時間が混乱していく様子が描かれています。第93回アカデミー賞において、脚色賞(クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール)、主演男優賞(アンソニー・ホプキンス)の二冠に輝いた作品です。ホプキンスは、史上最高齢受賞で、なんと授賞式にその姿を見せませんでした。認知症の父親の物語ですが、感動のヒューマンドラマというよりは、とてつもなく怖い映画でした。つまり、認知症患者の頭の中の妄想を描いているのです。
 
 そのアンソニー・ホプキンスが、本作「The Son/息子」にも出演しています。ヒュー・ジャックマン演じるピーターの少年時代に抑圧し続けた高圧的な父親を演じました。もっとも老人になってからは、成人したピーターを表面上は一人前に扱っていますが、自分への批判的な態度などが出ると、一変して高圧的な父親に戻ります。アメリカ映画の根底には「父と息子の対立」、さらに言えば「父殺し」のテーマがあるとされていますが、まさにピーターとその父親との関係は対立関係を連想させました。ピーターは少年時代に、父親から言われてトラウマになった言葉が3つありました。それは、「お前は、人生をどのように生きるつもりなのか?」「お前の年の頃、私はこうだった、こういうことをした」「お手上げだな」というものでした。この3つの言葉を心から憎んでいたにもかかわらず、息子のニコラスに同じことを言ってしまったピーターは呆然とします。非常に考えさせられるシーンでした。
 
 ピーターは、自分を抑圧し続けた父を無意識のうちに憎んでいました。一方、ピーターの息子であるニコラスは父親を尊敬し、深い愛情を抱いているように思えます。フロイトの精神分析の用語である「エディプス・コンプレックス」とは、ギリシア神話のエディプス王の悲劇的運命になぞらえて作られた概念です。神話によればエディプス(オイディプス)王は、父親を殺害して母親と結婚するという運命を担っていましたが、男の子は3歳から6歳にかけて、エディプス王と同じように、父親に敵意を抱き、母親に対して愛情を求めようとする性的願望をもっているとみなされました。しかし、ニコラスの場合は父親に敵意をいだくどころか慕っているわけですから、ある意味で「逆エディプス・コンプレックス」のように感じました。もっとも、ピーターの後妻に対してはニコラスは敵意を示し続けます。最後は悲劇が待っているのですが、ピーター夫妻とニコラスが笑いながらダンスに興じる様子はこの映画で唯一、心温まるシーンでした。
 
 わたしは、TOHOシネマズシャンテで「ザ・ホエール」「The Son/息子」の両作品を2日続けて観たわけですが、ともに人間の業のようなものを描いた暗い暗い映画でした。両作品に共通しているのは、主人公が家族を捨てて新しい恋に入ったことによって悲劇が生まれた点です。「ザ・ホエール」のチャーリーは娘を捨て、「The Son/息子」のピーターは息子を捨てました。2人とも自分の人生をより輝かせるために、自らの欲望に従って新しい恋を選んだわけですが、その結果、彼らの娘や息子は深く傷つきました。ニコラスがピーターの後妻に「どうして、パパが既婚者だと知っていて、あなたは止めなかったの?」と問うシーンがありましたが、離婚によって傷つく子どもの姿はどこの国でも、いつの時代でも哀れです。子どもには人生を選択する力がなく、大人たちの思いのままに流されるだけだからです。その無力な子どもから、チャーリーもピーターも復讐を受けます。
 
「ザ・ホエール」のチャーリーは同性の恋人を亡くしたことによって深いグリーフを抱き、それが270キロの巨体につながる過食症を引き起こしました。「The Son/息子」のニコラスは深刻な鬱病を患っています。前作「ファーザー」では認知症の恐怖を見事に描いたフロリアン・ゼレールですが、今回の「The Son/息子」では鬱病の恐怖を描いています。鬱の最も怖いところは自死の衝動を引き起こすところです。9月1日からクランクインするグリーフケア映画「君の忘れ方」(仮題)の原案である拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)には「親を亡くした人は過去を失う。配偶者を亡くした人は現在を失う。子を亡くした人は未来を失う。恋人・友人・兄弟を亡くした人は自分の一部を失う」と書かれていますが、子どもを亡くした人は未来を失うだけでも深い悲嘆を抱えるのに、それが自死によるものだったとしたら、その悲しみの大きさは如何ばかりでしょうか?
 
 わたしは、「The Son/息子」を観て、ノンフィクション作家の柳田邦男氏が書かれた『犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日』の内容を思い出しました。第43回菊池寛賞を受賞した名著です。冷たい夏の日の夕方、25歳の青年が自死を図りました。意識が戻らないまま彼は脳死状態になりまいした。生前、心を病みながらも自己犠牲に思いを馳せていた彼のため、父親は悩んだ末に臓器提供を決意します。医療や脳死問題にも造詣の深い著者が最愛の息子を喪って動揺し、苦しみ、生と死について考え抜いた11日間の感動の手記です。同書の「あとがき」に、柳田氏は「実は、去年の夏、息子を喪くしまして、自分で命を断ったのですが、息子のためにその追悼記を書いてやりたいのです。25歳の次男のほうです。心を病んでたんです......。まだ1年もたっていないんですが、このところ急に追悼記を書いてやりたいという思いがこみ上げてきましてね。書くことしかできない作家の業というのかなぁ」と書かれています。あまりにも悲しい手記ですが、心を病んでいる家族のいる人にとって、また愛する家族を自死で亡くされた方にとって、闇の中でかすかな光が見えるような本です。