No.714


 東京に来ています。5月25日、日比谷のホテルで映画関係の打ち合わせを終えた後、シネスイッチ銀座でフランス映画「それでも私は生きていく」を観ました。親の介護や育児をしながら恋愛もし、懸命に生きるシングルマザーの物語です。主人公が何度も泣き出して、かわいそうでした。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』などのレア・セドゥ主演によるドラマ。仕事、介護、育児に忙殺されるシングルマザーが、偶然再会した旧友の男性と恋に落ちる。監督は『ベルイマン島にて』などのミア・ハンセン=ラヴ。『クララ・シューマン 愛の協奏曲』などのパスカル・グレゴリー、『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』などのメルヴィル・プポーのほか、ニコール・ガルシア、カミーユ・ルバン・マルタンらが共演する」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、「サンドラ(レア・セドゥ)は、パリの小さなアパートで8歳の娘リンと二人暮らしをしながら、通訳者として働いている。父のゲオルグ(パスカル・グレゴリー)は哲学の教師だったが、病で視力と記憶を失いつつあり、サンドラは別居する母フランソワーズと共に父のもとをたびたび訪ねては介護にあたっていた。育児、介護、仕事で息をつく暇もないサンドラだが、旧友のクレマン(メルヴィル・プポー)と偶然再会し、彼と恋仲になる。彼女は恋にときめく一方で、病を患う父に対するやるせない思いを募らせる」です。
 
 フランス映画には、男女の出会いのシーンが満載ですが、この映画ではレア・セドゥ演じるサンドラが旧友のクレマン(メルヴィル・プポー)と公園で偶然再会します。そのときの会話が洒落ていて、クレマンが「シュヴァルツェンバッハは読んだ」と言います。1930年代、ナチスに迎合する富豪の両親に反発し、同性の恋人と共に中近東を旅したスイス人作家の本です。サンドラが「あげた本ね」と言えば、彼は「約束の地はどこ?」という書名を口にします。以下、「南極調査に向かう船で読んだ」「よかった?」「本か? 気に入ったよ」「船酔い以外はよかった」「話を聞かせて」「電話して」「あなたから」「僕から?」「旅人はそっちよ」という会話が展開されますが、なんとも知的でオシャレですね。
 
 しかし、この映画がすべて洒落た会話で構成されているわけではありません。偶然の再会から恋仲になった2人ですが、クレマンがサンドラのアパートを訪ねて「ヴァレリーが知った」と言います。ヴァレリーといえば、フランスにはポール・ヴァレリーという有名な作家・哲学者がいますが、この場合はクレマンの妻の名前です。要するに、2人の不倫関係が妻にバレたというのです。言葉を失うサンドラに対して「僕が話した。耐えられなくて」と言うクレマン。「何を言ったの?」「事実さ。君に恋していると。彼女は冷静に僕を追い出した」「息子は?」「まだ知らない。勘づいてはいるだろうけど」「どう説明したの?」「数日間、出張だと言った」といったように、まったくオシャレではないドロドロした会話が展開されるのでした。
 
 偶然の再会から恋仲になった2人は、お互いの体を求め合います。会えば、必ずセックスをします。しかし、妻子持ちであるクレマンは良心の呵責を感じたのでしょう。ある日、セックスをせずに「今日は他のことをしないか?」とサンドラに言います。自分への情熱を失ったのではないかと疑いの念を抱いた彼女は「もう好きじゃなくなったの?」と問い詰めますが、彼は「いや、そうじゃない。君の体も好きだけど、君と話をするのも好きなんだ」と言うのでした。このクレマンの気持ちは同じ男としてよく理解できますが、サンドラはそうはいきません。彼女は「じゃ、何をしたい? 美術鑑賞?」と語気を荒げて言います。彼は「傷ついた? 正気じゃないな」と言うのですが、結局、2人はオランジュリー美術館に行って、モネの「睡蓮」を鑑賞します。獣のように互いの肉体を貪るだけでなく、同じ芸術作品を観て感想を述べ合うことは最高に素敵なデートだと思うのは、わたしが還暦を迎えて男女関係に関して達観した証でしょうか?
 
 サンドラの父親は哲学教師でしたが、病気で視力と記憶を日々失っていきます。常に目を使って読書し、頭を使って哲学的問題を考えてきた人にとっては悲劇的な事態ですが、サンドラは父親の蔵書を教え子に譲ることになります。教え子が父の蔵書を書棚に収める作業を娘と一緒に手伝いながら、サンドラは娘と「書棚が残ることが大切なの。本人よりも本を見るほうがパパを感じる」「何で?」「施設にいる人より書棚のほうがパパらしいから。肉体と魂の違いってこと」「他人が書いた本だよ」「でも選んだのはパパよ」「選んだ本から人間性が見える」「それぞれの本に色があって、合わせるとパパの肖像画になるの」といった会話を交わすのですが、非常に感動しました。蔵書を合わせると、その所有者の肖像画ができるというのは、その通りだし、とても素敵な表現だと思います。本に限らず、映画のビデオやDVDや音楽のレコードやCDでも同じことが言えるように思います。
 
「それでも私は生きていく」という映画は心に響くセリフの宝庫ですが、夜の街を歩くサンドラとクレマンの会話も印象的でした。サンドラが「頼みがあるの。万が一、私たちが30年後も付き合ってて、私が父と同じ病気になったらとしたら...」と言うと、クレマンは「遺伝性疾患じゃない」と慰めます。彼女は、「母はそう言うけど怪しいわ。怖いからネットは見てない。約束して。手遅れになる前に安楽死させると・・・」と言います。笑いながら「楽しい話題だな」と言う彼に対して、彼女は「スイスの湖畔のクリニックに連れていってね。私が意思を示せるうちに。発症したらすぐによ。約束して、誓える?」と泣きながら懇願します。彼は「君も同じ約束をして」と言えば、彼女は「約束する」と言います。そして、彼が「この話は終わり。まだ数年は楽しもう」と言って、2人は熱いキスをするのでした。このような死生観についての会話ができる男女と言うのは恋愛の上級編だと思いました。体だけでなく、心も魂も繋がろうとしているからです。
 
 サンドラとクレマンの安楽死に関する会話を聴いて、わたしは一条真也の映画館「すべてうまくいきますように」で紹介したフランス映画を思い出しました。フランソワ・オゾン監督が、安楽死を巡る父と娘の葛藤を描く人間ドラマです。脚本家エマニュエル・ベルネイムによる小説を原作に、人生の意味や家族の愛を問いかけています。人生を謳歌していた85歳のアンドレ(アンドレ・デュソリエ)は脳卒中で倒れて体が不自由になり、娘のエマニュエル(ソフィー・マルソー)に人生を終わらせる手助けをしてほしいと頼みます。戸惑う彼女は父の考えが変わることを期待しつつも、合法的な安楽死を支援するスイスの協会と連絡を取り合います。一方、リハビリによって順調に回復するアンドレは積極的に日々を楽しみ、生きる希望を取り戻したかのようでした。しかし、彼は自ら定めた最期の日を娘たちに告げ、娘たちは葛藤しながらも父の決断を尊重しようとするのでした。この映画には、「それでも私は生きていく」でサンドラが涙ながらに連れて行ってほしいと訴えたスイスの湖畔のクリニックが重要な舞台となるのでした。

死を乗り越える読書ガイド』(現代書林)
 
 
 
「死生観は究極の教養である」とはわたしの口癖であり、拙著『死を乗り越える読書ガイド』(現代書林)の帯のキャッチコピーにも使いました。「すべてうまくいきますように」にしろ、「それでも私は生きていく」にしろ、最近のフランス映画には安楽死をはじめとした死生観が色濃く漂っているように思います。それはフランスが哲学王国だからということも関係していると思います。哲学といえば、その祖は古代ギリシャのソクラテスだと言われていますが、彼は「哲学は死の予行演習」という言葉を後世に遺しています。ソクラテスは、紀元前469年ごろアテナイに生まれ、スパルタと戦ったペロポネソス戦争に従軍した他は、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。ソクラテスの裁判の模様、獄中および死去の場面は、弟子プラトンが書いた「対話篇」と呼ばれる哲学的戯曲の諸作品、すなわち『エウチュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しく描かれています。ソクラテスほど、わたしたちに生と死について考えさせる哲学者はいません。彼は常に人間の幸福というものを追求しました。
 
 人間のための哲学をつくろうとしたソクラテスは、「人間の生を幸福にするためには何をすべきか」と自問して、次のように考えました。ただ生きることは人間の生ではない。人間の生は人間らしい生でなければならず、それには「善(よ)く生きる」ことが大切である。これを言い換えれば、「正しく生きる」ということなのである。そして、そのためには「いかなる仕方でも、不正を犯してはならない」、さらには「たとえ不正を加えられても、不正の仕返しをしてはならない」ということが大切になる。このように、ソクラテスは、倫理性こそが人間を人間であらしめていると考えたのです。さらに人間が幸福になるためには、哲学をすればよいとソクラテスは言います。哲学は幸福への道だというのです。そして、その幸福への道の哲学とは何かというと、「死の予行演習だ」と答えました。それは限られた人生の中で、本当に自分の生が充実するものはどこにあるかを探してみなければならないということ。さらには、肉体という牢獄に繋がれている魂が解放されて自由になることが「死」と「哲学」に共通した営みであるということ。この死の思想こそソクラテス哲学の神髄であり、弟子のプラトンにも受け継がれたものでした。
 
「プラトニック・ラブ」という言葉を聞いたことがない人は少ないと思います。純愛とか精神的恋愛の響きがありますね。「プラトニック」とはプラトン的ということで、古代ギリシアの哲学者の名前が「愛」という普遍的な概念と結びついて、今でも日常的に使われているというのは、考えてみればすごいことです。愛の起源についての最も有名で、最も古いエピソードは、プラトンによるものです。その話は紀元前4世紀、アテネにはじまります。当時新進気鋭の哲学者だったプラトンは『饗宴』というタイトルの小冊子を書こうと決心します。これは、すでに故人となった彼の恩師、ソクラテスを讃えるためのものでした。その『饗宴』の中で、プラトンは、喜劇作家のアリストファネスが語ったという設定で、人間はもともと球体であったという「人間球体説」を紹介しました。元来は1個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するものだというのです。ゆえに、『饗宴』の中には、「愛は一つになりたいという願いである」という言葉が登場します。
 
 何年も何年も別れた半球をさがし求め、無駄に終わった者もいれば、幸運に恵まれた者もいました。そして、これこそが愛の起源でした。愛は心の底にある強い憧れであり、完全になりたいという願いであり、自分とぴったりの相手にめぐり合えたときには、故郷に帰って来たような気がします。そして元が1つの球であったがゆえに湧き起こる、溶け合いたい、1つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情だというのです。プラトンはこれを病気とは見なさず、正しい結婚の障害になるとも考えませんでした。人間が本当に自分にふさわしい相手をさがし、認め、応えるための非常に精密なメカニズムだととらえていたのです。「そういう相手がさがせないなら、あるいは間違った相手と一緒になってしまったのなら、それは、わたしたちが何か義務を怠っているからだとプラトンはほのめかしました。
 
 そして、精力的に自分の片割れをさがし、幸運にも恵まれ、そういう相手とめぐり合えたならば、言うに言われぬ喜びが得られることをプラトンは教えてくれたのです。そして、自分の片割れの半球体かどうかを知るポイントが、本や映画や音楽や絵画などの好みではないでしょうか。なぜなら、読書や映画鑑賞や音楽鑑賞や絵画鑑賞とは「魂」に養分を与える営みであり、個々の作品が好きか嫌いかは、魂のパートナーとしての「ソウルメイト」であるかどうかを判定するリトマス試験紙だからです。そして、その中でも総合芸術である映画の好みは最も魂の相性を示すものだと思います。この「それでも私は生きていく」という映画はエンターテインメント要素は少なく、どちらかというと重い内容の作品ですが、「愛」の本質については見事に描いているように感じました。美術館もいいですが、やはり恋人たちのデートは映画館へ行くのが王道です。同じ映画を観て感動を分かち合い、鑑賞後に感想を述べ合う。これ以上に素敵な恋愛があるでしょうか?