No.755


 東京に来ています。8月21日は、一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会の創立50周年記念式典や記念祝賀会に参加しました。その日の朝、ヒューマントラストシネマ渋谷で映画「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」を観ました。悪趣味かつ不健康な作品といった印象です。唯一の救いは、主演女優のレア・セドゥが最高に美しかったこと。
 
 映画ナタリーの「解説」には、「第75回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品された近未来SF。進化した人類が痛覚を失くし、臓器にタトゥーを施すショーを行うアーティストを描く。監督は『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のデヴィッド・クローネンバーグ。主演は『グリーンブック』のヴィゴ・モーテンセン。共演はレア・セドゥ、クリステン・スチュワートら」とあります。
 
 映画ナタリーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「人工的な環境にも適応した人類は、痛みの感覚を失う。"加速進化症候群"のアーティスト・ソールは、体内で新しく生じた臓器にパートナーがタトゥーを施すショーで人気だった。一方、政府は誤った進化の暴走の現状を監視するために"臓器登録所"を設立して......」
 
「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」は、なんとも気味の悪い映画です。カンヌ映画祭で途中退場した観客が多かったとか。近未来、地球に住む人類は、悪化していく環境に適応するために進化を続けます。痛感の摘出など生物学的構造の変容を遂げた人々が暮らすグロテスクな世界。自らの臓器を摘出するライブショーの人気パフォーマーであるソール(ヴィゴ)とパートナーのカプリース(レア・セドゥ)のもとに、ショーで使ってほしいと生前プラスチックを食べていた遺体が持ち込まれます。
 
 デヴィッド・クローネンバーグの映画は、一貫して人体の変化を描いています。わたしが最初に観た彼の作品は、「ビデオドローム」(1983年)でした。暴力やポルノが売り物のケーブルテレビ局を経営するマックス(ジェームズ・ウッズ)は、ある日、部下が偶然に傍受した電波から「ビデオドローム」という番組の存在を知ります。その番組には、拷問や殺人といった過激な場面が生々しく映し出されていました。やがて「ビデオドローム」は見た者の脳に腫瘍を生じさせ、幻覚を見せるものであることがわかり、「ビデオドローム」に支配されたマックスの世界も均衡を失っていきます。生き物のように脈打つブラウン管テレビの画面や機械と混じり合う肉体が印象的でした。
 
 「ザ・フライ」(1986年)も忘れることはできません。科学者のセス(ジェフ・ゴールドブラム)は記者のベロニカ(ジーナ・デイビス)に開発中の物質転送装置を公開します。生物の転送実験で失敗が続きますが、やがてセスは自らの体を転送することに成功。しかもその後、彼の体には驚異的な活力が備わります。セスは、転送装置に1匹のハエが紛れ込んでいたこと、そしてそれが転送後にセスの体と遺伝子レベルで融合したことを知るのでした。彼の肉体はみるみる変化し、ついには惨たらしい姿になります。1958年作「蝿男の恐怖」のリメイク作品で、おぞましくも悲痛なドラマが展開します。
 
 さらには、「イグジステンズ」(1999年)を観たときも強烈な印象が残りました。未来、人々の娯楽は脊髄に生体ケーブルを直結してプレイする究極のヴァーチャルリアリティ・ゲームでした。ゲーム界のスターである美貌の天才ゲームデザイナーのゲラー(ジェニファー・ジェイソン・リー)の新作ゲーム"イグジステンズ"の発表会で、ゲラーは小動物の骨でできた銃を持つ男に襲われる。たまたま居合わせた警備員見習いのパイクル(ジュード・ロウ)は重傷のゲラーを託され、間一髪で混乱する会場から逃げ出します。脊髄の損傷を恐れてゲームをプレイしたことがないパイクルでしたが、ゲラーに説き伏せられ2人でゲームを始めることになるのでした。
 
「イグジステンズ」では、脊髄にバイオポートという穴を開け、生体ケーブルを挿しこみゲームポッド(ゲーム機本体で突然変異した両生類の有精卵からできている)と人体を直接つないでヴァーチャルリアリティーゲームのプレイをします。わたしは脊髄に穴を空けるシーンがグロテスクで苦手でしたが、今度の「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」も見るに堪えないショッキングなシーンが次から次に出てきます。特に、目と口を縫い付けられた男性の身体に無数の「耳」が付けられ、「イヤーマン(耳男)」となった男性がダンスを舞うパフォーマンスのシーンも気持ち悪いことこの上なかったです。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)
 
 
 
 わたしは、『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「超人化のテクノロジー」に書きましたが、21世紀において、人間と機械の関係はさらに複雑で広範囲なものになっていきます。すでに20世紀の半ばに、人間と機械を徹底的に比較しようとした研究がありました。クロード・シャノンとノーバート・ウィーナーという2人のユダヤ系研究者による「サイバネティックス(人間機械論)」です。彼らはここで、「情報」という概念を歴史上初めて唱え、生物固有の仕組みを「情報」によって説明しようとしました。そして、シャノンの「情報理論」は、今日のコンピュータと通信技術の基礎をつくったのです。一方、ウィーナーは「人間とは何か」と問いかける学際的な「人間観」を構築していったのでした。
 
 1960年代に、カナダのメディア学者マーシャル・マクルーハンは、「人間拡張の理論」を唱えました。鉛筆が手の延長で、自動車が足の延長、電話が口と耳の延長で、テレビが目の延長というように、マクルーハンは道具や機械を人間の身体の延長としてとらえたのです。そして、電気メディアの登場でその拡張はすでに「最終段階」に入り、外部への拡張が人間の心身の内部にまで拡張して、「内爆発」を起こしていると主張しました。この「内爆発」によって、それまで外部への作用しかなかった道具の影響が、人間の内側に激しく作用してくる。その結果、内爆発の影響を受けた人間の心身は、当然、それ以前とは変わってしまう。現在再評価を受けつつあるマクルーハンの理論が正しければ、その後にあらわれたパソコンや携帯電話は、人間の感覚を確実に変容させているはずである。
 
 テクノロジーの力を借りて、身体能力を拡張し続けるわたしたちは、限りなくサイボーグ化しているのです。そもそもサイボーグ化などというと、すぐ人工臓器などを考えがちですが、そこまでいかなくとも、健康な人も近眼ならコンタクトレンズをつけるでしょう。さらに多くの人が年をとると老眼になって眼鏡をかけます。人工臓器と、コンタクトレンズや眼鏡は「拡張」の度合いに差はあっても、「身体の延長」という本質は異なるものではありません。サイボーグとはサイバネティック・オーガズムであり、機械と有機体のハイブリッドであり、フィクションであると同時に社会的現実が創造したものでもあるのです。

プラスティックを食べる少年(映画.comより)
 
 
 
 映画「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」には、プラスティックを食べて消化する器官を体内に有した少年が登場します。プラスティックを食べて消化するのは、悪化していく環境に適応するために人間が進化を続けた結果です。時事ドットコム編集部は、「これは究極のSDGs(持続可能な開発目標)映画だ!」と紹介しています。強烈な映像と奇想天外な展開に振り回されそうになりますが、その根底にはクローネンバーグ監督の崇高な人間愛、そして地球愛がしっかり刻まれているといいます。

近未来のパフォーマンスアート(映画.comより)
 
 
 
「AERA.dot」で、フリーランス記者の中村千晶氏のインタビューに答えて、クローネンバーグは「私はずっと『人間は自分の体内への美意識がもっとあってもよいのでは』と考えてきました。我々はいま肉体の一部を改造したアート、例えば入れ墨などをしています。ではもし人間から痛みが消えたらどんなアートが生まれるのか? そして『内なる美』をテーマに自分の内臓でパフォーマンスアートを行う主人公が生まれました。痛みが消えた世界では誰も感染症などを恐れず誰も手を洗わず、ハエが飛び回っています。実はこの脚本は20年以上前に書いたものです。当然コロナ禍を予想したわけではありませんが、そこがSFのおもしろいところですね。これはウイルスやバクテリアの進化と人体の進化の闘いの末に、人間の肉体が勝利を得た世界なのです」と語っています。
 
 クローネンバーグによれば、人間の肉体が勝利を得た世界の象徴のひとつがプラスチックを消化できる少年の出現だといいます。彼は、「脚本を書いた時点ではマイクロプラスチックがこれほど問題になるとは思ってもいませんでした。いまや誰もの血液のなかにマイクロプラスチックが入り込んでいるような状態ですが、しかしそれが実際に我々の体にどういう影響を与えているのかはまだ答えが出ていない。良いことでないのは明白ですが、最近ではマイクロプラスチックを分解し燃料にするバクテリアも発見されています。少し飛躍すれば同じ生命体である人間も消化できるようになるかもしれない」と語っています。
 
 そして、クローネンバーグは「一惑星として考えれば、地球はいずれ消滅する運命です。しかしその前に生命というものが我々人間のせいで無くなっていくだろうなと私は考えています。どんな紛争も戦争も環境破壊です。我々はそれらをどう止めるかを真剣に考えなければならない。本作に大いに刺激を受けてほしいと思います。これは人間が犯した環境汚染という罪と解決法への、私なりの風刺を利かせたアンサーなのです」と述べるのでした。わたしがこの「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」という映画に嫌悪感を抱いてしまうのは、クローネンバーグが「身体」とか「環境」とか外部にばかり注目して内部に目を向けない点です。彼にとっての人間の内部とは腹部を解剖した内臓にすぎず、精神ではありません。
 
 わたしは、次なる社会は人間の心が最大の価値を持つ「心の社会」であると考えています。「心の社会」では哲学・芸術・宗教の存在が大きくなります。なぜなら、哲学も芸術も宗教も、「死」をとらえて精神を純化させる営みだからです。「死」の問題を突き詰めて考えた哲学者にキルケゴールがいます。1849年に彼が書いた『死に至る病』は、後にくる実存哲学への道を開いた歴史的著作ですが、ちょうど100年後の1949年に1人の人物がキルケゴールについてのすぐれた論文を書きました。その人物とは、ピーター・ドラッカーであり、論文のタイトルは「もう1人のキルケゴール 人間の実存はいかにして可能か」でした。ここでドラッカーは、人間の社会にとって最大の問題とは「死」であると断言し、人間が社会においてのみ生きることを社会が望むのであれば、その社会は、人間が絶望を持たずに死ねるようにしなければなりません。

ウェルビーイング?』『コンパッション!』の双子本
 
 
 
 そして、思考の極限まで究めたこの驚くべき論文の最後に、ドラッカーは「キルケゴールの信仰もまた、人に死ぬ覚悟を与える。だがそれは同時に、生きる覚悟を与える(上田惇生訳)」と記しています。「心の社会」は、「死」を見つめる社会であり、人々に「死ぬ覚悟」と「生きる覚悟」を与える社会です。それは「死」という人類最大の不安から人々が解放され、真の意味で心がゆたかになれる、大いなる「ハートフル・ソサエティ」です。そして、ハートフル・ソサエティ実現のカギは、持続的幸福としての「ウェルビーイング」ならびに、思いやりとしての「コンパッション」になるでしょう。芸術とはもともとウェルビーイングやコンパッションと密接に関わっていますが、「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」に登場する臓器摘出ライブショーのパフォーマンス・アートにはその欠片もありませんでした。

妖艶なカプリース(映画.comより)
 
 
 
 しかし、臓器摘出するライブショーの人気パフォーマーであるカプリースを演じたレア・セドゥは美しかったです。彼女をスクリーンで見たのは一条真也の映画館「それでも私は生きていく」で紹介した安楽死をテーマにしたフランス映画でした。最近のフランス映画には死生観が色濃く漂っているように思えるのですが、それはフランスが哲学王国だからということも関係しているかもしれません。哲学といえば、その祖は古代ギリシャのソクラテス だとされていますが、彼は「哲学は死の予行演習」という言葉を後世に遺しています。「それでも私は生きていく」でのレア・セドゥはボンドガールのセクシーさを封印して地味な女性を演じていましたが、今回の「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」では、その妖艶さが全開になっていました。
 
「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」には、思いもかけず、セクシーなレア・セドゥのヘアヌードまで拝めて「眼福」でした。さらには、彼女のセックスシーンも登場します。しかし、それはパートナーの身体にメスを入れて傷つけ合う行為となっていました。クローネンバーグは「これが近未来のセックスだ!」と言いたかったのかもしれませんが、わたしは引きましたね。未来のセックスなら、ロジェ・バデムが監督し、ジェーン・フォンダが主演したSF映画「バーバレラ」(1968年)に登場するセックス・マシーンの方がずっと好きです。
 
 紀元40000年。セクシーな女宇宙士バーバレラ(ジェーン・フォンダ)は、宇宙破壊光線を完成させた悪漢デュラン・デュラン(ミロ・オーシャ)を探し出す指令を受け、リテオン惑星に降り立ちます。地下3000フィートに建設された巨大都市へと向かうも捕らえられてしまった彼女は、サディスティックな拷問機械「セックス・マシーン」で窮地に陥るのでした。「バーバレラ」に比べると「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」の性的描写はイマイチでしたが、思いもかけず、セクシーなレア・セドゥのヘアヌードを拝めたことは「眼福」でした。