No.815


 東京に来ています。
 12月11日の午後、水天宮で出版関係の打ち合わせをしました。夜は、映画「マエストロ:その音楽と愛と」をヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞。Netflix作品ですが、話題作なので劇場の大きなスクリーンで観たいと思いました。正直言ってストーリーが平坦であり、けっして面白い映画ではありませんが、主演のブラッドリー・クーパーはレナード・バーンスタインに生き写しでした!
 
 映画.comの解説には、「『アリー スター誕生』で監督としても高く評価された俳優ブラッドリー・クーパーの長編監督第2作で、『ウエスト・サイド物語』の音楽などで知られる世界的指揮者・作曲家レナード・バーンスタインと女優・ピアニストのフェリシア・モンテアレグレ・コーン・バーンスタインがともに歩んだ激動の人生と情熱的な愛の物語を、バーンスタインの雄大で美しい音楽とともに描いた伝記ドラマ」と書かれています。
 
 また、映画.comの解説には「クーパーがレナードの若き日々から老年期までを自ら演じ、『プロミシング・ヤング・ウーマン』のキャリー・マリガンがフェリシア役を務める。共演はドラマ『ホワイトカラー』のマット・ボマー、ドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』のマヤ・ホーク。クーパー監督と『スポットライト 世紀のスクープ』のジョシュ・シンガーが脚本を手がけ、製作にはマーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグが名を連ねる。2023年・第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。Netflixで2023年12月20日から配信。それに先立ち12月8日から一部劇場で公開」とも書かれています。
 

 一条真也の映画館「アリー/スター誕生」で紹介した2018年の映画では、スター歌手に才能を見いだされた女性が、スターダムへと上り詰める姿が描かれています。昼はウエイトレスとして働き、夜はバーで歌っているアリー(レディー・ガガ)は、歌手になる夢を抱きながらも自分に自信が持てませんでした。ある日、ひょんなことから出会った世界的シンガーのジャクソン(ブラッドリー・クーパー)から歌を高く評価されます。アリーは彼に導かれてスター歌手への階段を上り始め、やがて2人は愛し合うようになりますが、ピークを過ぎたジャクソンは、徐々に歌う力を失っていきます。ブラッドリーはスター歌手役で出演もこなしており、劇中でガガと共に歌声を聞かせます。
 
 そんなブラッドリー・クーパーが熱演したレナード・バーンスタインとはいかなる人物か? 1918年に生まれ、1990年に72歳で没した彼は、ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家であり、ピアニストとしても知られています。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティらと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家でした。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも知られます。
 
 バーンスタインは、「ウエスト・サイド・ストーリー」の作曲者としても有名です。1957年にブロードウェイで上演されたミュージカル(ロバート・ワイズ&ジェローム・ロビンズ監督)であり、1961年(ジェームズ・ロビンズ監督)と2021年(スティーヴン・スピルバーグ監督)に映画化されています。シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」に着想し、当時のニューヨークの社会的背景を織り込みつつ、ポーランド系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人との2つの異なる少年非行グループの抗争の犠牲となる若い男女の2日間の恋と死までを描きます。多民族国家アメリカを象徴するように、「トゥナイト」「アメリカ」「マンボ」「クール」「マリア」など、あらゆるジャンルの音楽が流れますが、そのすべてをバーンスタインが1人で作曲したといいます。
 
 そのバーンスタイン自身は、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれました。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒でした。家族には音楽的な環境は全くありませんでしたが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったそうです。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志しました。バーンスタインが音楽家として到達した最高の境地として、1974年のロンドン交響楽団でのマーラー「復活」の演奏があります。これは音楽の神が降臨したかと思えるような圧倒的名演です。映画「マエストロ:その音楽と愛と」では、この「復活」演奏のシーンが約6分間流れますが、そのためにブラッドリー・クーパーはなんと6年間も練習したとか。
 
 映画「マエストロ:その音楽と愛と」では、バーンスタインの真実の姿が家族の視点から描かれますが、その性に関する真実も明かされています。バーンスタインは同性愛傾向を持っていたのです。彼は1951年に結婚したフェリシア夫人との間に3児をもうけ、病床に伏した夫人が癌だと判明すると献身的に看護しました。フェリシアは1978年に亡くなりましたが、晩年のバーンスタインには大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想しています。妻を深く愛していましたが、その一方で自らの同性愛傾向を隠さなかったのも事実であり、男性と必要以上に親密にふるまうことも多かったといいます。
 
 バーンスタインの同性愛にたまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのは、ホミンテルン(ホモ+コミンテルン)なんだぜ」と答えたといいます。バーンスタインの同性愛の相手は、彼の強い影響下にあった交響楽団の団員をはじめとした若い音楽家が多く、当然ながらバーンスタインとの交際には「仕事を貰うため」「音楽家として出世するため」という打算もあったとされています。そのあたりは、故ジャニー喜多川氏の少年への性加害を連想してしまいますね。
 
 一条真也の映画館「TAR/ター」で紹介した2022年のケイト・ブランシェットの主演映画があります。有名オーケストラで女性として初の首席指揮者となった主人公が、重圧や陰謀といったさまざまな要因により追い詰められていく物語です。リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ドイツの著名なオーケストラで初の女性首席指揮者に任命されます。リディアは人並みはずれた才能とプロデュース力で実績を積み上げ、自身の存在をブランド化してきました。しかし、極度の重圧や過剰な自尊心、そして仕掛けられた陰謀によって、彼女が心に抱える闇は深くなっていくのでした。この映画の中で、リディアが敬愛するバーンスタインの演奏動画に見入る場面が登場します。じつは、リディアとは女性版バーンスタインなのです。映画評論家の町山智浩氏も指摘していましたが、「TAR/ター」とは「もし、バーンスタインが女性で、現在生きていたら?」という仮定の物語なのです。
 
 バーンスタインはゲイでしたが、リディアはレズです。そして、両者とも楽団員へのセクシャル・ハラスメントの当事者でもありました。いま、映画界は「多様性」や「ポリコレ」や「LGBTQ」や「#MeToo」などなど、ジェンダーの問題で大揺れしています。現在、最もジェンダーに関して旧態依然とした分野の1つがクラシック音楽の世界であると言われます。もちろん、ピアニストやバイオリニストには華やかな女性奏者が多いですし、音楽大学もオーケストラも女性で埋め尽くされているように思えますが、それは日本に偏った現象です。自他共にクラシック音楽の国と認めるドイツ、オーストリアの音大では男子学生が圧倒的に多いですし、世界に冠たるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団はついこの前まで男性団員だけしか入団できませんでした。楽器奏者でもそうなのですから、指揮者はなおさらです。
 
 女性指揮者というのは、わたしたち日本人が想像するよりも遥かに非現実的な話なのです。世界トップのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にもウィーン・フィルにも、マエストロなどの称号で呼ばれる首席常任指揮者・音楽監督に歴史上、女性はいません。映画「TAR/ター」はリディア・ターという女性指揮者が、ベルリン・フィルの初の女性マエストロに就任したという仮定の物語です。じつは、この時点でこの物語は非現実のファンタジーとなっており、いわば「女性でもベルリン・フィルの指揮者になれる世界」というメタバースの世界が舞台なのです。メタバース映画といえば、先述の「エブエブ」がまさにそうですね。「TAR/ター」はもともと映画会社がトッド・フィールド監督に製作を持ちかけた作品で、当初は男性指揮者という設定でした。それを監督が「この映画の主人公を演じるのはケイト・ブランシェットしかいない」と思い込み、成功を極めた女性マエストロが心の闇に落ちていく物語となったそうです。
 
 クラシック音楽の歴史は、男性の歴史でした。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマン、ドビュッシー、ラベル、チャイコフスキー、ラフマニノフといった音楽史に残る作曲家はすべて男性です。けっして女性に作曲の才能がなかったわけではありません。神童メンデルスゾーンの姉のファニー・メンデルスゾーンは弟よりも豊かな才能であったと言われています。現在、彼女が作曲した素晴らしい作品が明らかにされていますが、その才能は同時代のどんな男性作曲家よりも非凡です。しかしながら、当時は女性が作曲家になることなど許されるはずもなく、ファニーは終生、家庭音楽会に閉じ込められていました。演奏家ならまだしも、作曲を女性がするなんて「身の程知らず」だったのです。
 
 当時、女性が作曲した場合は男性の名前で発表したそうです。「TAR/ター」には音楽院の授業で、「バッハのような白人の男性音楽家は嫌い」という黒人系の男子生徒をターは徹底的に論破し、教室から追い出しますが、音楽を女性に開放する立場であるはずのターが、男性音楽家のシンボルともいうべきバッハを擁護する場面には違和感をおぼえました。バッハといえば、バーンスタインが指揮し、グレン・グールドがピアノを弾く「ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 BWV 1052」の動画をYouTubeで観ることができます。熱くたぎるバーンスタインとクールなグールドは芸風を異にしますが、目指す方向性が近いためか、素晴らしい調和を醸し出しています。