No.710


 5月13日、前日から公開された映画「TAR/ター」を人生初のシニア料金で観ました。シネプレックス小倉の6番シアターでしたが、土曜日にもかかわらず観客は少なかったですね。上映時間が158分と長いのですが、観終わった感想は「なんという変な映画!」でした。クラシックのオーケストラの物語かと思いきや、後半は加速度的にホラー化していきます。ジャンルでいえば完全にサイコホラー。ケイト・ブランシェットの怪演に圧倒されました。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『リトル・チルドレン』などのトッド・フィールドが監督を務め、『エリザベス』シリーズなどのケイト・ブランシェットが女性指揮者を演じるドラマ。有名オーケストラで女性として初の首席指揮者となった主人公が、重圧や陰謀といったさまざまな要因により追い詰められていく。『キングスマン』シリーズのマーク・ストロングや『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』などのジュリアン・グローヴァーなどが共演する」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ドイツの著名なオーケストラで初の女性首席指揮者に任命される。リディアは人並みはずれた才能とプロデュース力で実績を積み上げ、自身の存在をブランド化してきた。しかし、極度の重圧や過剰な自尊心、そして仕掛けられた陰謀によって、彼女が心に抱える闇は深くなっていく」
 
「TAR/ター」は、トッド・フィールド監督が16年ぶりに手がけた世にも奇妙な映画です。映画界を代表する大女優であるケイト・ブランシェットを主演に、天才的な才能を持った指揮者の苦悩をサスペンスフルに描いています。ブランシェットの狂気に満ちた熱演が高く評価され、第80回ゴールデングローブ賞で主演女優賞(ドラマ部門)を受賞し、第95回アカデミー賞では作品、監督、脚本、主演女優ほか計6部門でノミネートされました。主演女優賞は一条真也の映画館「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」で紹介したSFアクション映画で主演したミシェル・ヨーが受賞しましたが、わたしは「TAR/ター」のケイト・ブランシェットの方が主演女優賞にふさわしかったと思います。「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(「エブエブ」)出演時のミシェル・ヨーは60歳、「TAR/ター」出演時のケイト・ブランシェットは53歳でした。まさに熟女対決です。
 
 こんなことを書くと「女性の年齢にこだわるのはセクハラだ」みたいな意見があるかもしれません。でも、わたしはSFにしろ、ホラーにしろ、さらにはラブロマンスにしろ、ドラマ映画への出演時の年齢というのはとても重要であると思っています。また、「女優」を「俳優」と言い換える風潮には非常に違和感を抱いており、わたしはあえて「女優」と言い続けたいと思います。なぜなら、俳優と女優と男優はまったく違う職業であり、かつ「憑依」という演技者の本質に関わる職業は巫女の系譜を受け継ぐ女優であると考えているからです。ちなみに、「エブエブ」も「TAR/ター」もまったく別ジャンルの作品のようで、じつは共通している点があります。(「TAR/ター」の場合は衝撃のラストシーンがそうなのですが)いずれも異世界へのトリップを描いている点です。
 
 女優についての持論を簡単に述べましたが、いま、映画界は「多様性」や「ポリコレ」や「LGBTQ」や「#MeToo」などなど、ジェンダーの問題で大揺れしています。現在、最もジェンダーに関して旧態依然とした分野の1つがクラシック音楽の世界であると言われます。もちろん、ピアニストやバイオリニストには華やかな女性奏者が多いですし、音楽大学もオーケストラも女性で埋め尽くされているように思えますが、それは日本に偏った現象です。自他共にクラシック音楽の国と認めるドイツ、オーストリアの音大では男子学生が圧倒的に多いですし、世界に冠たるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団はついこの前まで男性団員だけしか入団できませんでした。楽器奏者でもそうなのですから、指揮者はなおさらです。

 女性指揮者というのは、わたしたち日本人が想像するよりも遥かに非現実的な話なのです。世界トップのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にもウィーン・フィルにも、マエストロなどの称号で呼ばれる首席常任指揮者・音楽監督に歴史上、女性はいません。映画「TAR/ター」はリディア・ターという女性指揮者が、ベルリン・フィルの初の女性マエストロに就任したという仮定の物語です。じつは、この時点でこの物語は非現実のファンタジーとなっており、いわば「女性でもベルリン・フィルの指揮者になれる世界」というメタバースの世界が舞台なのです。メタバース映画といえば、先述の「エブエブ」がまさにそうですね。「TAR/ター」はもともと映画会社がトッド・フィールド監督に製作を持ちかけた作品で、当初は男性指揮者という設定でした。それを監督が「この映画の主人公を演じるのはケイト・ブランシェットしかいない」と思い込み、成功を極めた女性マエストロが心の闇に落ちていく物語となったそうです。
 
 クラシック音楽の歴史は、男性の歴史でした。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマン、ドビュッシー、ラベル、チャイコフスキー、ラフマニノフといった音楽史に残る作曲家はすべて男性です。けっして女性に作曲の才能がなかったわけではありません。神童メンデルスゾーンの姉のファニー・メンデルスゾーンは弟よりも豊かな才能であったと言われています。現在、彼女が作曲した素晴らしい作品が明らかにされていますが、その才能は同時代のどんな男性作曲家よりも非凡です。しかしながら、当時は女性が作曲家になることなど許されるはずもなく、ファニーは終生、家庭音楽会に閉じ込められていました。演奏家ならまだしも、作曲を女性がするなんて「身の程知らず」だったのです。当時、女性が作曲した場合は男性の名前で発表したそうです。「TAR/ター」には音楽院の授業で、「バッハのような白人の男性音楽家は嫌い」という黒人系の男子生徒をターは徹底的に論破し、教室から追い出しますが、音楽を女性に開放する立場であるはずのターが、男性音楽家のシンボルともいうべきバッハを擁護する場面には違和感をおぼえました。
 
 ベルリン・フィルが舞台なだけあって、「TAR/ター」に登場する演奏シーンは素晴らしいです。リハーサルのシーンで、ターがベルリン・フィルの団員へ指摘するところ、音楽的な表情付けをするところなどは非常にリアリティがあります。また、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団が実際に出演しており、ホールもドレスデンにある芸術宮殿ホールが使われているので、音の迫力や美しさにも本物と変わりません。この映画では主にマーラー《交響曲第5番》が用いられていますが、もうひとつの主要な曲として用いられているのがエルガー《チェロ協奏曲》です。これを弾く女性ソリストには、実際に音楽界で注目されている若いチェリスト、ソフィー・カウアーが起用されています。女優としてもこの映画に出演した彼女は、その後、ソリストとして実際にロンドン交響楽団とエルガー《チェロ協奏曲》をCD録音しています。
 
 この映画はジェンダー問題と密接な関わりがありますが、ターがコンサートミストレスの女性バイオリン奏者とレズビアン生活を送っている想定もそれを示しています。最初のターへのインタビューシーンから、セクハラで問題になった指揮者などが実名で次々に出てきて、一条真也の映画館「SHE SAID /シー・セッド その名を暴け」で紹介した映画を連想しました。映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの長期にわたる性的暴行を告発した記者たちによる回顧録を映画化したもので、ハリウッドの絶対権力者による犯罪を暴くため、真実を追い求める記者たちの執念を描いた作品です。ハリウッドもそうですが、クラシック界もセクハラの温床のようですね。「TAR/ター」ではセクハラに加えて同性愛の問題が絡んできます。
 
 セクハラに同性愛といえば、一条真也の読書館『異能の男 ジャニー喜多川』で紹介した本の内容を連想します。現在、日本では、大手芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の創業者、ジャニー喜多川氏(2019年に死去)から所属していたタレントが性被害を受けた疑いが浮上している問題が大きな波紋を呼んでいます。わたしは彼の性的加害は事実であったと考えていますが、日本の大手マスコミの大部分がこの問題をスルーしている一因には、同性愛の問題が絡んでいるからだと思います。ジャニー喜多川の被害者たちが少年だったので、なんとなく「ホモのおじさんにイタズラされた男の子たち」といった見世物小屋的な話題にとどまっていますが、もし被害者が少女だったらどうか。これはもうワインスタインどころではない世界的な一大性犯罪事件となります。また、ジャニー喜多川問題は、日本でも進みつつあった「LGBTQ」への理解に大いに水を差すものだと思います。
 
「TAR/ター」のトッド・フィールド監督は、来日時のインタビューで「ターがもし男性だったら? 突出した才能を持つ人物の仕事の評価と人間性は分けられるべきなのか? など、様々な議論を呼ぶ作品です。SNSでの悪意を持った投稿、またキャンセルカルチャーなど、時宜的な現象も巧みに複合的に表現されています。ターという人物とこの物語をいつ頃から構想されていたのですか?」という質問に対して、「もともとこの話は現代に設定しようと思ったのです。そして、主人公の人物像のほかに、現代的なスキャンダルも描きたくなりました。今はSNSがかかわり、すべてが早く伝搬し、冷たい感じで終わります。それはテクノロジーを使うからです。テクノロジーはマジカルなもので、与えられるダメージも大きい。これが、10年、20年、もしくは100年前であれば、同じようなスキャンダルがあってもその発露から結果に至るまでの速度はゆっくりだったと思います」と語っていますが、もしジャニー喜多川氏の性的加害が現在進行形の話であったら、初期の段階でSNSで大炎上したでしょうね。
 
 さて、わたしはこの映画を「変な映画」と表現しましたが、まず冒頭がエンドクレジットから始まります。エンドクレジットについて、映画評論家の町山智浩氏は、「あれ、お弁当屋さんの名前まで全部出さないといけないですからね。あれ、昔は出さなくてよかったんだけど、『スター・ウォーズ』ぐらいから関わる人が多くなったんで。全ての関わった人の名前を出さなきゃならくなっちゃったんですよ。で、かつら屋さんから、いろんな服とか手伝ってくれた、タイアップした企業から、全部が入るじゃないですか。あれ、自動車の運転した人まで名前が入ってるんですよ。入れなくちゃいけないんで。あれ、組合の要請なんですよ」と語っています。当然ながら映画のエンドロールは長くなり、わたしなどはエンドロールが始まって数秒経過すると、いつも席を立ちます(そのために、エンドロール後に重要なシーンがある場合などは見逃してしまうのですが)。しかし、この「TAR/ター」は長いエンドクレジットが冒頭に置かれているのです。なぜか。衝撃的な結末の直後に劇場を明るくして、観客を非日常から日常へと一気に引き戻す効果を狙っているためです。
 
 冒頭の長いエンドクレジット(オープニングクレジット?)が終わったら、今度はトークショー会場の場面。ここでターが音楽についての考えを披露するのですが、5分以上のワンショットで熱弁を奮います。いかにケイト・ブランシェットという女優が天才であるかがわかりますね。彼女が演じたターは、「EGOT(イゴット)」の1人です。EGOTは、テレビの最高の作品に与えられるエミー賞が「E」。最高の音楽家に与えられるグラミー賞の「G」、最高の映画に与えられる賞がアカデミー賞のオスカーの「O」、最高の演劇や舞台劇に与えられるトニー賞の「T」の全てを制覇した人物のことです。レナード・バーンスタインやオードリー・ヘプバーンなど、EGOTは歴史上でも15人しかいません。ターはそんな超弩級の人物なのです。町山氏は「これね、ケイト・ブランシェット以外の誰も演じられない役ですよ。そんな人類史上に残るような指揮者の役をやってリアリティーがあるような俳優って、いますか?」と語っていますが、まったく同感です。ターも凄いが、ケイト・ブランシェットも凄い!
 
「TAR/ター」でのケイト・ブランシェットの演技は非常に神がかっており、ファンによるカルト化が指摘されています。これは、「キャロル」(2014年)とときもそうでした。「太陽がいっぱい」「殺意の迷宮」などで知られる作家パトリシア・ハイスミスの小説を基にしたラブロマンス。同性ながらも強く惹かれ合う女性たちに待ち受ける運命を描いており、ケイト・ブランシェットの相手役をルーニー・マーラが務めました。2人とも本当に美しかったですが、「TAR/ター」と同様に同性愛の映画でしたね。同性愛者を演じることが多いケイト・ブランシェットですが、過去には「アイム・ノット・ゼア」(2007年)でボブ・ディランを演じたりと、ジェンダーを超越したイメージがあります。しかし、実際の彼女は1997年12月29日に劇作家のアンドリュー・アプトンとロンドンで結婚。その後は3人の息子を出産しています。2000年代前半まではイギリスで暮らしていましたが、現在は家族と共にオーストラリア・シドニーで暮らしています。
 
「TAR/ター」の本質はサイコホラー映画ですが、多大なストレスを抱えたターが自身の人生をコントロールできなくなると、周囲の「音」もコントロールできなくなくなります。もともとオーケストラの指揮者とは、何十人という楽器奏者が同時に演奏する音を聴き分けることのできる異能者ですが、ターの場合は、ペンをカチカチさせるような音や冷蔵庫のモーター音などの普段は聞こえないような繊細な音にはじまり、次第に起きているあいだずっと、奇妙な音が聴こえはじめます。ゆえに彼女は寝不足となり、それは慢性化し、身心は病んでいきます。ちなみにターはランニング中の公園で悲鳴のような音を耳にしますが、この悲鳴は、世界のホラー映画史の流れを変えたともいわれる「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999年)のラストシーンからの引用だそうです。「TAR/ター」がホラー映画であることを見事に示すエピソードですね。その他にも、「TAR/ター」の中に本物の幽霊が写り込んでいると話題になっています。
 
「TAR」は「ART」のアナグラムであり、芸術と狂気のせめぎ合いが描かれています。そのダーク感が何かに似ているなと思ったら、ナタリー・ポートマンが第83回アカデミー主演女優賞を受賞した「ブラック・スワン」(2010年)でした。内気なバレリーナが大役に抜てきされたプレッシャーから少しずつ心のバランスを崩していく様子を描いています。ニューヨーク・シティ・バレエ団に所属するバレリーナのニナ(ナタリー・ポートマン)は、踊りは完ぺきで優等生のような女性。芸術監督のトーマス(ヴァンサン・カッセル)は、花形のベス(ウィノナ・ライダー)を降板させ、新しい振り付けで新シーズンの「白鳥の湖」公演を行うことを決定します。ニナは念願かなって次のプリマ・バレリーナに抜てきされますが、気品あふれる白鳥は心配ないものの、で官能的な黒鳥を演じることに不安がありました。そこから奇妙なドラマが展開するのでした。バレエとクラシックの違いこそあれ、「ブラック・スワン」と「TAR/ター」には相通じる恐怖が描かれています。
 
 さて、「TAR/ター」のラストシーンが大きな話題になっています。「衝撃的」というよりも「意味不明」といった感じですが、そのシーンでは「モンスターハンター」のテーマソングが使われたことをトッド・フィールド監督がインタビューで明かしています。彼は、「現代の指揮者の中でビデオゲームの指揮をしたことがない人はいないと思うのです。それくらい、ゲームの音楽は多くの人が知るものです。また、今の世の中では、テクノロジーの普及もあり、どこにいても隠れることはできません。指揮者にとっての楽器は人間です。あのような事件があったあと、それでも彼女に楽器を与えてくれる場所、彼女を雇ってくれる場所に彼女は行ったのです。私もビデオゲームは大好きで、広く知られている『モンスターハンター』の音楽を使いました」と明言したのでした。
 
「モンスターハンター」といえば、2021年の夏に開催された東京五輪の開会式で流れた曲ですが、監督によれば「あの音楽は、クラシックのように死んだ白人が作った音楽ではなく、現代を生きる人が作り、現代の人が熱狂的に聞くもの」だそうです。ラストシーンのコンサートが行われた場所についてはタイで行われたそうです。当初はフィリピンを念頭に置いていましたが、新型コロナウイルス感染拡大によるロックダウンで変更したそうです。監督によれば、どこの国かはっきりわかるようにはしたくなかったそうです。「もしかしたら、ターの空想かもしれない」と思えるように撮りたかったといいます。フィリピンにしろ、タイにしろ、欧米の白人社会とは違ったアジアです。わたしは、ターが未開社会の「民族音楽」を研究テーマとしていたことを思い出しました。そして、それが世にも不思議なラストシーンにも繋がっていると感じました。

儀式論』(弘文堂)
 
 
 
 そして、「TAR/ター」のラストシーンを観て、わたしはとても重要なことに気づいたのです。それは、クラシックのコンサートというのは、本質的に「儀式」であるということです。ブログ「鎌田東二先生との対談」で紹介したように、今年3月8日、わたしは京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生と「神話と儀礼」をテーマに対談させていただきました。鎌田先生は神道研究の第一人者で、わたしは儀式の研究・実践を続けています。神前結婚式には『古事記』のイザナギ・イザナミの結婚が再演されているということを確認しました。拙著『儀式論』(弘文堂)でも述べましたが、もともと儀式というものは神話の再演であり、時間を初期設定することにあります。その意味で、「TAR/ター」のラストシーンはまさにターが研究していた民族音楽の世界というメタバースにトリップする行為にほかならないように思いました。
 
「時間を初期設定する」という儀式の機能は、音楽とも深く関わっています。一条真也の映画館「羊と鋼の森」で紹介した音楽映画では、鈴木亮平演じる先輩調律師の柳と山崎賢人演じる主人公の外村がいろんなピアノの音を整えていきます。それぞれのピアノにはさまざまな持ち主がいて、彼らはさまざまな人生を背負っています。その柳ですが、繊細な神経の持ち主で、不自然なものを見ると気分が悪くなるような人物でした。たとえば、公衆電話は目立つように不自然な黄緑色になっていますが、そういうものが目に入ると気分が悪くなるのです。派手な看板なども憎んでいて、「世界の敵」だと言っていました。気分が悪くなったとき、彼はメトロノームで救われました。ねじまき式のメトロノームのカチカチカチカチという音を聴いているうちに落ち着くことを発見したのです。「TAR/ター」では、そのメトロノームが狂ってしまい、それと同時にターが存在する世界も不気味に歪んでいくさまが描かれます。
 
 メトロノームについて、「羊と鋼の森」の原作者である宮下奈都氏は「何かに縋って、それを杖にして立ち上がること。世界を秩序立ててくれるもの。それがあるから生きられる、それがないと生きられない、というようなもの」と表現していますが、これは「儀式」そのものであると、わたしは思いました。儀式とは何よりも世界に秩序を与えるものです。それは、時間と空間に秩序を与え、社会に秩序を与え、そして人間の心のエネルギーに秩序を与えます。一条真也の読書館『言語としての儀礼』で紹介した本で、著者であるイギリスの牧師で神学者のロジャー・グレンジャーは、儀礼の本質を「人類全体の初原状態を一時的に再現」することにあると述べています。ピアノの調律というのも「初原状態の再現」にほかなりません。さまざまな原因から狂った音を初原状態に戻すという「初期設定」を行うのです。

ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教
 
 
 
 儀礼を重んじる宗教として、東洋では儒教、西洋ではユダヤ教が有名です。いずれも仏教・キリスト教・イスラム教といった「世界宗教」とは違って「民族宗教」です。日本の神道も民族宗教です。そして、ユダヤ教を信仰する人々がユダヤ人。「TAR/ター」の冒頭のトークショーのシーンで、ターは、バーンスタインが使った「テシュバ」という言葉を紹介します。拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)にも登場しますが、「テシュバ」とはヘブライ語で「復帰」を意味する言葉です。
 
 神と仲間の人間への復帰は、罪を悔い改めることによって可能になる。これが「テシュバ」の教えです。ユダヤ教では、聖なる日々、特に「贖罪の日」の直前の「悔い改めの日」に最も頻繁に関連付けられますが、いつでも間違ったことに対して人々は許しを求めることができるという教えがあるのです。多くのハラスメントによって人々を傷つけたきたターが悔い改めによって神から許されることを求めるといった解釈もできますが、それよりも「TAR/ター」のラストシーンに登場した奇妙な世界は、きっと天才指揮者リディア・ターにとっての「こころの初原状態」ではなかったか。わたしは、そのように思いました。