No.684


 東京に来ています。3月3日、冠婚葬祭文化振興財団の経営会議に出席し、次回作『供養には意味がある』(産経新聞出版社)の打ち合わせをしました。その後、TOHOシネマズ日比谷で、この日から公開されたSFアクション映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観ました。IMAXで鑑賞したので迫力満点でしたが、内容の方は信じられないぐらい面白くなかった!
 
 ヤフー映画の「解説」には、「『ムーンライト』『ミッドサマー』などのA24が製作し、『スイス・アーミー・マン』などのダニエル・クワンとダニエル・シャイナートが監督を務めるアクションコメディー。破産寸前のコインランドリーを経営している女性が、並行世界で驚異的な身体能力を得て人類を救うための闘いを繰り広げる。主人公を『グリーン・デスティニー』などのミシェル・ヨーが演じ、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』などのキー・ホイ・クァンや『ハロウィン』シリーズなどのジェイミー・リー・カーティスらが共演する」と書かれています。
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「エヴリン(ミシェル・ヨー)は優柔不断な夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)と反抗期の娘、頑固な父と暮らしながら、破産寸前のコインランドリーを経営している。税金申告の締め切りが迫る中、エヴリンはウェイモンドに並行世界に連れて行かれる。そこでカンフーマスターさながらの能力に目覚めたエヴリンは、全人類の命運を懸けて巨大な悪と闘うべく立ち上がる」
 
 最初に言っておけば、わたしは、どんな映画でも面白く観る姿勢を持っているつもりです。しかしながら、この映画、本当に面白くなかったです。これまでに1万本近くの映画を観てきていると思いますが、その中でもワースト3に入るレベルです。まず、マルチバースをはじめ決定的に説明不足で、訳がわからないままに目がチカチカして不快指数が高いです。登場人物の誰にも共感できないし、わたしが映画の不可欠要素だと思っている「美男美女」がまったく出てきません。主役のミシェル・ヨーは美人だとは思いますが、現在60歳で還暦を迎えた人です。
 
 あと、人種問題やLGBTQの要素もあって、明らかにポリコレ映画だと思いました。ポリコレ映画では、特定の人に不快感を与えない表現を意識するあまりに、主人公などが必要以上にブサイクに描かれることがあります。まさに、この映画に登場する主人公エブリンの娘がそうでした。ポリコレ意識過剰もそうですが、つまるところ、この映画はとにかくストーリーがつまらない。何よりも信じられないのは、この駄作がアカデミー賞で最多10部門11ノミネートという事実です。また、アカデミー賞の前哨戦といわれる全米俳優組合の所属会員が選考する第29回SAG賞の映画部門で4冠に輝いた事実です。もし本作が作品賞でも受賞したら、アカデミー賞も終わりですね!
 
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観て、わたしは一条真也の映画館「ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界」で紹介したウォルト・ディズニー・アニメーションの100周年記念作品を連想しました。この作品は、ディズニー史上「最も大コケした作品の1つ」とされています。CinemaScopeが行った出口調査では、観客によるレーティングは「B」でした。ディズニーのアニメ映画で、 AもしくはA-を獲得しなかった作品は、1991年の調査開始以来初めてだといいます。失敗の要因はポリコレ要素を詰め込み過ぎたからだという意見が多いですが、わたしもそう思います。何より、エンターテインメントであるはずのアニメの物語が面白くないのは致命的でした。ちなみに、「ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界」のブログ・ランキングを見ると、わたしのブログ記事が1位になっており、複雑な心境であります。 詳しくは、こちらをクリックして下さい。
 
 それでも、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」でのミシェル・ヨーのアクション・シーンは見応えがありました。彼女は、もともとアクション・クイーンとして定評がありました。マレーシアのイポーに生まれる。バレリーナになるため、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスでプリマ・バレリーナを目指しましたが、怪我が元で断念し、振付を学んで卒業。マレーシアに戻り、ミス・マレーシアに選ばれます。その後、映画デビューするも、結婚を機に女優を引退。離婚して「ポリス・ストーリー3」(1992年)で復帰しました。「007 トゥモロー・ネバー・ダイ」(1997年)は中華人民共和国の情報部員役でボンドガールを務め、ハリウッドデビューを果たします。「グリーン・デスティニー」(2000年)の女剣士役も高い評価を得ています。
 
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」の主人公を演じる人物は、当初はミシェル・ヨーではなく、ジャッキー・チェンの名前が挙がっていたそうです。監督と脚本を担当したダニエル・クワン&ダニエル・シャイナートはミシェルにアプローチする前に、ジャッキーに会いに中国を訪れていたといいます。しかし、ジャッキーは都合がつかず断られたため、2人は主人公をミシェルに変更して脚本を書き直したそうです。ジャッキーとミシェルの夫婦なら観てみたかった気がしますが、結局、夫のエヴリンの優柔不断な夫ウェイモンドはキー・ホイ・クァンが演じました。彼は、ブルース・リーばりの見事なカンフー・アクションを披露しています。
 
 ミシェル・ヨーは、この映画についてのインタビューで、「私が演じるエヴリンは社会的弱者でおよそヒーローになるような人物ではないけれど、みんなに希望を与えるんです。彼女には反抗期の娘がいたり、なりたいような自分になることを諦めたり、自分のことを考える暇がなくて、物事をうまく進めるようにするだけで精一杯なんです。多くの人たちが現実に抱えているのと同じ問題ですね。そして誰もが人生に同じものを求めているんですよね。誰もがチャンスの到来を待っていて、自分の能力を証明する機会を掴もうとしているんです。そういうところに演じる魅力とやりがいを感じました」と語っています。
 
 また、ミシェルは「この作品の根底にあるテーマは、喜びや愛、思いやりといったものを日常に見つけ出すことだと思うんです。何があってもあきらめず、私たちの愛が自分たちを引き戻し、難しい人生を乗り越えていくんです。そしてマルチバースの魅力ですが、『わあ、こんなことも?』と思いもよらなかったことが急にできるようになるところですね(笑)」とも語っています。「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」で描かれたマルチバースはドタバタ喜劇の要素が強くて、また、しょっちゅう宇宙が入れ替わるので、観ていてイライラしました。マルチバースの描き方としては最悪では?
 
 マルチバースを描いた最近の映画としては、一条真也の映画館「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」で紹介した作品があります。これはアカデミー賞の選考委員たちからは無視されましたが、大変な名作でした。この作品を観て、感銘を受けたのは主人公ピーター・パーカーをトム・ホランドが演じるだけでなく、過去2シリーズの主人公を演じたトビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドも、それぞれピーター・パーカーとして出演していることでした。つまり、この映画には3人のピーター・パーカー=スパイダーマンが登場するのです。そのカラクリは、彼らは別の宇宙からやって来た存在、つまりマルチバースの住人という設定なのです。しかも、ドクター・ストレンジによる「世界中の人々がピーター・パーカーを忘れる」という魔法が失敗したために、逆に「ピーター・パーカーをよく知っている人々」を全宇宙から呼び集めたという理屈で、これには大いに納得しました。3つのシリーズの物語を、3つの違うユニバースが同時に存在することで統合するというアイデアには感服しました。
 
 一条真也の映画館「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」で紹介した映画も、マルチバースを描いています。天才的な脳外科医として全米に名声を轟かせていたドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)は、自動車事故で両腕に大怪我を負ってしまい精密な腕の動きができなくなってしまいます。脳外科医を辞めましたが、どんな傷をも治せる魔術師がチベットに居ることを聞きつけ、藁にもすがる思いでチベットに赴き、自身も魔術をマスターします。彼は、禁断の呪文によって時空をゆがませ、マルチバースの扉を開いてしまいます。世界を元通りにするため、彼はスカーレット・ウィッチことワンダ(エリザベス・オルセン)に助けを求めますが、時すでに遅く、恐るべき脅威が人類に迫っていました。そしてその脅威こそがドクター・ストレンジと同じ姿をしたもう1人の自分でした。この作品も非常に面白かったです。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)
 
 
 
「マルチバース」については、拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「神化するサイエンス」で詳しく紹介しましたが、ユニバース(世界、宇宙)の「ユニ」を「マルチ」に置き換えたものです。つまり、宇宙というのは、1つ(ユニ)でなくてもいい、たくさん(マルチ)存在していい、宇宙はいくらでも無限に生まれるのだという考え方です。ビッグバン宇宙国際研究センター長を務めた宇宙物理学者の佐藤勝彦氏は、自身が提唱者の1人である有名な「インフレーション理論」を発展させる中で、インフレーション中の宇宙には、子どもの宇宙がいくつも生まれて、さらに孫の宇宙、曾孫の宇宙も生まれるという理論を考えました。この佐藤氏によるマルチバース理論は、「人間原理の宇宙論」の解釈として強力な説得力をもっています。そして氏は、「宇宙について考えていくと、結局、人間の存在の意味や意義についても、何かが示されることになる」と述べています。
 
 マルチバース理論は、量子論の「多世界解釈」にも通じます。現代物理学を支える量子論によると、あらゆるものはすべて「波」としての性質を持っています。ただしこの波は、わたしたちが知っている波とは違う、特殊な波、見えない波です。それで、この波をどう理解するかという点で解釈の仕方がいくつかありますが、その1つが多世界解釈というものです。SFでは「パラレルワールド」とか「もう一人の自分」といったアイディアはおなじみですが、わたしたちが何らかの行動をとったり、この世界で何かが起こるたびに、世界は可能性のある確率を持った宇宙に分離していくわけです。量子論においては、いわゆる「コペンハーゲン解釈」が主流となっていますが、この多世界解釈こそが量子論という最も基本的な物理法則を真に理解するうえで、最も明快な解釈でしょう。そして、世界が複数に分かれていくという、一見すると非現実的に思えるこの多世界解釈という考え方が、実は物質世界が本当にどういうものであるかを認識するうえで、非常に本質的なものを抱えているとのかもしれません。
 
 マルチバースといえば、以前から思っていることがあります。「マルチバース」とか「パラレルワールド」といった考え方は、グリーフケアにおいて大きな力を発揮するのではないかということです。というのも、愛する人を亡くした人が「別の宇宙、別の世界では、故人は生きているかもしれない」という希望を持つことができるからです。例えば、ブログ「26の大事件」で言及した知床遊覧船事故の場合なら、別の宇宙では遊覧船は事故に遭遇せず、青年は彼女に感動のプロポーズを果たし、3歳の女の子は両親と一緒に自宅に帰り、佐賀県に住む70代の男性も奥さんの待つ家に無事に帰り着いたかもしれません。考えてみれば、天国や極楽といった宗教が説く死後の楽園も、ある意味でマルチバースのようなものかもしれませんね。