No.816


 12月13日の夜、ブログ「北九州国際映画祭開幕!」で紹介したように、北九州芸術劇場・中劇場で開催された「北九州国際映画祭」のオープニングセレモニーに参加。セレモニーの後、「ウィール・オブ・フェイト~映画『無法松の一生』をめぐる数奇な運命~」が約20分間上映されました。80年の時を経て映画「無法松の一生」が4Kデジタル修復されるまでの短編ドキュメンタリー映画です。
 
 その後、日本映画史に燦然と輝く稲垣浩監督の「無法松の一生」(1943年版)の4Kデジタル修復版が上映されました。岩下俊作の小説『富島松五郎伝』の最初の映画化作品で、伊丹が脚本を執筆するが病に伏していたため、稲垣が代わって監督し完成させました。北九州・小倉を舞台に、喧嘩っ早い人力車夫・松五郎の生涯を描きます。日本映画界屈指の名作の1つに数えられ、主人公の松五郎を演じた阪東の代表作にもなりましたが、松五郎が大尉夫人に密かな愛情を告白するシーンなどが内務省の検閲で削除され、戦後もGHQにより一部が削除されました。稲垣は完全版を撮るために1958年(昭和33年)にリメイク版を製作しています。

 
 
 
 明治の小倉、町から追放されていた「無法松」こと松五郎(阪東妻三郎)が帰ってきたところから物語は始まります。喧嘩っ早いことで有名な松五郎でしたが、その一方で竹を割った様な性格と気風の良さは評判で小倉では知らないものがいない程でした。ある日、松五郎は軍人・吉岡小太郎(永田靖)の息子である敏雄(沢村アキヲ)が堀に落ちてケガをしたところに出くわします。松五郎は彼を助けて家へ運び、その縁から吉岡家との付き合いが始まるのでした。しかし、その後小太郎が風邪をこじらせて急逝。あまり活発でなかった敏雄を心配した、小太郎の未亡人・よし子(園井恵子)は何かと松五郎を頼りにし、松五郎もまたよく敏雄の面倒を見ます。そんな中で敏雄は大きく育っていき、やがて松五郎との関係にも変化が訪れます。
 
 小倉祇園太鼓の日、夏休みのため五高生となった敏雄が先生を連れてきて帰省。本場の祇園太鼓を聞きたがっていた先生の案内役をしていた松五郎は、山車に乗って撥を取り太鼓を打ちます。流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち。長い間聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を叩き、町中にその音が響きました。それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、夫人に対する思慕を打ち明けようとしますが、「ワシの心は汚い」と一言言って、彼女のもとを去りました。その後、松五郎は酒に溺れ、遂に雪の中で倒れて死にます。彼の遺品の中には、夫人と敏雄名義の預金通帳と、吉岡家からもらった祝儀が手を付けずに残してあったのでした。
 
「無法松の一生」は、フィルムが切り取られ過ぎていて、完全な映画作品とは言えません。しかしながら、歴史的な名作だけに見どころがたくさんあります。まずは、義理人情に厚く、お茶目なところも垣間見える、松五郎の人柄。気っ風がいい男っぷりは、見ていて、すがすがしい気持ちにさせてくれます。また、宮川一夫のカメラワークの素晴らしさを再認識しました。物語の終盤、松五郎が祇園太鼓を披露するシーンでは、躍動感のある画面の切り替えで、祇園太鼓の勇壮さを感じることができます。松五郎が過去を振り返るシーンでは、思い出の映像が何重にもオーバーラップした映像が映し出されます。これは、多重露光という技術が使われており、なんとも幻想的でした。
 
 未亡人への秘めたる恋心を描いた純な男のラブストーリーでありながら、「無法松の一生」は見事な反戦映画になっています。この作品が製作された1943年(昭和18年)は,太平洋戦争が勃発して3年目。戦局は,前年のミッドウェイ海戦以降の連合国軍の反攻により、南方諸島での日本軍は壊滅的な打撃を受けて敗色が濃厚になっていました。ヨーロッパでも、同盟国のドイツはスターリングラードで敗北して敗戦への道を辿っており、イタリアのパドリオ政権も連合国に無条件降伏します。
 
 このような末期的状況にまで追い詰められていた時期に、娯楽作品としての映画「無法松の一生」は誕生したのです。映画は当時、2度の検閲を受けて一部がカットされたにもかかわらず大ヒットしました。九州・小倉を舞台とした娯楽映画が国民に元気を与えたのです。作品本来のテーマとはまったく違ったところで、見事な反戦映画となった点においては、一条真也の映画館「窓ぎわのトットちゃん」で紹介したアニメ映画名作にも通じる部分があります。映画こそは、戦争という人類最大の愚行に対抗する平和のメディアである......そのことを、80年前に作られた「無法松の一生」を観て痛感しました。