No.817
14日の朝、ブログ「小倉昭和館再生!」で紹介したように、昨年8月10日夜に発生した旦過市場の火事で焼失した老舗映画館・小倉昭和館が再建され、こけら落としで上映された日本映画「共喰い」を鑑賞しました。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「小説家・田中慎弥による人間の暴力と性を描いた芥川賞受賞作を、『サッド ヴァケイション』『東京公園』などの青山真治が映画化した人間ドラマ。昭和の終わりの田舎町を舞台に、乱暴なセックスにふける父への嫌悪感と自分がその息子であることに恐怖する男子高校生の葛藤を映し出す。主演は、『仮面ライダーW(ダブル)』シリーズや『王様とボク』の菅田将暉。名バイプレイヤーとして数々の作品に出演する光石研と田中裕子が脇を固める。閉塞感漂う物語がどう料理されるか、青山監督の手腕に期待」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「昭和63年。高校生の遠馬(菅田将暉)は、父(光石研)と父の愛人・琴子(篠原友希子)と暮らしている。実の母・仁子(田中裕子)は家を出て、近くで魚屋を営んでいた。遠馬は父の暴力的な性交をしばしば目撃。自分が父の息子であり、血が流れていることに恐怖感を抱いていた。そんなある日、遠馬は幼なじみの千種(木下美咲)とのセックスで、バイオレンスな行為に及ぼうとしてしまい......」
記念すべき小倉昭和館のこけら落としで観た「共喰い」ですが、わたしは初見でした。映画好きのわたしが公開当時に観なかったのは、原作者の田中慎弥が嫌いだったからです。ある騒動がきっかけで原作もパラッと目だけ通しましたが、つまらない小説だなと思いました。女を殴る父と、同じ目をした息子。川辺の町で暮らす17歳の少年が、セックスの時に暴力を振るうという父親の習性を受け継いでいることを自覚し、懼れ、おののきます。逃げ場のない、濃密な血と性の物語ですが、スキャンダラス性ばかり目立ってリアリティを感じませんでした。
神社でのセックスの場面もやたらと多く登場しますが、江戸時代や明治初期じゃあるまいし、若者がいつも神社で逢引きするというのは現実的ではありません。性交中に女を殴る性癖の描写も、著者の妄想だけで書かれたように思えます。「共喰い」が芥川賞に選ばれたときの選考委員の1人に当時、東京都知事だった石原慎太郎氏がいましたが、石原氏は候補作品全般を「リアリティーがない」と批判しました。受賞後の記者会見では、田中氏が石原氏に反論したことが話題になりました。そのときの会見の模様をTVニュースで観ましたが、わたしは「おいおい、中二病かよ」と思ったことを記憶しています。
ちなみに、わたしは作家・石原慎太郎の熱心な愛読者でした。石原氏のデビュー作は短編小説の「太陽の季節」(1956年)でした。裕福な家庭に育った若者の無軌道な生活を通して、感情を物質化する新世代を描いた作品で、「共喰い」と同じく芥川賞を受賞しています。しかし、「太陽の季節」の場合は、同作品が受賞したことによって芥川賞そのものがメジャーになるほどのインパクトがあり、「太陽族」という言葉が流行語となり、「この小説によって日本の戦後が始まった」とまで言われました。「太陽の季節」と「共喰い」はともに若者の奔放なセックスを描いていますが、その違いは作者の体験(正確には、作者の弟である石原裕次郎の体験)に基づく前者には圧倒的なリアリティがあり、「共喰い」にはリアリティの欠片もないことです。あと、前者が湘南の裕福な若者が主人であるのに対し、後者は地方で絶望する若者が主人公という大きな違いがあります。同じアンモラルでも大きな違いです。
第34回芥川賞を受賞した「太陽の季節」は1956年に日活作品として映画化されました。ストーリーは原作にほぼ忠実です。なお、原作者の弟である石原裕次郎が脇役として出演しており、これがデビュー作でした。裕次郎はもともと原作に登場する文化風俗などを兄に代わってアドバイスする考証スタッフとして関わっていたが、役者の数が足りなくなったため急遽出演することになったといいます。じつは、「共喰い」を観たとき、わたしは主演の菅田将暉が石原裕次郎に似ていると思いました。菅田の短髪のヘアスタイルはいわゆる「慎太郎カット」のように見えましたが、ふてくされたような菅田の表情と怒ったときの目力が若き日の裕次郎にすごく似ていると思ったのです。そんなわけで、「共喰い」を観たわたしは「太陽の季節」を連想したわけですが、もう1つ連想した映画がありました。一条真也の映画館「無法松の一生」で紹介した前日の夜に観た日本映画史に残る名作です。
「無法松の一生」は、暴れん坊の車夫・富島松五郎が軍人の未亡人に寄せる淡い恋心を描いたプラトニック・ラブの大傑作です。戦時中に作られたこともあり、性的な描写は一切登場しません。「共喰い」はいわば全編が性的描写だらけですので正反対の構図となっています。そして、両作品で描かれている愛のカタチも正反対で、好意を寄せる相手の役に少しでも立ちたいというピュアな想いが描かれているのが「無法松の一生」であり、相手を性欲のはけ口としてしか見ないで暴力さえもふるって傷つける歪んだ情念が描かれているのが「共喰い」であると言えるでしょう。わたしは正反対の映画を2日続けて観たわけです。「無法松の一生」には俊雄役で沢村サダヲという少年が出演していますが、彼は後の長門裕之です。長門裕之といえば、「太陽の季節」の主演俳優です。映画の縁は思わぬところで繋がっていきますね。
映画.comより
「共喰い」は、100%わたし好みの映画ではありません。というか、大嫌いです。ただし、主演の菅田将暉の演技は素晴らしかったです。1993年に大阪府箕面市で生まれた彼ですが、デビュー直後はアイドル的な仕事が多く本人はその方向性に悩んでいたそうです。しかし、19歳で事務所の反対を押し切って、映画「共喰い」のオーディションを受けました。以降は文芸作品や単館系作品に数多く出演しています。 その一方で漫画の実写化なども多く、アイドル性と演技派の二面性を兼ね備えていると称されています。ちなみに、演技は非常に感覚的と言われ、彼の主演映画「溺れるナイフ」(2016年)の山戸結希監督は「現場に入ると『この人は本当に天才なのだ』と思うことがすごく多かった」と評価しています。
映画.comより
菅田将暉演じる遠馬は、父の円(光石研)と父の愛人の琴子(篠原友希子)と3人で、川辺の一軒家に暮らしています。円との性交のたびに殴られたり首を絞められたりするせいで、琴子の顔には痣ができています。その現場を見ていた遠馬は、円の血をひく自分も恋人の千種(木下美咲)に同じことをするのではないかと恐れています。遠馬の母の仁子は橋の反対側で魚屋を営んでいますが、田中裕子が演じました。戦争で空襲に遭って左手首を失った彼女は、特注の義手をつけて魚を下ろすのですが、本当に田中裕子の手首がないようにしか見えず、「これ、どうやって撮影したの?」と思いました。青山真治監督の映画マジックを見抜くことはできませんでしたが、ラストで仁子が昭和天皇を戦争責任者として糾弾する場面については「このシーンは余計だな」と思いました。
映画.comより
遠馬の父を演じた光石研も良かったです。わたしは北九州市出身で、同い年である彼のファンで、一条真也の映画館「波紋」や「逃げきれた夢」で紹介した映画での熱演には唸りました。「共喰い」の父親はとにかく人間のクズであり、死に方もクズにふさわしいものでしたが、こんなクズを熱演する俳優は凄いと純粋に思います。小倉昭和館での「共喰い」上映の後で、舞台挨拶が行われました。そのとき、登壇した光石さんが「みなさん、朝早くからこんな暗い映画を観ていただいて、すみません」「わたしは本当はいい人です」とマイクで話したのが印象的でした。その後、光石さんの口は重かったです。最近、観客の心に強く残る名作に出演され続けている光石さんにしてみれば、この「共喰い」での演技は黒歴史に近いものなのかもしれません。舞台挨拶には故青山監督の未亡人・とよた真帆さんも登壇されていました。わたしは、「自分の夫がこんな性描写だらけの映画を作ったと知ったら、妻はどう思うのだろう?」などと想像しました。ちなみに、今日も御挨拶しましたが、とよた真帆さんは礼儀正しくて素敵な方です!
舞台挨拶で話す光石研さん&とよた真帆さん