No.726


 6月15日の夜、T・JOYリバーウォーク北九州で日本映画「逃げきれた夢」を鑑賞。主演の光石研さんは北九州出身で、わたしと同い年。ブログ「小倉昭和館支援のTV取材」で紹介した小倉昭和館の樋口智巳館主と親しいそうです。映画は、わたしと同年代の多くの男性にとっての人生そのもののような内容でした。正直、「重い」と感じましたが、人生そのものが重いのだから仕方ありませんね。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『バイプレイヤーズ』シリーズなどの光石研主演によるドラマ。記憶が薄れていく症状を持った男が、それまでの人生を見つめ直す。メガホンを取るのは『お嬢ちゃん』などの二ノ宮隆太郎。『透子のセカイ』などの吉本実憂、『樹海村』などの工藤遥、『グッドバイ、バッドマガジンズ』などの杏花のほか、坂井真紀、松重豊らが出演する。
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「定時制高校の教頭・末永周平(光石研)は、元教え子の平賀南(吉本実憂)が働く定食屋で食事をしたものの、支払いをせずに店から出てしまう。周平は自分の記憶が薄れていることに気づき、将来を悲観する。冷え切った仲になってしまった妻・彰子(坂井真紀)や自分に見向きもしない娘・由真(工藤遥)などのことが頭によぎり、これまでの人生が素晴らしかったと言えるかどうか確信が持てない周平は、歩んできた人生を見つめ直す」
 
 終始、この映画には日常感がありました。日常の中で、光石研演じる末永周平のこれまでの人生が、良い人と思われたいとか、上辺だけで生きてきたということが各シーンで描かれていました。彼をよく知っている妻や娘、親友や目に掛けた生徒にはそれを見透かされており、関心がないとか、自分勝手とか思われていました。末永もそれを自覚しており、また、明らかになった病気のこともあって、「なんとかしないと!」といった焦燥感を感じました。ただ、その焦りから普段はしないような行動を取るのですが、そのどれもが空回り、見事にスベってしまい、悲壮感を漂わせていました。
 
 光石研の主演映画といえば、つい先日観たばかりの一条真也の映画館「波紋」で紹介した日本映画があります。これはものすごい大傑作で、わたしは「完璧な映画だ!」と大感動しました。須藤依子(筒井真理子)は、緑命会という水を信仰する新興宗教にのめり込み、祈りをささげては勉強会に勤しんでいました。庭に作った枯山水の庭の手入れとして、1ミリも違わず砂に波紋を描くことが彼女の毎朝の習慣となっており、それを終えては静かで穏やかな日々の尊さをかみしめます。しかし長いこと失踪したままだった夫の修(光石研)が突然帰ってきたことを機に、彼女を取り巻く環境に変化が訪れるのでした。この「波紋」のラストには大いなるカタルシスがありましたが、「逃げきれない夢」はカタルシス・ゼロ映画でした。観客のストレスを残したままエンドロールを迎えます。
 
「逃げきれた夢」の主人公。末永は妻と冷え切った関係にあります。あの妻は坂井真紀が演じているのですが、どうも、勤め先の会社の社長と不倫をしているようなのです。じつは、3日前に観た一条真也の映画館「水は海に向かって流れる」で紹介した日本映画でも坂井真紀は広瀬すず演じる主人公の母親役でしたが、W不倫をする役でした。わずか3日の間に2度も坂井真紀が不倫妻を演じた映画を観るとは思いませんでした。女優・坂井真紀の素顔がどういう女性なのかは知りませんが、映画には「不倫妻」というキャラクターが厳然として存在することを思い知りました。ならば、現在、世間を騒がせている広末涼子などは、これから不倫妻ばかり演じればいいのではないでしょうか?「不倫妻といえばヒロスエ」という地位を確立すれば、彼女の女優人生はバラ色だと思うのはわたしだけでしょうか?
 
「逃げきれた夢」を観て連想した映画は、「波紋」と「水は海に向かって流れる」だけではありません。一条真也の映画館「生きる LIVING」で紹介したイギリス映画も連想しました。イギリス映画とはいっても、この作品は黒澤明監督の名作「生きる」(1952年)のリメイクです。両作品では、がんの宣告をされた主人公が大変なショックを受け、自暴自棄になる様子が描かれます。ともに1950年代前半の物語で、今から70年前の話です。がんという病気が当時は現在のように「誰でもなる病気」と考えられるほど一般化していなかったのでしょう。それゆえ宣告されたときのショックも大きかったのだと思います。しかし、別に末期がんの患者でなくとも、誰だって半年後に、いや明日死ぬかもしれません。いつ人生が終わるかもしれない状況は、じつは万人が同じなのです。
 
「生きる」も、「生きる LIVING」も、主人公が亡くなって葬儀が行われます。そして、そこから本当の物語が始まります。葬儀に参列するために集まった人々が故人について語り合う中から、主人公のこの世での最後の日々の様子が明らかになっていくのです。コロナ前、わたしは「終活」をテーマにした講演をよく依頼されました。わたし自身は、「人生の終(しま)い方の活動」としての「終活」よりも、より前向きな「人生の修(おさ)め方の活動」としての「修活」という言葉を使うようにしています。そんな講演会でよくお話しするのが、「講演を聴いておられるみなさん自身の旅立ちのセレモニー、すなわち葬儀についての具体的な希望をイメージして下さい」ということです。わたしは自分の葬儀を考えることは、いかに今を生きるかを考えることだと思っています。
 
 自分の葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれやその心中を想像することは大切です。みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれるシーンを頭の中で描いてみると、自分の葬儀の場面とは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものだということがわかります。そんな理想の葬式を実現するためには、残りの人生において、あなたはそのように生きざるをえないのです。「逃げきれた夢」の末永が医師から病気について宣告されたとき、彼は自身の「死」を想ったことと思います。そして、もしかしたら自身の「葬」も想ったことでしょう。末永には年老いた父親がいますが、施設で沈黙したまま彼の話を聴く父はとてもダンディな老人でした。光石研本人のお父さんだとか。
 
 末永が自分の葬式を想像したときに、これまで上辺で過ごしてきた自分を振り返り、「これでは誰も自分の弔辞を心を込めて述べてくれない」と思ったかもしれません。その焦りからか、家族に醜態を見せ、妻と娘だけには自分を好きでいて欲しいと自身を嘲笑しながら懇願していました。終盤、自分の無銭飲食を立て替えてくれた吉本実憂演じる元教え子の平賀南にお礼のコーヒーをご馳走します。そのとき、彼は嫌われる教師の3タイプについて話します。「生徒から好かれようとする」「きれいごとばかり言う」「授業が面白くない」がそれですが、なるほどと思いました。喫茶店から出た後、末永はこれまでと違い、正直な言葉を平賀に投げかけます。そのままエンドロールを迎えるのですが、このときの末永の言葉はこの映画で唯一の正直な言葉だったのだと思います。その後の彼の人生など知りませんが、自分の心に素直になる小さな第一歩を歩み始めたように思えます。ちなみに、わが社のセレモニーホールで行われる元教師の方の葬儀には、多くの教え子の方が参列されます。いつも、「先生と言う仕事は、教え子がそのまま『おくりびと』になってくれて幸せだなあ」と思います。末永が最期を迎えたときに、誰が葬式にきてくれるのでしょうか? そんなことを考えました。
 
 この映画、実生活でも仲の良い光石研と松重豊が旧知の友として出演しています。この2人の会話がバリバリの北九州弁。石田(松重豊)が末永(光石研)へ「珍しいのう、校長先生かぁ」と声を掛けますが、実際は定時制の教頭である周平の「校長ちゅねぇよバーカ」というツッコミを皮切りに軽快な北九州弁の会話がテンポ良く繰り広げられます。脚本には石田が何度も口にする「しゃあしい(意味:うるさい)」をはじめ、リアルさを追求する二ノ宮監督のこだわりから、九州弁の分からない人にとっては聞き慣れない方言も多く登場します。現場では北九州出身の光石に対して、神奈川県出身の二ノ宮監督から北九州弁の言い回しの相談も度々あったそうです。でも、小倉生まれの玄海育ちのわたしですが、この映画の北九州弁はうざかったですね。せっかく重厚な人間ドラマなのに、北九州弁のインパクトが強すぎて損をしていると思いました。
 
 この映画、「第76回カンヌ国際映画祭」で日本映画史上2作目のACID部門正式出品を果たし、現地での上映でも喝采を浴びたそうですが、フランス人の観客には北九州弁も日本語の標準語の区別もつかなかったのでしょう。わたしは映画の言語の中ではフランス語が一番好きで、いつも「音楽のようだな♪」と思います。そして、がさつな北九州弁は音楽とは対極に位置する言葉だと思っています。それは置いておいて、松重との共演について光石は「僕との関係性もあってこの映画に出てくださったと思うので、ものすごく感謝しています」と言えば、その気持ちへ応えるように松重は「光石研という世の映画スタッフ・キャスト、全ての人に愛されている人が光り輝くような映画になればいいなと思いながら撮影に参加しました」と俳優・光石研への思いを語っています。もちろん、この2人の共演はこの映画で最大の見どころです。また、長回しのセリフを難なくこなす光石研の匠の技にも痺れました。いつか、小倉昭和館の樋口館主に紹介していただきたいです!