No.842


 東京に来ています。2日夜、この日から公開されたアニメ映画「鬼滅の刃 絆の奇跡、そして柱稽古へ」を観ました。昨年は節分当日に前作を観ましたが、今年は節分前夜に鬼退治の物語を楽しみました。TOHOシネマズ日比谷の1番シアターのスペシャルシートで長女と一緒に観たのですが、映像も音楽も最高!至高の体験をすることができました。鬼滅ファンという長女も大感激していました。
 
 ヤフーの「解説」には、「吾峠呼世晴原作のコミックをアニメ化した『鬼滅の刃』シリーズの『刀鍛冶の里編』第11話と『柱稽古編』の第1話をスクリーン上映する劇場版。上弦の肆の鬼・半天狗との死闘を繰り広げる主人公・竈門炭治郎の活躍とともに、鬼舞辻無惨との決戦に向けた柱稽古の開幕を描く。アニメーション制作をufotable、監督を外崎春雄が担当。ボイスキャストを花江夏樹、鬼頭明里などが担当する」とあります。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「半天狗を追い詰めた竈門炭治郎は刀で半天狗の頸を斬るが、半天狗は本体が無事だったため、頸を切られたまま刀鍛冶たちを襲撃しようとする。そのとき夜が明け、炭治郎の妹・禰豆子が太陽の光を浴び、命の危険にさらされてしまう。炭治郎は半天狗を再び斬るか、太陽に焼かれる禰豆子を守るかの選択を迫られる」

「鬼滅の刃」は、言わずとしれた集英社ジャンプ コミックス1巻~23巻で累計発行部数1億5000万部を突破した吾峠呼世晴による漫画作品が原作です。アニメーション制作はufotable。家族を鬼に殺された少年・竈門炭治郎が、鬼になった妹の禰豆子を人間に戻すため、「鬼殺隊」へ入隊することから始まる物語です。
 
「鬼滅の刃」の劇場版アニメを観るのは3回目です。1回目は、一条真也の映画館「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」で紹介した超ヒット作でした。アニメ版「竈門炭治郎 立志編」の最終話の続編となる劇場版です。鬼に家族を殺された少年と仲間たちが、鬼との新たな戦いに立ち上がります。蝶屋敷での修業を終えた"鬼殺隊"の竈門炭治郎は、短期間で40人以上が行方不明になった"無限列車"を捜索する任務に就きます。妹の竈門禰豆子を連れた炭治郎と我妻善逸、嘴平伊之助は、鬼殺隊最強の剣士"柱"のひとりである炎柱の煉獄杏寿郎と合流し、闇を進む無限列車の中で鬼を相手に戦い始めるのでした。
 
 2回目は、一条真也の映画館「『鬼滅の刃』上弦集結、そして刀鍛冶の里へ」で紹介した作品でした。アニメ版「鬼滅の刃 遊郭編」の第10話、第11話と「鬼滅の刃 刀鍛冶の里編」の第1話を上映。家族を鬼に殺された少年・竈門炭治郎が、鬼の殲滅を掲げた鬼殺隊の一員として激闘を繰り広げます。炭治郎、音柱・宇髄天元たちと上弦の陸・堕姫と妓夫太郎との激闘を描いた「遊郭編」第10話、第11話の劇場初上映と共に、その後の新たな任務地での霞柱・時透無一郎と恋柱・甘露寺蜜璃との出会いや無限城に集められた上弦の鬼の姿を描いた「刀鍛冶の里編」第1話を初公開。
 
「鬼滅の刃」という物語は、基本的に戦の話です。一方に、鬼舞辻無惨をリーダーとして、「上弦」たちがトップを占める「鬼」のグループ。他方に、「お館様」こと産屋敷耀哉をリーダーとして、「柱」たちがトップを占める「鬼殺隊」のグループ。この両グループが死闘を繰り広げる組織vs組織の戦争物語なのです。組織同士の戦いなので、マネジメントやリーダーシップの観点からも興味深い点が多々あります。恐怖心で鬼たちを支配する鬼舞辻無惨はハートレス・リーダーであり、鬼殺隊の剣士たちを心から信頼し、かつリスペクトする産屋敷耀哉はハートフル・リーダーです。両陣営の闘いは「ブラック企業vsホワイト企業」と言ってもいいでしょう。ホワイト企業には志や使命感があることも確認できました。
 
「鬼滅の刃」で一番盛り上がるのは、柱vs上弦の闘いです。日本映画の歴代映画興行収入1位となった無限列車編でも炎柱・煉獄杏寿郎 VS上弦の参・猗窩座の戦いが行われました。劇場で観たわたしは大いに興奮し、感動の涙を流しました。しかし、「鬼滅の刃」全編を通じて、柱と上弦の闘いでは圧倒的に上弦が有利です。上弦となれば体は再生しますし、夜に戦いが行われていますし、夜明けとなれば鬼は逃げますし、そんな中で柱たちは良く闘ったなと思います。この映画では、結果は恋柱・甘露寺蜜璃と上弦の肆・半天狗が死闘を繰り広げますが、蜜璃は炭治郎&禰豆子と不死川玄弥の助けを得て勝利します。半天狗は分裂能力のような血鬼術を使います。上弦の陸・堕姫&妓夫太郎とは違い、斬ったら斬っただけ分裂して若返り強くなります。そしてそれを操る本体がどこかにいることを瞬時に読み解く炭治郎が凄かった!
 
 それにしても、「鬼滅の刃」のアニメーションのクオリティは素晴らしいです。ufotableがこれまで積み上げてきたアニメーションの細部へのこだわりが、さり気なく施されています。「映画.com」で、アニメに詳しい五所光太郎氏は、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」について「錦絵を参考に作画と3DCGのハイブリッドで絢爛豪華に描かれた大アクションには、とがった映像によくある見辛さはまったくない。エンターテインメントに徹した裾野の広い映像化でありつつも、線を均一にするのが標準のアニメに強弱のある漫画タッチの描線をとりいれ、炭治郎の隊服の市松模様も省略せず手描きで描かれている」と書いていますが、それは本作にも言えることでした。

「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)
 
 
 
 拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)に書いたように、「鬼滅の刃」という物語のテーマは、わたしが研究・実践している「グリーフケア」通じます。鬼というのは人を殺す存在であり、悲嘆(グリーフ)の源です。そもそも冒頭から、主人公の竈門炭治郎が家族を鬼に惨殺されるという巨大なグリーフから物語が始まります。また、大切な人を鬼によって亡き者にされる「愛する人を亡くした人」が次から次に登場します。それに対して、鬼殺隊に入って鬼狩りをする一部の人々は、復讐という(負の)グリーフケアを自ら行います。しかし、鬼狩りなどできない人々がほとんどであり、彼らに対して炭治郎は「失っても、失っても、生きていくしかない」と言うのでした。強引のようではあっても、これこそグリーフケアの言葉です。
 
 炭治郎は、心根の優しい青年です。鬼狩りになったのも、鬼にされた妹の禰豆子(ねずこ)を人間に戻す方法を鬼から聞き出すためであり、もともと「利他」の精神に溢れています。その優しさゆえに、炭治郎は鬼の犠牲者たちを埋葬し続けます。無教育ゆえに字も知らず、埋葬も知らない仲間の伊之助が「生き物の死骸なんか埋めて、なにが楽しいんだ?」と質問しますが、炭治郎は「供養」という行為の大切さを説くのでした。さらに、炭治郎は人間だけでなく、自らが倒した鬼に対しても「成仏してください」と祈ります。まるで、「敵も味方も、死ねば等しく供養すべき」という怨親平等の思想のようです。「鬼滅の刃」には、「日本一慈しい鬼退治」とのキャッチコピーがついており、さまざまなケアの姿も見られます。
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なぜ、コロナ禍の中で大ヒットしたのか?
 
 
 
 正直に告白するなら、わたしが「鬼滅の刃」の存在を知ったのは、映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が公開された後でした。ある出来事がきっかけでアニメを全話観て、続いて劇場版を観て、それからコミックを読破した次第です。結果、感じたことがあります。それは経済効果という視点からでは見えてこない、社会現象にまでなった大ヒットの本質です。それが『「鬼滅の刃」に学ぶ』の執筆を決意したゆえんでもあります。すさまじいまでの鬼滅ブームには、漫画の神様の存在や、現代日本人が意識していない、神道や儒教や仏教の影響を見ることができます。わたしは、鬼滅現象は単なる経済的な効果を論じるだけではない、大きな転換点を感じています。コロナ禍の中にあった2020年に日本では、ことごとく祭礼が中止されました。その中で生じる最大の問題は、夏祭りや盆踊りが担っていた祖霊祭祀と病疫除去という役割を、誰が担うのかというものです。その答えの1つが、「鬼滅の刃」という作品だったと思います。

「鬼滅の刃」は「天下布礼」の物語だった!
 
 
 
 祭りは先祖供養であると同時に、疫病退散の祈りでした。それが中止になったことにより、日本人の無意識が自力ではいかんともしがたい存在である病の克服を願い、疫病すなわち鬼を討ち滅ぼす物語であり、さまざまな喪失を癒す物語でもある「鬼滅の刃」に向かった側面があるのではないか。「鬼滅の刃」現象とは、コロナ禍の中の「祭り」であり、「祈り」だったのです。『鬼滅の刃』という物語は、わたしたちの仕事である冠婚葬祭業とも深い関わりがある、いわば「天下布礼」の物語であると言えます。儀式は、人生の縦軸――人間の年齢の変遷に対応する「冠婚葬祭」と、横軸である一年という円環に対応する「年中行事」に大別できますが、コロナ禍がきっかけとなり、冠婚葬祭はすでにこれからのあるべき姿について見直しが始まっていました。ここに加えて、年中行事も同じように、その本質と継承が議論されることは、日本の儀式文化の存続という点で大きな意味を持つことでしょう。
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決定版冠婚葬祭入門』と『決定版年中行事入門
 
 
 
 年中行事といえば、本日、2月3日は節分です。節分は鬼を払う行事です。疫病と鬼は古くからの深いつながりがあり、「鬼滅の刃」もまた鬼=疫病とする描写が多く見られます。夏に高温多湿となり、冬に低温低湿になる日本ではしばしば疫病が流行しました。このため日本の伝統行事には、疫病を祓うためのものが多いですが、最も有名なものが2月の節分の豆まきなのです。疫病は鬼がもたらすものと考えられ、節分=『季節を分ける日』、つまり季節の変わり目に鬼を祓って健康を祈願しました。この節分の豆まきは宮中行事の追儺式が起源とされますが、大きな流行をもたらす疫病の多くは外国からもたらされた疫病でした。このことから「鬼は外」は外国からもたらされた疫病を国外へと追い出すことを表しているとする説もあるとか。
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節分こそは、鬼滅の祭り!
 
 
 
「鬼滅の刃」は、大正時代を舞台に主人公が鬼と化した妹を人間に戻す方法を探すために戦う姿を描いていますが、鬼も哀しい存在として描かれています。特に「遊郭編」第10話・第11話に登場する上弦の陸・堕姫と妓夫太郎は悲しい宿命を帯びた兄妹であり、まさにグリーフの物語でした。わたしは、子どもの頃から新美南吉の『ごんぎつね』が愛読書です。狐にまつわる童話ですが、鶴にまつわる『つるのおんがえし』、鬼にまつわる『泣いた赤鬼』などの童話も好きでした。それぞれ、最後には狐や鶴や鬼が死ぬ物語で、残された者の悲しみが描かれています。
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鬼もつらいよ!
 
 
 
 節分といえば、いろいろと思い出があります。2人の娘たちが小さかった頃はよく鬼の仮面をかぶったものです。「鬼は外」と豆を投げつけられるのは、なんとなく切ないですね。なぜなら、鬼を忌むべき存在として決めつけているからです。そこには「排除」の構図があるからです。かつて、わたしは「鬼は外 豆を投げれど 赤鬼の泣いた顔見て 鬼も内へと」という歌を詠みました。そもそも、「鬼」とは何でしょうか? 雷神、酒呑童子、茨木童子、節分の鬼、ナマハゲなどが思い浮かびますが、古くは『日本書紀』や『風土記』にも鬼は登場しました。鬼は古くから日本人の「こころ」に棲みついています。
 
 一条真也の読書館『鬼と日本人』で紹介した本で、民俗学者の小松和彦氏は「鬼とはなにか」というテーマを取り上げ、「なによりもまず怖ろしいものの象徴」として、「鬼は長い歴史をもっている。鬼という語は、早くも古代の『日本書紀』や『風土記』などに登場し、中世、近世と生き続け、さらには現代人の生活のなかにもしきりに登場してくる。ということは、長い歴史をくぐり抜けて来る過程で、その言葉の意味や姿かたちも変化し多様化した、ということを想定しなければならない。じっさい、その歴史を眺め渡してみると、姿かたちもかなり変化している。鎌倉時代の鬼の画像をみると、角がない鬼もいれば、牛や馬のかたちをした鬼もいるし、見ただけではとうてい鬼と判定できない異形の鬼もいることがわかる。それがだんだんと画一化され、江戸時代になってようやく、角をもち虎の皮のふんどしをつけた姿が、鬼の典型となったのであった。しかしながら、怪力・無慈悲・残虐という属性はほとんど変化していない。鬼は、なによりもまず怖ろしいものの象徴なのである」と述べています。
 
 鬼にちなんだ歌といえば、ブログ「虹鬼伝説」で紹介した「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生の名曲「虹鬼伝説」を思い出します。この曲について、鎌田先生は「子どものころしばしば鬼を見た。天河大弁財天社には2月2日の夜に祖霊でマレビトである『鬼』を迎える『鬼の宿』という神事がある。鬼とはいったい何か。わたしは今も鬼に魅せられ続けている。『虹の祭り』のイメージソングとして生まれた」とコメントされています。わたしは、この「虹鬼伝説」という歌が大好きです。これほど「平和」や「平等」を発信したメッセージソングはないと思います。まさに、コンパッション・ソングであり、グリーフケア・ソングだと言えるでしょう。節分の前夜、「鬼滅の刃 絆の奇跡、そして柱稽古へ」を観終わって、無性に鎌田先生に会いたくなりました。現在、ステージ4のがん患者である鎌田先生は入院されており、今年最初の満月が上った1月26日に投稿した「ムーンサルトレター第227信」の返信はまだ届いておりません。

映画館で配られました