No.847
2月10日、前日の9日から公開された映画「瞳をとじて」をシネプレックス小倉で観ました。わたしが愛してやまないビクトル・エリセ監督の31年ぶりの新作です。ミステリー仕立てのヒューマンドラマで、なかなか見応えがありました。でも、上映時間169分はちょっと長過ぎた!
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区』などのビクトル・エリセがメガホンを取り、第76回カンヌ国際映画祭で上映されたドラマ。映画の撮影中に人気俳優が失踪した事件の検証番組に出演した映画監督が、親友だった俳優との青春時代などを振り返っていく。『コンペティション』などのマノロ・ソロ、『息子のしたこと』などのホセ・コロナド、『ミツバチのささやき』でもエリセ監督と組んだアナ・トレントらが出演する」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「映画監督のミゲルは、親友の人気俳優フリオ・アレナスを主演に迎えた映画『別れのまなざし』を撮り始めるが、撮影中にフリオはこつぜんと姿を消してしまう。22年後、ミゲルはフリオの失踪事件を検証するテレビ番組に出演し、フリオと過ごした青春時代と自らの半生を振り返る。しかし番組の終了後、『フリオによく似た男が海辺の施設にいる』という情報が寄せられる」
ビクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」は、伝説のミニシアター"シネ・ヴィヴァン・六本木"で1985年に記録的な動員を打ち立て、社会現象を巻き起こしました。今もなおタイムレスな名作として多くの映画ファンの「人生ベスト」に選ばれる名作です。当時、大学生ながら六本木に住んでいたわたしもリアルタイムで観て感動しました。その名作のメガホンを取ったエリセ監督が、第76回カンヌ国際映画祭で31年ぶりの長編新作をカンヌプレミア部門にて発表したのが「瞳をとじて」。御年83歳、スペインが誇る伝説の巨匠復活のニュースに世界が騒然、待望の新作に歓喜する声が溢れました。カンヌで公開されると、「エリセの切実で完璧な帰還」(VARAETY)、「30年以上待つだけの価値ある傑作」(eCartelera)と評されるなど、絶賛されました。
「ミツバチのささやき」は1973年のスペイン映画で、ビクトル・エリセ監督の処女作です。1940年、スペインのとある小さな村にホラー映画「フランケンシュタイン」(1931年)の巡回映画がやってくきます。6歳の少女アナは、姉から怪物は村外れの一軒家に隠れていると聞き、それを信じ込みます。そんなある日、アナがその家を訪れた時、そこで1人のスペイン内戦で傷ついた負傷兵と出合うのでした。この映画には、フランシスコ・フランコによる独裁政治が始まるスペイン内戦後の国政に対する微妙な批判が込められています。主人公を演じるアナ・トレントの純真無垢で好奇心にあふれる瞳が印象的でした。撮影当時5歳で見出され主演に抜擢されたアナ・トレントが「瞳をとじて」では50年ぶりに同じく"アナ"の名前を持つ女性を演じました。彼女はかつて失踪した元人気俳優の娘役という重要な役どころを演じています。
「瞳をとじて」のアナは、俳優だった父親のフリオの不在によって、人生に大きな影響を受けます。この父と娘のディスコミュニケーションというテーマは、エリセ監督の第2作である「エル・スール」(1983年)にも通じています。1957年、スペイン北部の秋。ある朝、少女エストレーリャ(ソンソーレス・アラングレン)は目覚めると、枕の下に父アグスティン(オメロ・アントヌッティ)の振り子を見つけます。エストレーリャは父が死んだことを悟ります。彼女は、内戦下のスペインを家族で「南」の町から「北」の地へと引っ越したことを回想。8歳のエストレリャが過ごした"かもめの家"での暮らしが語られ、謎めいた「父」の秘密が語られるのでした。1996年、スペイン映画生誕100周年を記念して映画製作者と映画評論家によって行われた、歴代最高のスペイン映画を決める投票では、この作品が第6位にランクインしています。
そして、エリセ監督の最新作である「瞳をとじて」は、ある映画の冒頭シーンから始まります。そこは「悲しみの王」という名の邸宅が舞台でした。ここで映画の撮影中に突然姿を消した俳優で親友のフリオの失踪事件の真相を辿り、旅に出る元映画監督のミゲル。「人生」と「記憶」をヒントに、エリセ監督が長年見つめ続けてきた変わりゆく時代と人々の営みが淡々と描かれ、彼の映画への愛情が詩情豊かに綴られます。ネタバレを承知で書くと、フリオはあることが原因で記憶喪失となり、映画の撮影現場から消えたのでした。その後、流れ流れた彼はある高齢者介護施設に身を寄せ、そこでミゲルと再会します。フリオが消えたことによって未完となった映画のフィルムが最後に上映されますが、それは一条真也の映画館「ニューシネマ・パラダイス」で紹介したイタリア映画などよりもずっと感動的なシーンでした。わたしは、「映画とは記憶そのもの」と悟りました。「瞳をとじて」は、まさに"映画の映画"です!
記憶喪失による失踪ということから、わたしは一条真也の読書館『やがて死ぬけしき』で紹介した僧侶で作家の玄侑宗久氏の著書の内容を思い出しました。玄侑氏は、同所で東日本大震災後の石巻で娘さんが行方不明だという父親に会ったエピソードについて書いています。もう震災から2ヵ月ほど経っていたそうですが、その父親は23歳の娘の生存を、信じていました。玄侑氏は思い切って「いったいどう考えたら、今も生きていると信じられるのですか」と訊ねたそうです。すると当時の玄侑氏と同世代と思える50代のその男性は、しばらく黙って虚空を睨んでいましたが、けっしてその場で考えたというふうではなく、きっぱりした口調で「津波に襲われた瞬間に記憶喪失になって、どこかしらねえ浜さ流れついでさ、しらねえ人の世話になって生きてるんでねえが」と答えたそうです。
行方不明の娘が記憶喪失になってどこかで生きているのではないかという父親の言葉について、玄侑氏は「きっと、毎日毎晩、彼は娘の無事を祈り、なんとか生きていてほしいと思い続けたことでしょう。それだけでなく、あらゆる可能性の中から、彼は可能性の高い低いは関係なく、とにかく望ましい可能性を選び、そのイメージを具体的に膨らませていたのではないでしょうか。そこには本当の意味での『祈り』があります」と述べています。その意味で、「瞳をとじて」で親友を生存を信じるミゲルや父親の生存を信じるアナの心には「祈り」がありました。そう、この映画は"祈りの映画"なのです。そして、愛する息子を失ったミゲルの悲嘆に寄り添う"グリーフケア映画"でもありました。今年1月1日に発生した能登半島地震では、いまだに12人の安否不明者がいますが、この方々にはどのような「祈り」が捧げられているのでしょうか。 玄侑氏とは次回作『お経と冠婚葬祭』(仮題)で対談する予定ですので、「祈り」についても語り合いたいと思います。