No.875


 東京に来ています。
 4月10日、冠婚葬祭文化振興財団の経営会議に出た後、有楽町で出版関係の打ち合わせ。夜は、ヒューマントラストシネマ有楽町で映画「ブルックリンでオペラを」を観ました。まさに" ザ・多様性ムービー"みたいな映画でしたが、正直言って強い違和感をおぼえました。その違和感について詳しく書けないところに、とても不自由さを感じます。
 
 ヤフーの「解説」には、「ニューヨークを舞台に、幸せそうに見える夫婦に訪れた驚きの出来事を描くヒューマンドラマ。スランプに陥った現代オペラ作曲家の人生が、ある女性との出会いをきっかけに大きく変化する。監督などを手掛けるのは『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』などのレベッカ・ミラー。『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』などのアン・ハサウェイ、『シラノ』などのピーター・ディンクレイジ、『太陽に抱かれて』などのマリサ・トメイらがキャストに名を連ねる」とあります。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「潔癖症の精神科医パトリシア(アン・ハサウェイ)と、現代オペラ作曲家のスティーブン(ピーター・ディンクレイジ)は、ニューヨーク・ブルックリンで暮らしている。ある日、人生最大のスランプに陥ったスティーブンは、愛犬と行くあてのない散歩に送り出され、立ち寄ったバーで船長のカトリーナ(マリサ・トメイ)と出会う。彼女の誘いで船に乗り込んだスティーブンを、思わぬ出来事が待ち受けていた」となっています。
 
 わたしが、この映画を観ようと思ったのは、お気に入りの女優であるアン・ハサウェイが出演していたからです。「プラダを着た悪魔」(2003年)、「レ・ミゼラブル」(2012年)などの代表作が思い浮かぶ彼女ですが、主演と製作を務めたラブロマンスで「ブルックリンの恋人たち」という2014年公開の映画があります。事故で意識が失われた状態に陥った弟の日記を基に、彼の歩んだ道をたどっていた女性に待ち受ける恋を見つめる物語です。メガホンを取ったのは、「プラダを着た悪魔」で監督助手を務めていた新鋭ケイト・バーカー・フロイランド。甘く切ない物語に加え、舞台となるブルックリンの街並みも魅力的で、わたしはタイトルにブルックリンが入っていることから「ブルックリンの恋人たち」の続編のようなイメージで「ブルックリンでオペラを」を観たのです。
 
 その「ブルックリンでオペラを」ですが、いわゆるルッキズムを否定している映画なのでしょうが、それならば何故、アン・ハサウェイのような美女を起用する必要があるのか。いや、逆に多様性映画には「白人」「美貌」「セレブ」という彼女のキャラクターが必要だったのかもしれませんね。この作品の彼女は非常に美しく、下着を取ってオールヌードになる場面(背後からのショットですが)ではドキッとしました。こんなふうに感じることも不適切になるのでしょうか。どうにもモヤモヤする作品でした。ハリウッドはポリコレや多様性に夢中のようですが、一条真也の映画館「オッペンハイマー」で紹介した原爆開発者の伝記映画がアカデミー賞7冠に輝いたとき、そんなものは上辺だけの嘘っぱちであり、「くだらない」と思いました。
 
「オッペンハイマー」がアカデミー賞で脚光を浴びて以来、わたしはアメリカという国のいかがわしさを再認識しているのですが、大谷翔平の通訳の違法賭博問題でもその想いは強くなりました。アメリカは州によって同じ賭博が合法になったり違法になったりします。「アメリカは合衆国なのだから、州によって法律が違うのは当然だよ」と訳知り顔で言う人がいますが、よく考えたら同じ国で法律が違うのっておかしくないですか。映画「ブルックリンでオペラを」でも16歳の少女が結婚できる州とできない州があるとの説明がなされるシーンがあるのですが、わたしは「やっぱり、変な国だな!」と思いました。
 
 ピーター・ディンクレイジが演じる主人公のスティーブンが現代オペラ作曲家であるという設定から、「ブルックリンでオペラを」にはオペラの場面がいくつか挿入されていましたが、これらはいずれも力強く魅力的でした。わたしがオペラの魅力を知ったのは、じつはアンドリュー・ロイド・ウェーバーによるミュージカル「オペラ座の怪人」(初演:1986年)を観たときからです。ミュージカルというのは、ヨーロッパ産の舞台芸術であるオペラの大衆版としてアメリカで誕生したという経緯があります。いわば" オペラの子"であるミュージカルが親の魅力を最大限に示したという意味で、「オペラ座の怪人」という作品はきわめてユニークであると言えるでしょう。
 
 ミュージカルといえば、芝居の途中でいきなり歌い出すものですが、最近の日本ではそのミュージカルが思わぬ形で広く脚光を浴びました。ブログ「不適切にもほどがある!」で紹介したTBS金曜ドラマで、宮藤官九郎氏がオリジナル脚本を手掛けたヒューマンコメディーです。主人公は、1986年(昭和61年)から2024年(令和6年)にタイムスリップしてしまった体育教師の小川市郎(阿部サダヲ)。典型的な"昭和のダメおやじ"である彼の"不適切"な言動がコンプライアンスで縛られた令和の人々に衝撃を与えるとともに、「何が正しいのか」について考えるヒントを与えました。このドラマで毎回、コンプライアンスにおけるさまざまな問題を歌い上げる「ふてほどミュージカル」が人気を集めたのです。
 
 ドラマ「不適切にもほどがある!」のコンセプトは、「昭和のダメ親父vs令和のコンプライアンス社会」ですが、第1回目から爆笑の展開が続きます。バスを使ったタイムマシン(SF好きから見ると、ツッコミ所は満載!)で、1986年(昭和61年)から2024年(令和6年)にやってきた小川市郎は、信じられないようなコンプライアンス社会の姿を目にします。「コンプライスを意識しすぎてテレビが面白くなくなった」と言われて久しいですが、そんな風潮に一石を投じる宮藤官九郎の感性が冴えわたって、インターネット上でも大反響を巻き起こしました。毎回、昭和と令和のギャップなどを小ネタにして爆笑を誘いながら、「多様性」「働き方改革」「セクハラ」「既読スルー」「ルッキズム」「不倫」「分類」、そして最終回は「寛容」と社会的なテーマをミュージカルシーンに昇華するのが最高でした。クドカンは天才ですね!
 
 令和の時代について「多様性の時代です」と説明する者に対して、小川は「『がんばれ!』って言われたら、1ヵ月でも会社を休んでいい時代?」と問いかけます。また、「『結婚だけが幸せじゃない』って言うけど、じゃあ『結婚しました。幸せです!』って言っちゃいけないってこと?」という小川の言葉は胸に突き刺さりました。じつは、映画「ブルックリンでオペラを」を観る数時間前に参加した冠婚葬祭文化振興財団の経営会議である問題が話し合われました。財団が主催する小学生の「私がしたい結婚式」絵画コンクールの是非についての話し合いです。最近の小学生は結婚式に参列する機会が以前に比べて格段に少なく、結婚式の存在そのものを知らないこともあって絵画の応募点数が激減しているのです。
 
 そもそも「結婚式をすべき」「結婚するのが正しい」という価値観そのものが多様性の流れに反しているのではないかなどと激論が交わされました。最後は「まあ、冠婚葬祭の振興のための財団なのだから、結婚や結婚式を肯定するのは間違っていない」という結論に落ち着きましたが、いやはや難しい時代になったものです。この会議の途中で、わたしは小川市郎の「『結婚だけが幸せじゃない』って言うけど、じゃあ『結婚しました。幸せです!』って言っちゃいけないってこと?」という言葉を思い出していました。ちなみに、わたしは結婚したら結婚式を挙げるのが当たり前だし、親が亡くなったら必ず葬儀をしなければならないと考えています。でも、それを声高に叫んでもZ世代の耳には届かないかもしれません。そういった想いや、映画「ブルックリンでオペラを」を観て感じた違和感などもミュージカルで声高らかに歌い上げたい気分です♬