No.877
4月19日から公開のアメリカ・イギリス映画「異人たち」をシネプレックス小倉で鑑賞。一条真也の映画館「異人たちとの夏」で紹介したジェントル・ゴースト・ストーリーの名作映画のリメイクですが、大幅な改変が行われています。結論から言うと、わたしは苦手な作品でした。「異人たちとの夏」は大好きな映画なのですが、改悪されたという思いです。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「大林宣彦監督によって映画化もされた山田太一の小説『異人たちとの夏』を映画化したドラマ。幼少期を過ごしたかつてのわが家を訪れた脚本家が、30年前に亡くなったはずの両親とそこで出会う。メガホンを取るのは『荒野にて』などのアンドリュー・ヘイ。『1917 命をかけた伝令』などのアンドリュー・スコット、『aftersun/アフターサン』などのポール・メスカルのほか、ジェイミー・ベル、クレア・フォイらが出演する」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「40代の脚本家・アダムは、ロンドンのタワーマンションに暮らしているが、12歳のときに交通事故で両親を亡くして以来、孤独な人生を過ごしてきた。両親との思い出を基にした脚本に取り組んでいたアダムが、幼少期に住んでいた郊外の家を訪ねてみると、30年前に他界したはずの両親が当時の姿のままで生活を送っていた。それから両親のもとに通っては温かな時間を過ごすようになったアダムは、その一方で、同じマンションの住人で謎めいた青年ハリーと恋仲になる」
1988年の大林宣彦監督作品「異人たちとの夏」は、わたしの大好きな映画で、もう何回観たかわかりません。原作は、山田太一氏の小説です。妻子と別れた人気シナリオライターが体験した、既に亡くなったはずの彼の家族、そして妖しげな年若い恋人との奇妙なふれあいが描かれた幻想小説の傑作です。妻とも別れ、孤独な毎日を送っていた風間杜夫演じるシナリオライターの主人公が、死んだ両親(現在の自分とほぼ同年輩の姿)と再会する物語です。同時にある女性と親しくなるが、両親との邂逅を繰り返すたび、主人公の身体はなぜか衰弱していきます。人間と幽霊の間の愛と情念とを情感豊かに描き込んだ名作でした。
山田太一による原作小説『異人たちとの夏』の英題は、「Strangers」でした。しかしながら、アンドリュー・ヘイ監督は今回の映画のタイトルを「All of Us Strangers」としています。「私たちはみなストレンジャーである」というわけですが、本来は「異人」は「幽霊」の意味で使われていたわけですが、今回の「異人」の定義は拡大されています。拡大解釈された「異人」とは、ずばり「ゲイ」のことです。ファンタジー映画の名作がLGBTQ映画としてリボーンしました。
オリジナルの「異人たちとの夏」でも同じ設定でしたが、主人公が住むマンションは彼の部屋を含めて、もう1室しか住人がいません。このへんの理由が曖昧なのが消化不良なのですが、そのもう1人の住人が主人公の部屋を訪ねてくるところも同じです。来訪者は孤独のあまり酒を持参でやってきます。「異人たちとの夏」では、シャンパンの瓶を持った名取裕子だったので、風間杜夫が彼女を追い返したときは「こんな美しい女性に恥をかかせてひどい奴だな!」と思ったものです。しかし、今回の「異人たち」で、アンドリュー・ヘイがウイスキーの瓶を持参してきたポール・メスカルを追い返したのは当然だと思いましたね。だって、いかにもアブない奴じゃないですか!
『リメンバー・フェス』(オリーブの木)
「異人たちとの夏」では、主人公の両親は浅草に住んでいました。両親は交通事故死した幽霊なわけですが、やはり「異人たちとの夏」のほうがずっとジェントル・ゴースト・ストーリー(優霊物語)として完成度が高かったと思います。わたしが日本人だからかもしれませんが、主人公が最初に亡き父親(片岡鶴太郎)を浅草の寄席で見つけるところ、まだ若い頃の母親(秋吉久美子)が物憂げに線香花火をするところ、両親と別れた場所が浅草のすき焼き屋「今半別館」だったこと、両親の幽霊と会っていたのはちょうどお盆の時期だったこと......すべて心の琴線に触れました。「異人たち」は日本映画ではないので当然といえば当然ですが、お盆に死者と出会ったという情緒が欠けていたように思います。お盆といえば、最新刊『リメンバー・フェス』(オリーブの木)で、わたしは供養のアップデートについて具体的に提唱しました。
「異人たちとの夏」で風間杜夫演じる主人公が両親の幽霊と別れる名シーンは何度観ても泣けます。とくに、秋吉久美子さん演じる母親が、主人公に向かって「おまえのことを大事に思っているよ」「おまえのことを自慢に思っているよ」と優しく語りかけるシーンはたまりませんね。消えゆく両親に向かって、最後に主人公が「ありがとうございました!」と頭を下げるシーンに感動しない人はいないのではないでしょうか。浅草という舞台も良かったです。仲見世、浅草寺、花やしき・・・すべて幻想的でした。そして、ぶらりと入った寄席の魔術の出し物のとき、主人公は28年前に死別した父親を見つけるのです。寄席という非日常的空間、さらに魔術という異界の扉を開く芸が登場すると、まるで次元が歪んだようで、これならいくら死者が蘇えったって不思議ではないという気がしてきます。
一方、「異人たち」では、主人公のアダムはロンドン郊外のスーパーマーケットのような店で亡き父親に出会います。そのまま実家に連れていかれるのですが、スーパーからすぐ家に着いてしまいます。「異人たちとの夏」の場合は、寄席から実家のアパートまでけっこう距離があり、久々に再会した父子は自動販売機の缶ビールを飲みながら、さまざまな会話を重ねて母親の待つ場所に辿り着くのでした。やはり、最初の父子の会話というのは非常に重要で、このへんが「異人たち」の描写は物足りない印象が残りました。「異人たち」で最後に両親と別れる場所も何の変哲もないダイナーのような店で、情緒も何もありませんでした。「異人たちとの夏」で、主人公が最後に両親に最高の贅沢をさせてあげようと思って、高級なすきやき屋に招待するといった心配りがまったくないのが不満でした。
「異人たち」で最も不可解だったのは、アダムの両親とハリーが一度だけ遭遇したとき、お互いに相手が異人だと気づいていなかった節があることです。ハリーのことを、アダムの父親は「なかなかハンサムだな」と言い、母親は「彼を大切にしなさい」などと言う。霊は、同じ霊を生きた人間と錯覚するのか。ここが、どうにもスッキリしませんでした。「異人たち」のハリーはゲイの男性ですが、「異人たちとの夏」ではケイ(名取裕子)という女性でした。彼女はひたすら哀しい存在でしたが、最後は怨霊そのもののホラー的な描き方をされました。わたしは、「異人たちとの夏」を初めて観たときから、ケイの正体が暴かれるシーンには強い違和感をおぼえました。「過剰演出」は大林監督の悪い癖ですね。もっとケイの最期ははかなく、哀しく描いてほしかった。その点、「異人たち」のハリーは最後まで哀しく描き切ったのが良かったです。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
さて、幽霊が登場する映画といえば、一般的に「ホラー映画」とされます。秋吉さんにもプレゼントさせていただいた拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)の中には「ホラー映画について」というコラムが収録されています。何を隠そう、わたしは三度の飯よりも、ホラー映画が好きです。あらゆるジャンルのホラー映画のDVDやVHSをコレクションしていますが、特に心霊系のホラーを好みます。冠婚葬祭業の経営者が心霊ホラー好きなどというと、あらぬ誤解を受けるのではないかと心配した時期もありました。今では、「死者との交流」というフレームの中で葬儀と同根のテーマだと思っています。「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れないと述べました。葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式です。葬儀によって、故人は一人前の「死者」となるのです。幽霊は死者ではありません。死者になり損ねた境界的存在です。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけです。ならば、「葬儀」と「幽霊」という2つのテーマは永遠に平行線をたどり、絶対に相容れないのでしょうか。
『ロマンティック・デス』(オリーブの木)
ヘーゲルの弁証法ではありませんが、わたしは「葬儀」という正、「幽霊」という反をアウフヘーベンして合を生み出す方法を思いつきました。それは、葬儀において人為的に幽霊を出現させること。あえて誤解を怖れずに言うなら、今後の葬儀演出を考えた場合、「幽霊づくり」というテーマが立ち上がります。最新作『ロマンティック・デス』(オリーブの木)にも書きましたが、これからの葬儀ではホログラフィーなどを使って故人の生前の姿、すなわち幽霊を出現させることが求められます。もっとも、その「幽霊」とは恐怖の対象ではありません。あくまでも、それは愛慕の対象でなければなりません。生者にとって優しく、愛しく、なつかしい幽霊、いわば「優霊」です。「優霊」とは、怪奇小説における「gentle ghost」というコンセプトに文芸評論家の東雅夫氏が訳語として考案したものです。「gentle ghost」とは、生者に祟ったり、むやみに脅かしたりする怨霊の類とは異なり、絶ちがたい未練や執着のあまり現世に留まっている心優しい幽霊のことですね。
「異人たちとの夏」は優霊物語=ジェントル・ゴースト・ストーリーの名作でしたが、「異人たち」はLGBTQ映画の要素が強くなっている感じがしました。わたしは同性愛者を差別しませんが、自分は同性愛者ではないので、アダムとハリーがキスしたり、性行為をしたりするシーンがスクリーンに映し出されるのが非常に違和感がありました。映画の冒頭と終わりには当時のイギリスのゲイカルチャーの中で深く愛されたフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのヒット曲「The Power Of Love」(1984年)が登場します。その歌詞の中に「君を死神から守ってやる、君のドアから吸血鬼を遠ざけるんだ」というものがありますが、この「扉の前にやってきた死神、吸血鬼」の正体は「孤独」であったというのがアンドリュー・ヘイ監督のメッセージだったのでしょう。
わたしは、LGBTQ映画というものの意義は認めます。しかし、「異人たち」という映画は嫌いです。せめて、リメイクではなく、オリジナル作品として作ってほしかったですね。大好きな「異人たちの夏」が改悪されたことを遺憾に思います。やはり男性同士の性行為の描写には嫌悪感をおぼえるのです。そして、それには一連のジャニーズ問題の影響が明らかにあることを認めます。ジャニーズ事務所の故ジャニー喜多川氏による長年にわたる加害行為を取り上げたBBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」が昨年3月に放送されたのをきっかけに、ジャニーズ事務所は外部専門家による内部調査の結果、喜多川氏の虐待行為を認め、昨年10月に解体しました。同事務所は「SMILE-UP.」と社名を変更し、喜多川氏の虐待を生き延びたサバイバーへの補償業務に取り組むことになった。東山氏が、SMILE-UP.社の社長となりました。東山社長は今年2月、BBCによる単独インタビューに応じました。
東山社長が単独インタビューを受けたBBCは、「異人たち」の舞台となったイギリスの放送局です。インタビューの中で東山社長は、社内調査の結果、喜多川氏のほかにも2人の事務所スタッフがタレントを性的に虐待していたと認めました。しかしこれについて、SMILE-UP.は情報を警察に提供していないとも述べました。東山社長自身についても、いじめや性的加害の疑惑が出ていますが、東山氏はこれを否定しています。すでに芸能界で成功している現役タレントたちの多く、また東山社長自身も故ジャニー喜多川から性被害を受けているという疑惑がありますが、この部分を明らかにしないとジャニーズ問題は終わりません。それにしても、ジャニー喜多川という史上最大の性犯罪者によって、多くの日本人は「やっぱり、ホモは危険だ」と思いました。彼の鬼畜行為によって、日本のLGBTQ運動は大きく遅れたと言えるでしょう。