No.891

 日本映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」を鑑賞しました。学生時代のわたしは加藤和彦の音楽が大好きで、毎日のように聴いていました。その頃の思い出が蘇り、センチメンタルな気分になりました。映画のラストで「あの素晴らしい愛をもう一度」が流れたときは涙が出ましたね。もう、ブログに書きたいことが多すぎます!
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「1960年代から1990年代にかけて日本の音楽シーンをけん引した音楽家・加藤和彦の軌跡をたどるドキュメンタリー。『帰って来たヨッパライ』などの名曲を生んだ『ザ・フォーク・クルセダーズ』結成秘話や『ヨーロッパ三部作』と呼ばれるアルバムにまつわるエピソードなどが、関係者の証言などを通じて明かされる。『サディスティック・ミカ・バンド』のメンバーでもある高橋幸宏の思いがきっかけとなって企画が始動し、『音響ハウス Melody-Go-Round』などの相原裕美が監督・プロデュースなどを務めた」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「時代を先取りした音楽性で日本の音楽シーンをリードし、『トノバン』の愛称で親しまれた音楽家・加藤和彦。フォークバンド『ザ・フォーク・クルセダーズ』でプロデビューし、世界進出したロックバンド『サディスティック・ミカ・バンド』を経て、ソロミュージシャンや作曲家、プロデューサーをはじめ、映画や舞台、歌舞伎の音楽など多岐にわたって活動した彼の功績を、関係者の証言などで振り返る。アーティストたちがトリビュートバンドを結成し、『あの素晴しい愛をもう一度』を新たにレコーディングする様子も映し出される」
 
 音楽家の加藤和彦は、1947年3月21日に生まれ、2009年10月16日に亡くなりました。作曲、編曲、音楽プロデュース、撥弦楽器や鍵盤楽器などの演奏・歌唱を通じて、制作者・実演家として活動しました。あまりにも多方面で活躍するあまりに、これまで加藤和彦の姿は捉えにくかったと言えます。60年代に忽然と現れたイギリスのフォークシンガーのドノバンをカバーしたことから、加藤は「トノバン」という愛称で親しまれました。音楽だけでなく、ファッションやグルメなどのライフスタイル全般で彼は時代の最先端を行き、ダントツの存在感を示しました。高校時代に田中康夫氏の『なんとなく、クリスタル』を読み、東京という大都市が発信するトレンドに憧れたわたしでしたが、実際に東京で暮らしてみると、飯倉のキャンティをはじめ、東京のお洒落な人々の頂点に君臨するのは田中康夫などではなく加藤和彦その人だと知りました。
 
 偉大なミュージシャンの生涯を振り返るドキュメンタリー映画には、一条真也の映画館「ジョン・レノン~音楽で世界を変えた男~」「デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム」で紹介した作品などがありますが、日本人ミュージシャンが主人公のドキュメンタリー映画は初めて観ました。それだけに感動もひとしおでしたが、この映画は、「彼はもっとフューチャーされるべきだ」という高橋幸宏の一言から始まったそうです。この提案に応じたのが相原裕美監督でした。相原監督は、「黒船」やYMOのアルバムジャケット、デビッド・ボウイ、マーク・ボラン、イギー・ポップなどを撮り続ける写真家、鋤田正義のドキュメント映画「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」の監督でもあります。
 
「応仁の乱」から500年後の京都で、すべては始まりました。1963年に発表された、ボブ・ディランの「くよくよするなよ」に影響を受け、ギターを始めた加藤和彦は、1965年に東京都立竹台高等学校を卒業。その後、仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で京都市伏見区の実家に近い仏教系大学龍谷大学に入学。この頃らアマチュア・フォークグループ、「ザ・フォーク・クルセダーズ」(通称フォークル)の活動を始めました。1967年にフォークルの解散記念として、自費でアルバム『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』を制作。その中の「帰って来たヨッパライ」に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれました。加藤は難色を示しましたが、北山修の説得を受けて龍谷大学経済学部を中退。東芝音楽工業株式会社と契約し、1年限定でプロの世界に入ったのです。
 
「帰ってきたヨッパライ」は大ヒットし、日本音楽史上初の280万枚というミリオンセラーを記録しました。この曲が社会現象にまでなった1968年当時は、折しもマイカーブーム到来の時期で、交通事故が増えていました。そんな時代に、酔っ払い運転で事故死した人間が天国から追い出される歌がいきなり登場したのです。歌の主人公は東北出身ですが、死後、長い雲の階段を上って天国へ行きます。そこで酒と美女に浮かれていたら、関西弁の神様から天国を追い出されて生き返るのでした。テープを高速回転した甲高い声に仰天した後、風刺仕立てのストーリーが展開。ラストでは「般若心経」が読経され、ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」の歌詞が一言読まれた後、ベートーベンの「エリーゼのために」のピアノ演奏でフェードアウトするという、とんでもなく前衛的な歌でした。
 
「帰ってきたヨッパライ」の時代は、学生運動が激化した時代でもありました。必死に社会を変えようとする学生たちと機動隊との衝突があちこちで繰り返されていた頃です。ベトナム戦争が激化し、アメリカではキング牧師やロバート・ケネディが暗殺され、パリでは若者たちによって5月革命が起こりました。そんな時代背景の中、フォークルの第2弾シングルは、朝鮮半島の分断を歌った「イムジン河」に決まりました。後にフォーク・クルセダーズやサディスティック・ミカ・バンドで作詞を担当する松山猛がすっかり朝鮮民謡と思い込んで日本語の作詞をしましたが、じつはこの曲は民謡ではなく、れっきとした著作権者のいる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の楽曲でした。朝鮮総連から「盗作である」との抗議を受けた東芝は政治的配慮から「イムジン河」の発売中止を決定したのです。
 
 2枚目のシングル曲として予定されていた「イムジン河」が発売自粛となったため、それに代わる曲として制作されたのがグリーフソングの名曲「悲しくてやりきれない」(1968年)です。当時パシフィック音楽出版(現・フジパシフィックミュージック)会長だった石田達郎から「イムジン河」に代わる新曲を急遽作曲するよう強要され、会長室に3時間缶詰にされたときに作ったものでした。石田は「その出来立ての曲を持って、そのままサトウハチロー宅へタクシーで向かった。本人とは初対面だったが、とくに曲の打合せはしなかった。1週間ほどで詞が自宅へ送られてきた。歌詞を見ると『悲しくてやりきれない』...。こんな詞で、いいんだろうかと思ったが、歌ってみると、曲に語句がぴたっと合っていて驚いた」と告白しています。なお、B面の「コブのない駱駝」は後に作詞家としても大成する北山修の初の作詞曲でした。
 
 カレッジバンドとしてのフォークルは結成1年後、大学卒業を機に解散。北山は医学、加藤とはしだは音楽の道へ進むことになります。その後、1971年に2人は連名で名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」を発表しました。もともとはシモンズのデビュー曲として用意され、作曲を依頼された加藤・北山コンビが、加藤が作曲に1日、北山が作詞に1日で作り上げたといいます。加藤は北山から送られてきた歌詞を見て北山に電話をし「最高だよ最高」とはしゃいだと、北山が加藤の追悼文に記しています。結局、シモンズには別の曲(「恋人もいないのに」)が用意され、この楽曲は加藤と北山で歌うことになりました。きっかけは、東芝音楽工業がフォークルの再結成を図って加藤・北山の両人への働きかけでした。当時、再結成はあり得ないと明言していた2人は、ジャケットでもカメラを全く無視。これには東芝に対する抗議の意味を込めていたと加藤・北山ともに当時のラジオ番組で語っています。
 
 1970年7月、加藤和彦は福井ミカと結婚。1971年11月に配偶者のミカをボーカルに据えた伝説のロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成しました。代表作は「タイムマシンにおねがい」(1974年)で、ロンドンポップ、グラム・ロック、レゲエ、琉球音階などを導入するなど、実験精神に溢れたサウンドを展開していきます。サディスティック・ミカ・バンドの当時のメンバーは、ドラムスの高橋幸宏、ギターの高中正義、後藤次利(ベース)、今井裕(キーボード)ら超一流のミュージシャンたちでした。1974年、サディスティック・ミカ・バンドは、矢沢永吉のキャロルとミカ・バンドはジョイント・ツアーを行い、国内13地区を回っています。今から考えると、信じられないような才能が一同に結集していたのですね。タイムマシンで当時に戻りたい!
 
 サディスティック・ミカ・バンドは、1974年にクリス・トーマスのプロデュースによるセカンド・アルバム『黒船』を発表。10月2日から23日まで、ロキシー・ミュージックのオープニング・アクトとしてイギリス・ツアーを催しました。クリス・トーマスとの交際が発覚したミカと加藤は1975年に離婚し、サディスティック・ミカ・バンドは解散します。UKツアーでは、イギリスの音楽番組にも出演しましたが、このときのミカの妖艶さには目を奪われます。このシーンは映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」にも登場しましたが、セクシーな服装と動きをしつつも真顔で歌うミカに釘付けになりました。この動画はYouTubeにUPされていますが、「今日からミカさんが私のミューズになりました」「ミカ様の登場がおしゃれ泥棒すぎる」「バカカッコえぇ!!今ここまでのグルーブ感出せる奴おる?」などのコメントが付いています。同感です!
 
 加藤和彦は、1977年に作詞家の安井かずみと再婚します。安井が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」のコンビで、「ヨーロッパ三部作」の通称で知られる『パパ・ヘミングウェイ』(1979年)、『うたかたのオペラ』(1980年)、『ベル・エキセントリック』(1981年)などのソロ作品のほか、数々の作品を他ミュージシャンに提供しました。映画にも登場した竹内まりやのデビュー曲「不思議なピーチパイ」(1980年)も、2人の作品です。時代の先端を行くファッショナブルな2人のライフスタイルも世間の注目を集めました。1980年代から映画・舞台音楽、1990年代後半からはスーパー歌舞伎の音楽など、ポップミュージックの垣根を越えたさまざまなジャンルの音楽も幅広く手がけていました。
 
 そんな2人が生み出した多くの楽曲の中で、わたしが一番好きなのが『あの頃、マリー・ローランサン』です。1983年9月1日に発売された加藤和彦の8枚目のソロ・アルバムですが、わたしが六本木に住んで早稲田に通っていた頃、本当によく聴きました。東京で暮らす男女の情景をテーマとしたコンセプト・アルバムでしたが、加藤によれば、「いにしえのヨーロッパ退廃美を表現した前作『ヨーロッパ三部作』とは対照的な、現代の東京を舞台とする短篇集のような内容で、サラリーマンになって音楽離れしてしまった大人たちにも聴ける、部屋のインテリアのような良い意味でのBGMを目指した」といいます。安井かずみの詞があまりにもオシャレで、坂本龍一のストリングスアレンジ、矢野顕子のピアノ、高中正義のギター、高橋幸宏のドラム、そしてアルバムジャケットは金子國義......すべてがわたし好みで、夢のように贅沢なアルバムでした。
 
 1985年6月15日、国立競技場で5万人の観客を集めて開催された国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"に、加藤和彦はサディスティック・ユーミン・バンド(ヴォーカルは松任谷由実)のバンド・マスターとして出演しました。ヴォーカルが松任谷由実と小田和正と財津和夫、ギターが加藤和彦と高中正義、ベースが後藤次利、ドラムが高橋幸宏、キーボードが坂本龍一という超豪華メンバーによるパフォーマンスに、国立競技場の5万人が酔いしれました。このときが、加藤和彦が最後の輝きを放った瞬間だったかもしれません。1991年2月、安井かずみとの最後の共作となったソロ・アルバム『ボレロ・カリフォルニア』を発表。1994年、安井かずみが死去。そして、2009年10月17日、長野県北佐久郡軽井沢町のホテルで、加藤和彦は遺体となって発見されました。死因は首吊りによる自殺と見られています。享年62歳でした。
 
 若き日の加藤和彦の盟友であり、音楽における同志であった北山修は、加藤が自死した約5ヵ月後の2010年3月に九州大学を定年退職します。2人が音楽活動を共にした期間は決して長くはありませんでした。しかし、それぞれの道で大家となりながら、何度も再会し舞台に立っていました。そんな2人には余人に窺い知れぬ絆があったことと推察されます。「北山修の退職がもう少し早ければ、加藤和彦の決断も違ったものになったのではないか」と思った人も多いでしょう。確かに、日本精神分析学会会長まで務めた「こころ」の専門家である北山修なら、加藤和彦のグリーフをケアできたかもしれません。でも、自死の原因というのはけっして単純なものではなく複合的だとされます。一概に、精神分析の大家ならば防止できるといった簡単な話ではないでしょう。ちなみに、映画の中で、北山が加藤の自死の原因についての考えを語っています。
 
 映画のエンディングでは、「あの素晴らしい愛をもう一度~2024Ver.」が流れます。ヴォーカルを務めた坂本龍一の愛娘・坂本美雨の透明感のある声が素晴らしいです。北山修も一緒に歌っています。「二人の心と心が今はもう通わない♪」という歌詞を聴きながら、この歌が失恋の歌であることを再確認しました。しかし、失恋の歌でありながら絶望的ではありません。むしろ希望的な歌であるとさえ言えます。それは、この歌の中には「恋愛」を超えた「人間」そのものへの果てしない信頼が表現されているからだと思います。思えば、この歌は数えきれないほど多くの人を自死の誘惑から救ってきたのではないでしょうか。なぜか、わたしはこの歌を聴くと泣けてくるのですが、詩も旋律も曲調も日本人の「こころ」の琴線に触れるものがあります。そして、この歌には間違いなく「ケア」の要素があります。
 
 この名曲が生まれたのは1971年ですが、加藤和彦はその前年の70年にミカと結婚し、75年に離婚しています。青春時代の憧れだったビートルズのプロデューサーに最愛の妻を奪われたことは想像を絶するグリーフを抱えたことだと思いますが、そのとき彼は自死しませんでした。それは、「あの素晴しい愛をもう一度」の存在があったからではないかと思えてなりません。この歌は、1度は彼の命を救ったはずです。残念ながら、2度目は救えませんでしたが、ともにこの名曲を作り上げた北山修が「あの素晴しい愛をもう一度」を歌ってくれたことは、故人にとって最大の供養になったのではないでしょうか。わたしは、そのように感じました。最後に、偉大なる音楽家・加藤和彦氏の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

わたしも大好きな歌です♪

あの素晴らしい愛をもう一度♪