No.915


 タイのホラー映画「フンパヨン 呪物に隠れた闇」をイオンシネマ戸畑で観ました。ポスターに「暗黒の儀式が始まる」とか「死は終わりではない」とか、わたしの心に刺さるワードがあったので鑑賞しましたが、大ハズレでした。本当は「世界には凄いホラー映画があるな!」と感心したかったのですが、残念な結果に終わりました。
 
ヤフーの「解説」には、「タイに古来から伝わる伝統的なお守りである人形・フンパヨンを題材に描くホラー。ある男性がフンパヨンを信仰する村を訪れ、恐ろしい出来事が次々と発生する。監督を手掛けるのは『祟り蛇ナーク』などのポンタリット・チョーティグリッサダーソーポン。ドラマ『Lovely Writer The Series』などのプーンパット・イアン=サマン、ドラマ『Fish Upon the Sky』などのプーウィン・タンサックユーンのほか、クナティップ・ピンプラダブ、タソーン・クリンニウムらが出演する」と書かれています。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「出家した弟のティーに会うため旅に出たタームは、ドンシンタム島の寺院で、フンパヨンと呼ばれる人形に魔術をかける彫刻家のジェットと出会う。タームはティーが僧院長を殺して逃亡したといううわさを耳にするが、信じられずにいた。フンパヨンに対する村人たちの盲信的な信仰にタームが疑問を抱く中、村では不幸な出来事が立て続けに起こり、フンパヨンが壊されたことに怒った村人たちは呪いの儀式を始める」です。
 
 一条真也の映画館「女神の継承」で紹介したタイを舞台にした2021年のタイ・韓国合作映画や、一条真也の映画館「呪詛」で紹介した2022年の台湾映画を筆頭に、アジア発のホラー映画が続々とヒットしている昨今。世界的なホラーブームが続く今、アジアン・ホラーは最も"アツい"ジャンルの1つとされています。そして、今年の夏、タイで古くから伝わる呪物信仰を題材にした「フンパヨン 呪物に隠された闇」が公開。本作は、「第19回大阪アジアン映画祭」で日本初上映されると大きな話題となり、上映館が予定の3倍に増えたそうです。でも、三度の飯よりホラーが好きなわたし的にはイマイチでした。まず、ドンシンタム島の人々が崇拝するポープー様という神様がしけていて、お供え物を取られた恨みで人を殺したりするのです。
 
 タイはもちろん仏教国ですが、映画「フンパヨン」に登場するポープー様への信仰は、タイにおける精霊信仰に基づきます。それは、仏教が普及する以前より現在もなお見られる「ピー信仰」と呼ばれるものです。バラモン教、仏教などの外来宗教の伝来以前からタイ族全般に存在したとされる信仰の形態であり、現在でも外来宗教の影響を受けながらも、タイ族の基層の信仰として根強く残っています。「ピー」とは、タイ語において「精霊、妖怪、お化け」の類を説明するために用いられる言葉です。バンコクなど都市部では、ピーについて話すと映画などで現れる死霊がイメージされる場合が多いです。なお、英語のghostや日本の霊、お化け、妖怪の類はタイ語では「ピー」という語を用いて表現される」と書かれています。
 
 他方、農村部でのピー信仰になると、日本で言う「霊」「妖怪」「お化け」「小さき神々」・・・・・・などの総体として存在し、民間信仰の神々としてのイメージが現れてきます。荒神的性格があり、人々の生活を守護すると同時に、不敬な行いに対しては祟ることがあります。一方で自然霊、悪霊・浮遊霊のようなイメージもあり、日本の妖怪のような性格を持ちます。実体のないものとして存在される場合もありますが、実体を伴っている場合もあります。また、ピーの会話の中での用法には、「死体」「死者」を意味する言葉として用いることがある。火葬はパオ・ピーなどと表現されます。また、「ピーのように不可思議なもの・人」を表現するためにもこの語を用います。
 
 ところで、タイは怪奇映画が盛んな国として知られています。映画史家で比較文化学者の四方田犬彦氏によれば、タイに映画が紹介されたのは1897年のこと。次いで1904年には、日本人の尽力により初の常設映画館が完成しました。一方タイ人による映画制作は1927年に始まり、1932年から1942年にかけて最初の興隆期を迎えました。この時期からすでにピーを主題とした映画は制作されており、その後も一定の本数を維持しながら、ピー映画はタイ映画の中で地位を確立してきたといいます。タイの怪奇映画の中でも不動の地位を占めているものに、「メー・ナーク・プラカノン」という物語があります。
 
「メー・ナーク・プラカノン」は、バンコクにあるマハーブット寺院を舞台とした、口頭伝承をもとに生成された幽霊譚です。その初出は100年以上も遡り、1912年には演劇化、1936年には映画化がなされています。特に映画はこれまでに20本以上がリメイクされており、タイのピー・イメージの一端を担うものとなっています。この伝説がいつ始まったのかは定かではありませんが、1700年代半ばのアユタヤ王朝時代から1800年代のチャクリー王朝時代にかけてとされています。メーナークとは、「ナークお母さん」という意味です。このメーナークは、出産時に難産で亡くなってしまいますが、夫を愛するあまりにピーとなって現れるという物語です。
 
 この「メー・ナーク・プラカノン」は、その物語展開に社会・政治的背景との関連が指摘されているといいます。物語の終盤では、呪術師の手におえなかったピーが、中央政府から派遣された高僧により説得されるという展開になるのですが、この展開から国家仏教が土着の精霊信仰に最終的な勝利を収めるという「仏教の優越性」が読み取れます。これは、物語が生成された当時のサンガ統治法公布などによる中央集権化という背景が大いに影響し、表象されていると考えられているそうです。このように社会・政治的背景をもって表象された「メー・ナーク・プラカノン」のピーですが、四方田氏は著書『怪奇映画天国アジア』(白水社)で、「映画に登場するあらゆる怪物、幽霊、妖怪の類はつねに固有の政治性を体現しており、歴史的な存在である」と、怪奇映画に見える政治性はこの作品に限ったことではなく、怪奇映画全体にいえることであると指摘しています。
 
 タイにおける怪奇映画は1970年代に入ると制作数が急増し、1976年には年間200本の映画が制作されました。そのほとんどは「ピー」が登場する内容となっていました。1980年代に映画制作は一時低迷するも、クーデタが頻発すると触発されたように「ピー・ポープ」シリーズが制作されています。この「ピー・ポープ」という映画は東北タイに固有であるピーを題材とした映画であり 、四方田氏によれば、「ピー・ポープ」シリーズは「バンコクのような都会の映画館で上映されることはほとんどなく、もっぱら地方都市の小さな映画館や村落の屋外上映、またワットの祭礼に催される特殊上映などを通して、地方の観客を対象として制作されたもの」だったそうです。
儀式論』(弘文堂)



 映画「フンパヨン」に登場する儀式は、基本的に呪術と呼ぶべきものでした。拙著『儀式論』(弘文堂)でも紹介しましたが、精神分析学の父であるジークムント・フロイトは「魔法と呪術とは、概念の上で区別できるであろうか」と問いかけた後、「それは可能である」と答えています。魔法とは、本質的には、人間を扱うのと同じ条件で霊を扱うことです。霊をなだめ、慰め、よろこばせ、おどし、その力を奪い、こちらの意志に従わせたりします。すなわち、生きている人間にとって有効と思われる手段によって、霊を意のままにする術のことです。ところが呪術はそれとは別物です。呪術は根本において霊とは無関係です。特殊な手段を用いるのですがそれはありふれた心理学的手段ではありません。呪術がアニミズム的技術の、かなり根源的な、かなり重要な部分であることは、容易に推測できます。なぜなら、霊を取り扱うべき方法の中には、呪術的方法もあるからです。また自然の霊化が成就されていないと思われる場合にも、呪術は適用されているからです。
 
 フロイトは、アニミズムや呪術におけるキーワードは「観念」であると指摘しました。そして、著書『トーテムとタブー』において、「観念で行なわれることは、事物においても起こらねばならない。観念相互にある関係は、事物間でも前提とされるのである。思考は距離というものを知らず、空間的にどんなに遠いものでも、また時間的にどんなにへだたったものでも、やすやすと1つの意識作用にまとめてしまうのだから、呪術的世界もテレパシーによって空間的距離をとびこえ、また過去の関連を現在の関連のように取り扱うであろう。アニミズムの時代においては内的世界の映像は、われわれが認識していると思っているあの別の世界像を、眼に見えないものとせざるをえないのである(西田越郎訳)」と述べています。
 
 映画「フンパヨン」のメガホンを取ったポンタリット・チョーティグリッサダーソーポン監督には、「祟り蛇ナーク」(2019年)というホラー映画があります。これは、伝説の祟り蛇が潜む寺院に足を踏み入れた人々の運命を描いたタイ発のホラーコメディです。化け物じみた大蛇の伝説が残る、人里離れた古い寺院。何も知らずその寺院を訪れたノーン、ファースト、バルーンの3人組に、怪現象が次々と襲いかかります。呪われた寺院から脱出するべく3人が奔走する中、伝説の悪霊「ナーク」の望みが明らかになるのでした。仕事はクビ、バス事故で大ケガ――自分の身に次々と災難が降りかかるのは、厄年のせいなのか? 25歳のノーンは父に説得され、出家することに。腐れ縁のバルーン、ファーストと一緒に人里離れた寺院へと向かったノーン。そこで彼らを待ち受けていたのは、身の毛もよだつ怪奇現象の数々でした。その寺には、出家志願者を呪い殺すという大蛇ナークの伝説があったのです。残念ながら、この「祟り蛇ナーク」の評価は低かったです。
 
「フンパヨン」の公開記念イベントで来日したポンタリット・チョーティグリッサダーソーポン監督は、作品の内容にちなんだ「怖いものは?」という質問に対して、「一番怖いのは幽霊ではなく、人間です。人間は隠していることがあるからです」と答えました。「撮影中に恐怖体験はありましたか?」と問われると、「ありました。撮影のときに本物のフンパヨンをスタッフに持ってきてもらったんですが、呪術を唱えるシーンでキャストのニック(クナティップ・ピンプラダブ)が薄ら寒く感じたそうなんです。その後、撮影が終わったあとホテルの部屋に着いたら鏡やテレビに人影が写っていたそうで。もうこんなところにはいられない!と、荷物をまとめて私の泊まっているホテルに来ました。本物の呪術を唱えたので、フンパヨンを起こしてしまったのだと思います」と裏話を明かしたそうです。