No.978
11月30日の夜、日本映画「正体」をシネプレックス小倉で観ました。一条真也の映画館「アングリースクワッド 公務員と7人の詐欺師」で紹介した前日に観た日本映画も良かったですが、今回は大いなる感動をおぼえました。ラストの横浜流星の表情を見たら涙が止まらなくなり、エンドロールの間ずっと動けませんでした。こんな体験は久しぶりです。霜月晦日に、今年の一条賞の最有力候補作に出会いました。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『青春18×2 君へと続く道』などの藤井道人が監督などを手掛け、染井為人の小説を原作に描くサスペンス。変装と潜伏を繰り返しながら、日本中を巡る指名手配犯の488日間にわたる逃走劇を映し出す。主人公の青年を『ヴィレッジ』などの横浜流星が演じ、『アイスクリームフィーバー』などの吉岡里帆のほか、森本慎太郎、山田杏奈、山田孝之らがキャストに名を連ねる」
ヤフーの「あらすじ」は、「殺人事件の容疑者として逮捕され、死刑判決を受けた鏑木(横浜流星)は脱走に成功。日本各地で潜伏しながら逃走を続ける鏑木が沙耶香(吉岡里帆)や和也(森本慎太郎)、舞(山田杏奈)らと出会う一方、彼を追う刑事の又貫(山田孝之)は沙耶香らを取り調べる。しかし彼らが語る鏑木の人物像はそれぞれ全く異なり、まるで別人のようだった」となっています。
原作小説は光文社文庫から刊行されており、アマゾンには「罪もない一家を惨殺した死刑囚はなぜ脱獄したのか!?その488日を追うミステリー!」として、「埼玉で二歳の子を含む一家三人を惨殺し、死刑判決を受けている少年死刑囚が脱獄した! 東京オリンピック施設の工事現場、スキー場の旅館の住み込みバイト、新興宗教の説教会、人手不足に喘ぐグループホーム......。様々な場所で潜伏生活を送りながら捜査の手を逃れ、必死に逃亡を続ける彼の目的は? その逃避行の日々とは? 映像化で話題沸騰の注目作!」と内容が紹介されています。映画版で主人公が就いた仕事は原作とは異なりましたが、最後のグループホームは同じです。松本清張を思わせるような社会派ミステリーと言えるでしょう。
主人公の鏑木慶一を演じた横浜流星は最高に素晴らしかったです。一条真也の映画館「ヴィレッジ」で紹介した2023年の映画でも藤井道人監督とタッグを組みましたが、あのときに演じた暗い主人公と、「正体」で最初に演じた工事現場の労働者役のキャラクターが重なりました。「陰キャを演じさせたら日本一では?」と思わせるのも彼の卓越した演技力のせいでしょう。ブログ「あなたの番です」で紹介したTVドラマで演じた若者役も謎めいていましたが、西野七瀬演じる女子大生とのラブシーンも良かったですね。
西野七瀬といえば、来年1月17日公開のグリーフケア映画「君の忘れ方」のヒロインですが、主演は坂東龍汰です。じつは横浜流星は 一条真也の映画館「春に散る」で紹介したボクシング映画で坂東龍汰とはボクシングの激闘を繰り広げています。このように「君の忘れ方」の坂東・西野コンビと共演し、忘れがたい名シーンを残してくれた横浜流星ですが、いま一番カッコいい俳優だと思います。今までは気鋭のアクション俳優ぐらいにしか見ていませんでしたが、「正体」の熱演は本当に素晴らしかった。あの山田孝之との演技合戦でまったく負けていませんでした。
「正体」でヒロイン役の安藤沙耶香を演じた吉岡里帆も良かったです。沙耶香の父親(田中哲司)は弁護士ですが、女子高生への痴漢の容疑をかけられ、裁判中です。父は冤罪を主張しており、紗耶香も父の潔白を信じています。そんな彼女は雑誌社の編集部で働いていますが、フリーライターとして仕事をする青年が逃亡中の鏑木なのでした。鏑木は東村山一家惨殺事件の犯人とされていましたが、紗耶香は鏑木の無罪を信じます。彼女には警察も裁判所も敵として見ているのですが、そんな難しい役を吉岡里帆は見事に演じました。わたしは彼女のことも、元グラビア女優ぐらいに思っていましたが、見直しました。
映画「正体」の全編を貫くキーワードは「信じる」です。痴漢の冤罪、殺人事件の冤罪は珍しいことではありませんが、本当にやっていない場合、必ず「〇〇さんは無実だ!」と訴える有志の人々が現れます。あの方々にも仕事があるだろうし生活もあるのに、「よく他人のために、あそこまで頑張れるな」と思いますが、きっと「正しいことが理解される、真実が認められる」社会というものを信じたいのだと思います。それは、映画「正体」の終盤で、山田孝之演じる刑事と刑務所で面会した鏑木が語った魂の叫びでもありました。
とはいっても、逃亡している容疑者の中には真犯人ももちろん存在します。というか、冤罪は実在するにせよ、ほとんどの逃亡犯は真犯人と言っても過言ではありません。なぜなら、無実は裁判で証明すればいいことで、やっていないなら逃げなければいいからです。警察という組織は基本的に身内に甘く、自身の威信を守るためには間違ったこともすることをわたしは知っています。映画「正体」では、松重豊演じる警察幹部が「警察の闇」を一身に表現していました。しかしながら、逃亡中の容疑者というものは住まいも持てず、安定した仕事にも就けません。自ずから最低限の生活を強いられることになりますが、そのあたりをこの映画はリアルに描いていました。
映画「正体」には、2件の一家殺害事件が登場します。この世にはさまざまな不幸や苦悩が存在していますが、およそ一家殺害事件ほど無惨で非道なことはないでしょう。遺された遺族の悲しみはあまりにも大きいです。「正体」では、精神を病んでしまった一家殺害事件の生き残りとなった主婦(原日出子)が重要な役割を演じます。あまりに巨大なグリーフによって心が壊れ、記憶も失くしてしまった彼女だけが鏑木の無罪を証明できるのでした。この映画を観て、ケアされていない悲嘆者の証言能力というものについても考えさせられました。ちなみに、上智大学グリーフケア研究所では、世田谷一家殺害事件の被害者の妹さんである入江杏さんが活躍されています。
冤罪に警察組織の腐敗、貧困ビジネス、一家殺害事件の遺族のグリーフケアなど、映画「正体」からは多くの社会問題が見えてきます。いずれも真剣に考えなければいけない問題ばかりですが、わたしは主人公の鏑木が児童養護施設の出身であることが気になりました。貧困ビジネスの工事現場で鏑木が知り合った和也(森本慎太郎)という青年も児童養護施設の出身で、社会の底辺で蠢いていました。わが社は施設のお子さんに七五三や成人式の晴れ着を無償提供させていただいており、彼らの幸福な将来をいつも願っています。しかし、この映画を観る限り、施設の出身者にはさまざまな試練が待ち受けているようです。この問題は、これからも考え続け、実際に行動もしたいです。
そんなとき、「大きな家」という児童養護施設のドキュメンタリー映画が公開されることを知りました。俳優で映画監督の斎藤工さんが製作された作品です。最近も東京国際映画祭のオープニング・レセプションで発生した取材陣のトラブルでの神対応が話題になりましたが、わたしは斎藤工さんを気骨のある映画人としてリスペクトしています。12月14日の夜、東京・六本木で開かれるクリスマス会合でわたしは「グリーフケアと映画」をテーマに講演することになりました。斎藤工さんも参加されるそうなので、ぜひ、児童養護施設について意見交換させていただきたいと思います。それまでに「大きな家」も観るつもりです。