No.983


 東京に来ています。12月18日、今年最後となる出版関係の朝食ミーティングを水天宮のホテルでした後、午後からの業界の会議までの時間を利用して、アメリカ映画「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」を鑑賞。ハリウッドのホラー界を牽引するブラムハウス・プロダクションズの最新作ですが、じつは一条真也の映画館「胸騒ぎ」で紹介したオランダ・デンマーク合作映画のリメイクです。
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「クリスチャン・タフドルップ監督が手がけた『胸騒ぎ』をリメイクしたスリラー。バカンス中に親しくなったイギリス人一家の自宅に招かれたアメリカ人一家が、彼らの言動に強い違和感を覚える。メガホンを取るのは『フレンチ・ラン』などのジェームズ・ワトキンス。『ミスター・ガラス』などのジェームズ・マカヴォイ、『ターミネーター:ニュー・フェイト』などのマッケンジー・デイヴィスのほか、アシュリン・フランチオージ、アリックス・ウェスト・レフラーらが出演する」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「アメリカ人夫婦のベン(スクート・マクネイリー)とルイーズ(マッケンジー・デイヴィス)、娘のアグネス(アリックス・ウェスト・レフラー)は、バカンス中にイギリス人夫婦のパトリック(ジェームズ・マカヴォイ)とその妻キアラ(アシュリン・フランチオージ)、息子アント(ダン・ハフ)と出会って、親しくなる。ベンたちはパトリック夫婦に招かれ、人里離れた彼らの家で週末を過ごすことにするが、ベジタリアンのルイーズに肉料理を強要するパトリックや彼らの様子に違和感を抱く」
 
「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」はリメイク作品ですが、オリジナルとなる「胸騒ぎ」は今年の5月10日に公開されました。それからわずか7ヵ月後にリメイク版が公開されるというのは、「いくら何でも早すぎないか?」と思ってしまいます。「胸騒ぎ」は、第38回サンダンス映画祭で上映されたスリラー映画でした。イタリアでの休暇中に親しくなったオランダ人夫婦の自宅に招待されたデンマーク人夫婦が、彼らの歓待に不気味なものを感じ取る物語です。監督はクリスチャン・タフドルップでした。この映画の結末は「胸騒ぎ」というよりも「胸糞悪い」でしたが、映画史上に特筆すべき後味の悪さでした。
 
 パトリックとカリンの夫婦から「我が家に遊びに来ませんか?」という誘いを受けたベンとルイーズ夫婦と娘のアグネスは、イギリスまで出向きます。パトリック家のもてなしを受けたベン家の人々は強烈な違和感をおぼえ、夜間にこっそり帰ろうとします。しかし、アグネスがお気に入りのウサギのぬいぐるみを忘れてきたと言ったためにパトリック家に引き返すことになるのでした。この時、引き返すべきではありませんでした。思えば、両家がイタリアの路上で出会って自己紹介したのも、アグネスがウサギのぬいぐるみを忘れたことが原因でした。今にして思えば、ぬいぐるみが不幸の元凶であったことがわかります。
 
「胸騒ぎ」という映画は観ていて、イライラしました。それは、パトリックという男が非常識で不気味なだけではなく、デンマーク一家の家長であるビャアンがあまりにも気が弱く、優柔不断で、腕力もなければ勇気も知恵もなかったからです。このビャアンはちょっと心が弱すぎました。何度も家族を救うチャンスもあったのに、勇気がないために相手の言うなりになって、ついには悲惨なラストを迎えます。パトリック以上に、わたしはこのビャアンに嫌悪感を抱きました。家族を守れないような弱い父親など最低だからです。しかし、リメイクである本作「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」でのベンは違いました。勇気も行動力もある強い父親でした。
 
 強いといえば、ベン以上に強かったのが、母親のルイーズです。知恵も度胸もある最強の母親でした。演じたマッケンジー・デイヴィスは、かつて「ターミネーター ニュー・フェイト」(2019年)でハイブリッドなマシン兵士を演じましたが、そのときのイメージが少し重なりました。「胸騒ぎ」の母親ルイースは弱い女性で恐怖に泣き叫ぶだけでしたが、今回のルーズはそうはいきませんでした。「胸騒ぎ」の基本プロットは、「旅先で遭遇した一家が凶暴な殺人者で、その毒牙にかかった人々の受難」というものです。「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」はそれをきちんと踏襲しています。いわゆる「田舎ホラー」なのですが、ハリウッドらしい改変がなされています。というか、後半の展開などは"THEハリウッド・ホラー"そのものといった印象です。そして、良く出来ていました。
 
 ジェームズ・マカヴォイが演じるパトリックの心の闇はハンパではありませんでした。映画評論家の尾﨑一男氏によれば、「パトリックは負のカリスマ性に満ち、『シャイニング』(1980)のジャック・ニコルソンや『アオラレ』(2020)のラッセル・クロウと同種の、狂気を嬉々として演じている感がたまらない。マカヴォイもまた『スプリット』(2017)に始まるヒールな演技の布石があるので、ファンには釈迦に説法かもしれないが」と映画.comで述べています。わたしは、「シャイニング」も「アオラレ」も「スピリット」も観ましたが、尾崎氏の言うように、パトリックはこれまでのホラー映画やスリラー映画に登場した狂人たちの系譜にあると思います。
 
「胸騒ぎ」の胸糞の悪さについては、1997年のオーストリア映画「ファニーゲーム」と似ているという意見も多かったようです。確かに不条理さとか見知らぬ他人の恐怖という点では両作は共通していますが、「ファニーゲーム」は侵入者たちが家の主に対して暴虐の限りを尽くす物語で、主人公の立場は「胸騒ぎ」とは反対ですね。穏やかな夏の午後。バカンスのため湖のほとりの別荘へと向かうショーバー一家。別荘に着いた一家は明日のボート・セーリングの準備を始めます。そこへペーターと名乗る見知らぬ若者がやって来る。はじめ礼儀正しい態度を見せていたペーターでしたが、もう1人パウルという若者が姿を現す頃にはその態度は豹変し横柄で不愉快なものとなっていました。やがて、2人は別荘の主人の膝をゴルフクラブで打ち砕き、突然一家の皆殺しを宣言、一家はパウルとペーターによる"ファニーゲーム"の参加者にされてしまうのでした。ムチャクチャ怖い映画でした!
 
 わたしは、「胸騒ぎ」を観て、 ブログ『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』で紹介した本の内容を思い出しました。著者である漫画家の荒木飛呂彦氏は「かわいい子にはホラー映画を見せよ」と訴えています。一般に人間は、かわいいもの、美しいもの、幸せで輝いているものを好みます。しかし、世の中すべてがそういう美しいもので満たされているということはありません。むしろ、美しくないもののほうが多い。そのことを、人は成長しながら学んでいきます。現実の世の中には、まだ幼い少年少女にとっては想像もできないほどの過酷な部分があるのです。それを体験して傷つきながら人は成長していくのかもしれません。つまり、現実の世界はきれい事だけではすまないことを誰でもいずれは学んでいかざるをえないのです。そして、そこでホラー映画が必要となります。
 
 荒木氏は、同書で「世界のそういう醜く汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができるのがホラー映画だと僕は言いたいのです。もちろん暴力を描いたり、難病や家庭崩壊を描いたりする映画はいくらでもありますが、究極の恐怖である死でさえも難なく描いてみせる、登場人物たちにとって『もっとも不幸な映画』がホラー映画であると。だから少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません。もちろん少年少女に限らず、この『予行演習』は大人にとってさえ有効でありうるはずです」とも述べています。まさに、その意味では、「胸騒ぎ」はさまざまな不測の事態の「予行演習」となる映画であると思いました。
 
 前半こそ「胸騒ぎ」の焼き直しであった「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」ですが、後半はまったく異なった展開になっています。そして、それは「胸騒ぎ」を観て、「なぜ、逃げないんだ?」「なぜ、言うなりになるんだ?」と感じた観客のフラストレーションを晴らすものでした。正直言って、「胸騒ぎ」は最高にストレスフルな映画でしたが、「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」は最高のカタルシス映画です。スカッとしました。その意味で、オリジナル作品の救いのなさ、ストレスまで引き受けた「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」はリメイク映画の最高傑作と言えるのではないでしょうか?