No.1021


 2月22日、東京から北九州に戻りました。3連休の初日とあって空港は多くの人で混雑していましたが、その日の夜、アメリカ・イギリス・ハンガリー映画「ブルータリスト」をシネプレックス小倉のレイトショーで観ました。ただでさえ出張帰りで疲れているのに、上映時間215分ということで、ヘロヘロになることを覚悟していましたが、あまりの面白さに一気に時間は過ぎ去っていきました。第97回アカデミー賞10部門ノミネートが納得の傑作でした!
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「ホロコーストを生き延び、アメリカへ渡ったハンガリー系ユダヤ人建築家ラースロー・トートの半生を描く伝記ドラマ。新天地で再出発しようとする彼が、移民を取り巻く過酷な現実に直面する。『シークレット・オブ・モンスター』などのブラディ・コーベットがメガホンを取り、ベネチア国際映画祭銀獅子賞(最優秀監督賞)を獲得。主人公をオスカー俳優のエイドリアン・ブロディ、彼の妻を『博士と彼女のセオリー』などのフェリシティ・ジョーンズが演じるほか、ガイ・ピアース、ジョー・アルウィン、ラフィー・キャシディらが共演する」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「ハンガリー系ユダヤ人建築家ラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)は第2次世界大戦下のホロコーストを生き延びるも、妻のエルジェーベト(フェリシティ・ジョーンズ)、めいのジョーフィア(ラフィー・キャシディ)と引き離されてしまう。家族と新生活を築こうとアメリカへ移住した彼は、ペンシルベニアで著名な実業家・ハリソン(ガイ・ピアース)と出会い、ある礼拝堂の設計と建築を依頼される。しかし、母国とは文化や価値観も異なるアメリカでの仕事には、思いも寄らぬ困難と代償が待ち受けていた」となっています。
 
 ホロコーストを生き延びたユダヤ人の物語とあって、タイトルの「ブルータリスト」とは"brutal"(残忍な)や"brute"(野蛮な)のような意味かと思っていましたが、違いました。「ブルータリスト」とは、「ブルータリズム」の建築家という意味でした。ブルータリズムは、1950年代に見られるようになった建築様式で、文化的要素が低く無骨な意匠を建物の外観に多用します。建築資材の質感が強調され、塗装や化粧板は使いません。荒々しさを残した打放しコンクリートなどを用いた彫塑的な表現(ベトン・ブリュット/生のコンクリート)を特徴とします。1940年代に新折衷主義などの懐古的な動きが生まれ、モダニズム建築のインターナショナル・スタイルが形骸化したことに対し、モダニズム建築の機能主義の原点に立ち返ることを目指してスミッソン夫妻らが提唱。1970年代にポストモダン建築が現れると衰退しました。
 
 なぜ今、ブル―タリズムなのか? じつは、アメリカで再注目されているのです。2020年にトランプ米大統領(当時)はブルータリズム建築を槍玉に上げ、連邦政府の建物は「美しい建築」にしなければならないとする大統領令を出しました。古典主義建築が望ましいとするこの大統領令は、ブルータリズムと脱構築主義の建築物が「美的な魅力に乏しい」とする見方に基づいています。翌年、バイデン大統領がこの大統領令を取り消しました。映画「ブルータリスト」のコーベット監督は、映画批評サイトの記事で、トランプ政権時の大統領令に言及。ブルータリズムが今日も「人々をいら立たせる」からこそテーマにしたかったと説明し、ブルータリズムの実直さも理由の1つだと付け加えました。コーベットはさらに、「ブルータリズムは、戦後のトラウマを戦後の建築物との関係の中で探求するための完璧な視覚的寓話」だと述べています。
 
「ブルータリスト」の主人公ラースロー・トートは架空の建築家ですが、マルセル・ブロイヤーとの共通点を指摘する人もいます。ブロイヤー同様、トートはハンガリーで生まれ、最終的にアメリカにたどり着きました。しかし、実際のブロイヤーはナチスが台頭した1930年代にドイツを離れ、1944年にアメリカ市民権を取得しましたが、トートは第2次大戦後にアメリカに移住する設定でした。2人がともにユダヤ系で、トートがブロイヤーのようにコンクリートでできた無骨で重々しい建築を設計する点も似通っています。おそらく、ブロイヤーをモデルにしてトートのキャラクターが生まれたのでしょう。いずれにしろ、「ブルータリスト」は全編を通じて建築の話題が満載で、建築映画といってもよいほどでした。わたしの本業も建築とは深い関係にあり、また婿殿(長女の夫)が1級建築士なので、非常に興味深かったです。きっと映画好きの長女夫妻も本作を観るのではないでしょうか。
トートが設計したハリソン家の書斎



 インターバルを挟んで上映時間215分という途方もない長さでありながら、わたしが「ブルータリスト」という建築映画に没入できたのは、アメリカに来たトートが最初に手掛けた仕事が、書斎の設計だったからです。ガイ・ピアース演じるハリソンというペンシルバニアの実業家の書斎でした。ハリソンの息子のハリーからの依頼でした。書斎を作るあいだ、トートはハリソンの蔵書を手に取り、「初版本だな」とつぶやくシーンがあります。トートは強制収容所に送られる前にはハンガリーで大学教授も務めていたほどのインテリなのですが、彼の教養を一瞬で示す名シーンだったと思います。トートはクラシックな邸宅を破壊して完全にモダンな書斎を設計したためにハリソンは激怒します。しかし、その後、その書斎は「モダン建築の傑作」として高い評価を得ます。それでハリソンはトートを見直したのでした。それにしても、映画で書斎の設計シーンを見たのは初めてです。心がときめきました。
白川直之氏が設計した実家の書庫「気楽亭」



 息子が父の書斎設計を建築家に依頼するという設定は、わたしのハートにヒットしました。というのも、昨年亡くなった父も、わたしも大の本好きで書斎や書庫にも多大な情熱を注いだからです。ブログ「実家の書庫」で紹介したように、父の書庫の設計は、日銀元総裁の白川方明氏の弟さんである建築家の白川直之氏でにお願いしました。 ブログ「アーキテクト」で紹介した方です。「気楽亭」と名付けられた書庫に入るとすぐ薩摩切子をはじめとしたカラフルなグラス、ウイスキーや泡盛などの各種の酒が並べられています。置かれている椅子に座ると、目に映る前庭には円形の御影石の舞台があり、夜になるとそこに月が映し出されます。その御影石に映った月をながめながら、元気な頃の父は酒を飲み、本を読んでいました。なんという贅沢な時間の過ごし方でしょうか! 息子から見ても、父は本当に「こころの贅沢」を極めた人でした。
ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教



 ユダヤ人であるトートは第2次世界大戦でナチスの迫害を受けるまではシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)を作っていましたが、アメリカに移ってからはキリスト教の礼拝堂を作ることになります。彼が作った教会は自然光によって十字架が浮かび上がるデザインで、これはわが社の冠婚施設をはじめ、日本中のブライダルチャペルでも見ることができます。それでも、ユダヤ教徒であるトートは、カトリックやプロテスタントの人々から異端視され、彼の一家はイスラエルの首都エルサレムへの移住を決心します。エルサレムはユダヤ教だけでなく、キリスト教やイスラム教にとっても共通の聖地です。拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)に書いたように、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は、基本的には同じ神様です。同書では、三宗教の関係を、長女がユダヤ教で、次女がキリスト教で、三女がイスラム教、というように表現し、なぜ彼女たちが行き違ってしまったのか、なぜこんなに衝突するのかをストーリー仕立てで語っています。一条真也の映画館「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」で紹介したパレスチナ問題の映画を観る参考にもなると思います。

 一条真也の映画館「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女」で紹介した映画のように、毎年、ナチスドイツを弾劾する内容の映画が作られ続けています。もともとハリウッドはユダヤ資本の集合体ですが、反ナチスに加えて、最近ではポリコレ、MeToo、そして反トランプの色彩も濃くなっています。トランプ大統領が嫌ったブルータリズムを肯定的に扱った映画を作ること自体がすでに反トランプですが、「ブルータリスト」では、親ユダヤ、ポリコレ、MeTooも全開となっています。ただ、ある登場人物が同性からの性加害を受ける場面があるのですが、これはちょっと取って付けた感が強かったですね。なんでもかんでもMeTooやLGBTQに強引に結びつけるような脚本は如何なものかと思いました。わたしには違和感があります。

 反ナチス映画といえば、「ブルータリスト」で主人公トートを熱演したエイドリアン・ブロディの代表作である「戦場のピアニスト」(2002年)を思い出します。ナチスのホロコーストを生き抜いた実在のユダヤ系ピアニストの半生を描いた、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作です。巨匠ロマン・ポランスキー監督が、ポーランドの国民的ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの回想録を映画化。1940年、ドイツ占領下のポーランド。ユダヤ系ピアニスト、シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)は家族と共にゲットーへ移住。やがてユダヤ人の収容所移送が始まり、家族の中で彼だけが収容所行きを免れました。食うや食わずの潜伏生活を送るある日、遂に1人のドイツ兵に見つかってしまいます。エイドリアン・ブロディが、代役なしで臨んだピアノ演奏シーンが圧巻でした。

「戦場のピアニスト」で、エイドリアン・ブロディはアカデミー主演男優賞を受賞しました。29歳343日での受賞記録は、現在でも史上最年少記録です。同作はカンヌ国際映画祭で最高賞に当たるパルム・ドールを受賞。さらにはセザール賞でも、アメリカ人として史上初となる主演男優賞を受賞しています。彼は1973年、ニューヨーク市クイーンズ区にて、ポーランド系ユダヤ人の画家で元歴史教授のエリオット・ブロディと、ハンガリー人とチェコ系ユダヤ人のハーフであるフォトジャーナリストシルヴィア・プラヒーの間に生まれました。父エリオットはホロコーストで家族を失い、母シルヴィアは1956年のハンガリー動乱の時にアメリカに亡命。そのような背景が、彼の真に迫った演技を生んでいるように思えます。
 
 ちなみに、1999年に映画撮影中に鼻を骨折したため、現在も鼻が曲がっています。「ブルータリスト」では、鼻を骨折したトートが痛みを和らげるために使った薬物に依存していく様子が描かれています。ニューヨークで買った娼婦から「あんたの顔は醜いね」と言われたトートですが、確かにイケメンとは言えないですね。それでも建築に懸ける情熱と、家族への愛情の深さは人並み外れていたと思います。ユダヤ人としてアメリカで生きることの難しさを痛感した一家はイスラエルへ移住し、最後にトートは建築家として世界的な名声を得ます。映画のラストでは、ヴェネツィアでトートの展覧会が開催されるのですが、めいのジョーフィアが開会セレモニーで挨拶をします。彼女は「叔父は偉大です」と述べた後、「他人が何と言おうとも、大切なのは到達地だ。旅路ではない」というトートから贈られた言葉を紹介するのですが、非常に感動しました。これは多くの人の心を震わせたと思います。わたし自身にも、わたしが大切に思う人にも贈りたい言葉です。