No.1054
4月16日、一条真也の映画館「終わりの鳥」で紹介した映画をヒューマントラストシネマ有楽町で観た後、そのまま同劇場でスロバキア・ドイツ合作映画「ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男」を鑑賞しました。わたしはゲッベルスには多大な関心があり、非常に興味深い内容でした。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「ナチス政権下のドイツで宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスの半生を描いたドラマ。ユダヤ人絶滅と他国侵略に執心するアドルフ・ヒトラーからの信頼を得ようと、ゲッベルスが戦争やホロコーストを正当化するプロパガンダを仕掛ける。メガホンを取るのはヨアヒム・A・ラング。『パリよ、永遠に』などのロベルト・シュタットローバー、『モニタリング』などのフリッツ・カール、『村人』などのフランツィスカ・ワイズらが出演する」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「1933年にナチスの宣伝大臣に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスは、ナチスの平和路線をアピールするが、ユダヤ人殲滅と他国への侵略を進めるアドルフ・ヒトラーの怒りを買う。ヒトラーからの信頼を失い、愛人との関係も断ち切られたゲッベルスは、自身の失地回復を遂げるためにも、ヒトラーが望む反ユダヤ映画の製作や大衆を熱狂させる演説、さらに戦勝パレードなどを次々と企画する。ヒトラーの信頼を取り戻し、国民を熱狂に巻き込んだことで戦争とユダヤ人弾圧は激化していく」
映画「ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男」の冒頭には、「この映画には当時の映像を使用している部分があり、衝撃的な描写もあるので、ご了解下さい」みたいな案内が流れます。確かに、ホロコーストをはじめとして古いフィルムや写真がたくさん使用されています。これほど本物の遺体映像が次から次にスクリーンに映し出される映画も珍しいのではないでしょうか。
この映画の最大の不満点は、主人公のゲッベルスを演じたロバート・スタッドローバーがあまり似ていないことです。本物はもっと痩せていて神経質な印象があります。ドイツの政治家であるパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(1897年~1945年)は、ナチ党政権下で国民啓蒙・宣伝大臣を務め、強制的同一化を推進しました。身長は165センチで、幼少時に患った小児麻痺により左右で足の長さが異なる身体障害者となったそうです。
ゲッベルスは第1次世界大戦後に政治活動を開始し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)における左派の中心人物の1人となりましたが、その後はヒトラーに接近し、第3代宣伝全国指導者を勤めてナチスのプロパガンダを積極的に広め、ナチ党の勢力拡大に貢献。彼は「宣伝は精神的認識を伝える必要もなければ、おだやかだったり上品だったりする必要もない。成功に導くのがよい宣伝で、望んだ成功を外してしまうのが悪い宣伝である」「重要なのは宣伝水準ではなく、それが目的を達することである」とし、その目的は「大衆の獲得」であり、「その目的に役立つなら、どんな手段でもよいのだ」と語っています。
ゲッベルスは「日々の経験から効果的な手法を学んだ」としていますが、その宣伝概念にはヒトラーの『わが闘争』からの踏襲が見られます。ベルリンで宣伝活動を行っていた当時は、ベルリン市民を「群衆の集合」ととらえ、ベルリン市民の思考に合わせた奇抜で独創的な宣伝を多く行いました。彼には宣伝手法自体やその出自にこだわりはなく、「ボルシェヴィスト(ボリシェヴィキ)からは宣伝の点で、大いに学ぶところがある」と評し、宣伝大臣として最初に映画界に伝達したことは「右翼の『戦艦ポチョムキン』を作るように」ということでした。
ゲッベルスは1920年代から映画館に通っていた映画愛好家でした。映画批評家としての彼は必ずしも国家社会主義イデオロギーの色眼鏡で映画批評を行いませんでした。特にナチ党が政権を掌握する前の頃には党の敵が作った作品でも良い物は良いと評価しました。例えば、彼は「ニーベルンゲン」(1924年)と「戦艦ポチョムキン」(1925年)のファンでしたが、その監督であるラングとエイゼンシュテインはどちらもユダヤ人でした。また「戦艦ポチョムキン」はソ連の共産主義プロパガンダ映画ですが、それもゲッベルスにとっては同映画への評価を下げる材料とはならなりませんでした。宣伝大臣となった後、ゲッベルスは国家社会主義版「戦艦ポチョムキン」を作ることを公然と要求して人々を驚かせたのです。
ゲッベルスは、ドイツ映画よりもイギリスとフランスの映画を好み、英仏と開戦した後にすらこっそりと自分専用の映写室で英仏の映画を観ていました。一方アメリカ映画への評価は低く、ハリウッド映画は「教育上よろしくない」と結論しています。ゲッベルスはハリウッドの極端に戯画化する傾向を嫌いました。ハリウッドの反ナチ映画「私はナチのスパイだった」を見た時、ゲッベルスは日頃から自分が高尚な趣味になるよう気を使っている宣伝省や執務室の飾りつけが、映画の中ではナチ党のハーケンクロイツだらけの趣味の悪い建物に戯画化されていたことについてアメリカの通信員に苦言を呈しています。
ゲッベルスが宣伝大臣となって最初の重大任務は、国会の開会式でした。彼は荘重な演出を行って、ヒンデンブルク大統領ら保守派をも感動させました(ポツダムの日)。さらに5月1日の「国民労働の日」祭典や非ドイツ的な図書の焚書、ベルリンオリンピックなどでは荘厳な演出を行いましたが、ヒトラーが絶賛した1935年の映画「意志の勝利」で有名な1934年のニュルンベルク党大会にはあまり熱心ではなく、日記にも記載していません。彼が専門領域と考えていたのは「映画」であり、シナリオや俳優の起用などに深く介入しました。
ナチスが世に送り出した多くの映画の中で最も有名な作品は、レニ・リーフェンシュタール監督の「オリンピア」(1938年)です。1936年に開催されたベルリンオリンピックの記録映画ですが、日本では開会式から男子マラソンまでの21種目、9日間の記録である「民族の祭典」および陸上競技以外の17種目から16日の閉会式までの記録である「美の祭典」の二部作して公開されました。この映画は、映像美と斬新さが世界中から絶賛を受け、ヴェネツィア国際映画祭で最高賞(ムッソリーニ杯)を獲得しました。日本でもキネマ旬報1940年度外国映画ベストテンの1位を獲得し、戦前の観客動員記録を樹立するなど大ヒットを記録しています。
ユダヤ人殲滅に情熱を傾けたナチスは、反ユダヤ映画も製作しました。「ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男」にも登場した「ユダヤ人ジュース」は、1940年のナチス・ドイツのプロパガンダ歴史映画です。ゲッベルスの依頼でテラ・フィルムが製作した。史上最も反ユダヤ主義的な映画の1つとされます。監督はファイト・ハーランで、エーベルハルト・ヴォルフガング・メラーとルートヴィヒ・メッツガーが脚本を書いた。主演はフェルディナンド・マリアンとハーランの妻クリスティーナ・ゼーダーバウム、助演はヴェルナー・クラウスとハインリヒ・ゲオルゲが務めました。この映画は "ナチス・ドイツで製作された反ユダヤ主義映画のプロパガンダとして最も悪名高く成功した作品の1つ "と評されています。
式典の演出から映画製作まで、ゲッベルスはまさに"プロパガンダの天才"でした。「ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男」の中で、彼がある同僚から「ハンニバルは爆撃機がなかったことを悔やんだ。シーザーは戦車がなかったことを悔やんだ。ナポレオンはゲッベルスがいなかったことを悔やんだ。彼がいれば、ワーテルローの敗戦を隠せたからだ」と語り、それを聴いたゲッベルスが「そうとも」と答える印象的なシーンがありました。第2次世界大戦の敗戦の直前、ゲッベルスはヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されますが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って、家族を殺害後に自殺しました。
ゲッベルスとマクダ夫人は生涯で6人の子供をもうけました。一見模範的なドイツ家庭を作り上げてそれを宣伝しました。ゲッベルスの家庭はナチ党の高官たちが集う憩いの場でもありましたが、宣伝では模範的だった家庭も、実際にはゲッベルスの奔放な女性関係によりしばしば危機に瀕しました。ゲッベルスは、ナルシスト特有の自信と映画界での権力を背景に多くの女優に関係を迫っていました。1938年のチェコ出身の女優リダ・バーロヴァとの関係は、双方ともに本気の恋愛関係となり、マクダ夫人との離婚、バーロヴァとの結婚を決意するまでに至りました。総統ヒトラーはこれに激怒しましたが、ゲッベルスは「宣伝大臣を辞任して同盟国である駐日本大使となり、バーロヴァとともにドイツを去りたい」とまで申し出ました。しかしヒトラーはこれを許さず、ゲッベルスにはバーロヴァとの手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるというスキャンダルに発展。マクダ夫人はこれに感謝し、ヒトラーに大変な信頼を寄せることとなったのです。
ナチス高官の家族を描いた映画といえば、一条真也の映画館「関心領域」で紹介した2023年のアメリカ・イギリス・ポーランド映画があります。第2次世界大戦下のアウシュビッツ強制収容所所長とその家族を描いたマーティン・エイミスの小説を原案にした歴史ドラマです。収容所の隣で穏やかに暮らす一家の姿を通して、それとは正反対の収容所の残酷な一面を浮かび上がらせます。ナチスドイツ占領下にあった1945年のポーランド。アウシュビッツ強制収容所で所長を務めるルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)と妻のヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)は、収容所と壁を隔てたすぐ隣の家で暮らしていました。収容所からの音や立ち上る煙などが間近にありながら、一家は満ち足りた日常を送っていたのです。「ナチスの広告塔」「プロパガンダ・ファミリー」と呼ばれたゲッベルスの一家も同じような生活を送っていたのかもしれません。