No.0338


 日本映画「いぬやしき」を観ました。シネプレックス小倉の2番目に小さい9番シアターで観たのですが、けっこうガラガラでした。ネットでの評価がかなり高いのに意外でしたね。でも、映画は最高に面白かったです。これはもう、日本のSF映画における最高傑作ではないでしょうか。

 ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。「映画にもなった『GANTZ』などで知られる奥浩哉の人気漫画を、『GANTZ』シリーズなどの佐藤信介監督が実写映画化。突然の事故をきっかけに、超人的な能力を得た初老のサラリーマンと高校生が、それぞれの目的で強大な力を行使するさまを描く。自分の力を人助けのために生かす主人公を木梨憲武、同じ能力を手に入れるも悪用する大量殺人鬼を、『るろうに剣心』シリーズなどの佐藤健が熱演。本郷奏多、二階堂ふみ、伊勢谷友介らが脇を固める」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。「定年を控えるうだつが上がらない会社員・犬屋敷壱郎(木梨憲武)は謎の事故に巻き込まれ、目が覚めると見た目は変わらず、体の中はサイボーグになっていた。超人的な能力を手にしたことを自覚した彼は、その力を人のために使うことで存在意義を見いだすようになる。一方、犬屋敷と同様の事故で同じ能力を備えた高校生・獅子神皓(佐藤健)は、敵対する人間を全て消し去りたいと考え......」

 最近の日本映画の話題作は、漫画が原作ということが多いです。わたしは漫画というメディアを高く評価する人間ですが、漫画原作の映画には内容に深みがないというか、底の浅い作品が多いことも事実です。でも、「いぬやしき」は違いました。映画化の前にアニメ化もされていますが、これも名作に仕上がっています。漫画・アニメ・映画の3つのメディアで成功した稀有な例と言えるかもしれません。

 それにしても、映画「いぬやしき」を観たインパクトは絶大でした。CGも日本映画では最高レベルですし、ジジイがヒーローという設定も素晴らしい。とにかく、発想がぶっ飛んでいる。もともと、わたしはSF作家というのは想像力におけるチャンピオンたちだと思っているのですが、原作者の奥浩哉氏のイマジネーションは「凄まじい」の一言です。一条真也の映画館「レディ・プレイヤー1」で紹介したスティーブン・スピルバーグ監督のSF最新作も刺激的でしたが、「いぬやしき」はそれを上回っています。「レディ・プレイヤー1」のようなバーチャルの世界だけでなく、リアルの世界を巻き込んだ荒唐無稽な物語に観客は翻弄されます。佐藤信介監督にとっての憧れのヒーローははスピルバーグ監督だそうですが、スピルバーグが「いぬやしき」を観たら、かなりショックを受けると思います。

 犬屋敷壱郎を演じた主演の木梨憲武は、予想通りに素晴らしい演技でした。お笑いだけでなく、芸能人としてのセンスという点で、彼はタモリに次ぐ才能の持ち主だと思っていましたが、さえない初老のサラリーマンをよくぞここまで演じ切ったものです。ガンの宣告を受けた彼が捨て犬とともに公園に佇むシーンには哀愁が漂いまくっていました。ふと、もし黒澤明の「生きる」がリメイクされたら、木梨憲武に志村喬の役を演じさせたいと思ったりしました。彼が公園のブランコをこぎながら、かすれ声で「命短し~恋せよ乙女~♪」などと口ずさむシーンを想像するだけで泣けてきます。
 その公園で、映画「いぬやしき」の犬屋敷壱郎は想像を絶する体験をします。この映画のストーリーはもう広く知れ渡っているのでネタバレにはならないと思いますが、彼は機械の身体になるのです。でも、意識はもとの人間のままです。わたしは末期ガンを宣告された人間が、たとえ機械といえども、不死身のボディを得るのは悪くない話だと思いました。

 もう1人のメインキャラクターである獅子神皓を演じた佐藤健は、ひたすらカッコ良かったです。彼の出演作をスクリーンで観るのは一条真也の映画館「亜人」で紹介した映画以来ですが、アクション・シーンも迫力満点。あと、裸になった上半身が見事に鍛え上げられていましたね。獅子神の母親役は斉藤由貴でしたが、2人が見つめ合うシーンはまるで恋人同士のようでした。映画を観ながら、わたしは「50代だというのに、彼女はどうしてこんなに妙な色気があるのか?!」と真剣に考え込んでしまいました。(笑)
「なんとかお母さんを幸せにしてあげたい」と願う心優しい獅子神が、不死身の機械の身体を得て行ったことは社会への復讐でした。つまり、無差別大量殺人です。自分の実の父親が再婚して築いた家族の殺戮はなんとか思いとどまりますが、その後、満たされぬ彼の殺意は何の罪もない無関係な一家へと向かいます。これは、観ていても辛くなる悲惨なシーンでした。特に、将来への夢を膨らませる16歳の可憐な少女の未来が理不尽に絶たれのを見るのはやりきれませんでした。一方、彼に想いを寄せる同級生の少女しおん(二階堂ふみ)を抱きかかえて空を飛ぶシーンは、まるでピーター・パンかスノーマンみたいで夢があって素敵でしたね。
 犬屋敷壱郎と獅子神皓の空中戦はド迫力で、わたしは生まれて初めて観た劇場映画である「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」を連想したほどでした。もちろん、壱郎がガメラで、獅子神がギャオスです。

 主演の2人以外にも、味のある役者さんが揃っていましたが、個人的には安堂直行役の本郷泰多に魅力を感じました。これからますます活躍する男優だと思います。女優では、なんといっても犬屋敷麻里役の三吉彩花が良かったですね。良かったというか、父親である壱郎に対する態度があまりにも冷たすぎて、同じ娘を持つ身としては胸が張り裂けそうになりました。同級生から父親のことを聞かれた彼女は「はっきり言って、嫌い!」と言い放ちますが、わたしは自分が娘から言われたような気がしましたね。(涙)
 映画では壱郎は家庭内に居場所がないかのように描いていましたが、わたしはそうは思いませんでした。というのも、夫に冷たいようでいて彼の妻はじつは出来た奥さんで、朝食にはいつも炊き立てのご飯と味噌汁、それに焼魚などのおかずもきちんと家族分を用意しています。食卓には、ちゃんと壱郎の席もあります。これは、はっきり言って恵まれたほうではないでしょうか。世の中、亭主の朝食など用意せず、「パンでも食べといて」とか「適当に食べて」とか言うような妻はゴマンといるはずです。


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   『ハートフル・ソサエティ』(三五館)


 さて、ここから本題に入りたいと思います。犬屋敷壱郎と獅子神皓は、ともに未知の知的生命体から機械の身体に改造され、超人となります。超人というと、わたしには子どもの頃に夢中になった漫画家の故・石ノ森章太郎が生み出した数多くのキャラクターたち、サイボーグ〇〇7、仮面ライダー、キカイダー、イナズマン、ロボット刑事Kなどがすぐ思い浮かびます。それらはサイボーグ、アンドロイド、ミュータントなど厳密には異なる存在でありましたが、人間を超えた存在としてのパワーと悲しみが十分に表現されていました。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「超人化のテクノロジー」に書きましたが、超人とは人間を超えた存在であり、人間にとっての超能力を備えた存在です。ひと口に超能力といってもさまざまなものがあります。研究者たちは、超能力をPSI(サイ)と総称しており、これは「科学では説明できない、人間が秘める、五感を超える、潜在的、超自然的な能力や現象」を意味する代名詞とされています。そして一般的には、PSI現象は、思念などによって外部環境に影響を及ぼすPK(念力、念動、念写)、透視、テレパシー、霊感などのESP(超感覚的知覚)の2つに分類されます。壱郎が苦しむ人の声を聴いたのはESPであり、獅子神が素手で他人を射殺したのはPKです。

 スプーン曲げに代表される念力などのPKは、現代社会において、すでに実現されているといっていいでしょう。それは何より、核の存在です。核はどんなに遠く離れたものでも、この地球ですら一瞬で破壊することのできる強大な念力のテクノロジー化なのです。ちなみに核と並んで20世紀を象徴する道具としての宇宙船は、体外離脱のテクノロジー化でした。宇宙船が地球の重力圏から脱出して宇宙空間に出て行くことは、人類の意識が肉体である地球から体外離脱することなのです。その意味で、宇宙体験とは人類にとって臨死体験であり、神秘体験であると言えます。
 核だけではなく、コンピュータもPKを実現してきています。ハッカーと呼ばれる人々は、遠く離れたコンピュータでも自由に、また相手に知られることなく操作することができます。彼らは超大国の軍事までをも思いのままに操ることによって、多くの人々を生かしも殺しもできる恐るべきPK能力者なのです。映画「いぬやしき」では、獅子神皓が巨大モニターやパソコンやスマホの画面の向こう側にいる人間を次々に殺していきますが、これはPKにおける最新進化形と言えるかもしれません。


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   『法則の法則』(三五館)


 同じ超能力を得ても、犬屋敷壱郎と獅子神皓はそのパワーを違うベクトルで使いました。つまり、犬屋敷壱郎は病める者たちを癒し、獅子神皓は無差別大量殺人に走ったのです。この2人の使った超能力とは、いわゆる「魔術」と呼ばれるものです。拙著『法則の法則』(三五館)の「幸福になる法則」にも書きましたが、魔術とは、人間の意識つまり心のエネルギーを活用して、現実の世界に変化を及ぼすことです。そして、魔術には2種類あります。心のエネルギーを邪悪な方向に向ける「黒魔術」と、善良な方向に向ける「白魔術」です。そして、「黒魔術」で使われる心のエネルギーは「呪い」と呼ばれ、「白魔術」で使われる心のエネルギーは「祈り」と呼ばれます。壱郎が行った「癒し」も「祈り」と同じ白魔術です。

 昔から「人を呪わば穴二つ」と「人を祈らば穴二つ」という似た諺があるように、「呪い」も「祈り」もそのベクトルが違うだけで、エネルギーの種類は同じです。そして、「呪い」は他人への「ねたみ」という形でもっとも発動されやすいことに注意しなければなりません。両親が離婚したことによって人生を狂わされた獅子神皓は世の中を呪っていました。自分を馬鹿にしていた同級生はもちろん、警察も特殊部隊も、片っ端から彼は殺します。ついには、巨大モニターやパソコンやスマホの画面の向こう側にいる人間を次々に殺していくわけです。ネットの匿名掲示板で心ない誹謗中傷を繰り返すようなクズどもを次々に制裁する場面には、正直、カタルシスを覚えた人も多かったのではないでしょうか。わたしは獅子神に遠隔殺人されるのを怖れて高校生たちがスマホの電源を切って投げ捨てる場面に不思議な高揚感をおぼえました。「そうか、こういうケースなら、現代人はスマホから解放されるのか!」と気づいたのです。

 いずれにせよ、獅子神の凶行の背景には世間への「うらみ」や「ねたみ」があったように思います。最初の殺人、幸せな一家を惨殺したケースなどは、まさに「ねたみ」からの犯行でした。20世紀を代表する「知の巨人」であったバートランド・ラッセルは著書『幸福論』(岩波文庫)において、「自分がねたみ深い性質をもっていると自覚するだけで、人はかなり幸福になれる」と喝破しました。そう、ラッセル『幸福論』の最大のキーワードこそ、「ねたみ」なのです。とくに「民主主義の根底にはねたみがある」と指摘し、自己評価が客観的でないと被害妄想が生まれると述べています。そして、その被害妄想が「ねたみ」と結びつき、人を不幸にするといいます。その際に自分の「ねたみ」を認識できないと、それを正当化しようとする自己欺瞞が生まれると、ラッセルは主張するのです。映画「いぬやしき」を観終わったわたしは、久々に『幸福論』を読み返したくなりました。