No.426


 日本映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」を観ました。太宰治の遺作『人間失格』の実写化ではなく、同作の誕生秘話を太宰自身と彼を愛した3人の女性の目線から、実話を基にしたフィクションとして映画化した作品です。オープニングシーンは海での心中(未遂)、ラストシーンは川での心中と、とことん「死」の香りが漂っていた太宰の人生をよく表現していました。「事実は小説よりも奇なり」で、太宰治の生涯はあまりにもドラマティックですね。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『走れメロス』『斜陽』などで知られる作家・太宰治の『人間失格』誕生に迫るドラマ。写真家で『ヘルタースケルター』などの監督を務めた蜷川実花がメガホンを取り、酒と女に溺れながらも圧倒的な魅力を持つ男の生涯と、太宰をめぐる正妻と2人の愛人との恋模様を描く。太宰には小栗旬がふんし、役作りのため大幅な減量を行った。太宰の正妻を宮沢りえ、愛人を沢尻エリカと二階堂ふみが演じる」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ベストセラーを連発する人気作家の太宰治(小栗旬)は、妻子がいながら作家志望の弟子・太田静子(沢尻エリカ)、夫を亡くした山崎富栄(二階堂ふみ)とも関係を持ち、さらに自殺未遂を繰り返すという型破りな生活を送っていた。そして太宰は、二人の愛人から子供がほしいと迫られる中、夫の才能を信じる妻・美知子(宮沢りえ)に支えられ、『人間に失格した男』をめぐる新作の執筆に取り掛かる」

 この映画、じつは公開直前のヤフー映画での評価が1点でした。平均点というよりも1人しか投稿者がいなかったので、嫌がらせか、営業妨害の類かもしれませんが、公開後は評価も上昇しましたね。「やはり、映画レビューというのは公開後でないと信用できないな」と改めて思った次第です。当該レビューには「えらく血色のよい太宰だな」などと書かれていました。わたしも観る前は太宰役が小栗旬ということに少々違和感をおぼえていたのですが、想像以上に小栗旬の太宰は良かったです。彼は太宰を演じるために10キロ以上減量して体を絞ったそうです。考えてみれば、これまで数々の浮名を流してきた稀代のモテ男である彼が太宰を演じるのは適任だったかもしれません。どうしようもないクズでありながら、異様なほど色気があって女にモテまくった人気作家を見事に体現していました。さすがは、蜷川実花監督が満を持して彼を主役に招聘しただけのことはあります。この映画は、小栗旬なしには成立しなかったでしょう。

 蜷川実花の映像世界もあいかわらず色彩豊かで、「目のごちそう」といった印象でした。一条真也の映画館「Diner ダイナー」で紹介した映画よりもぐっと落ち着いた映像でしたが、これはジャンルの違いもあり、正しかったと思います。同作で主演した藤原竜也は、この作品では坂口安吾を演じていましたが。酔った安吾が太宰とゼロ距離になって、「も~っと堕ちろよ」と悪魔のささやきを吐いてからBARのスツールから転げ落ちるシーンはなかなか見応えがありました。ただし、あまりにも出番が少なすぎます。役者としての藤原竜也を高く評価しているわたしは「もったいない。もっと藤原竜也が見たいよ!」と思いましたが、蜷川監督のサービス精神の表れなのでしょう。坂口安吾は無頼派の作家で、『堕落論』『桜の森の満開の下』『白痴』などの代表作があります。

 ところで、この日、とても驚いたことがあります。
 それは、映画館に若い女性の1人客がとても多かったこと。全部で10館あるシネコンの3番目に大きい劇場だったのですが、女性の1人客が散在している様子は初めて見るものでした。彼女たちがみんな小栗旬のファンというのは考えにくいので、もしかすると太宰治の愛読者なのでしょうか。だとすれば、死して70年以上経った今でも、太宰は若い女性の心をつかんでいることになります。

 もっとも、わたしは彼のことを「ラノベの元祖」的な作家であると思っており、彼の小説はあまり好きではありません。映画で高良健吾が扮した三島由紀夫と同じであります。ちなみに、太宰治や中島敦といった文豪が特殊な能力を持つという設定のコミック『文豪ストレイドッグス』のヒットで、現在は文豪ブームなのだとか。なるほど、このような背景があって、文豪に萌える女子が増えているのですね。

 しかしながら、太宰治という人間にはかねてより興味を持っていました。なぜなら、39年の生涯に何度も自殺を試んだからです。21歳のときに鎌倉で女性と死のうとしますが、相手だけが死んで、自分が助かっています。生き残った彼は、その後、小説を書き続けるわけですが、つねに「生きたいように生きて、行き詰まったら死ねばいい」という刹那的な考えを持っていたように思います。

 39歳のときについに愛人との心中に成功するわけですが、遺される家族、特にダウン症の長男のことなどはどう思っていたのでしょうか。完全に「人間失格」ですが、死のうと思った理由は、心中相手の山崎富栄を愛していたというより、肺病の進行で死期を悟っていたこと、税金の滞納などで自暴自棄になっていたことなどが原因でしょう。

 その日記を太宰が『斜陽』で使ったことで知られる太田静子は沢尻エリカが演じていますが、彼女の美しさはただごとではありません。一条真也の映画館「ヘルタースケルター」で紹介した蜷川実花監督で、沢尻エリカは主役の「りりこ」を見事に演じ切りました。全身整形で完全な美貌を手に入れた役をそのまま演じられるというのも凄い話ですが、そのブログで、わたしは沢尻エリカはその美しさにおいて、ヴィヴィアン・リー、オードリー・ヘップバーン、グレイス・ケリーといった、わたしにとってのスクリーンの三大美女と同じレベルに達していたと絶賛しました。

 さらに、わたしは「ヘルタースケルター」について、「この作品は、映画というよりも人類の『美』の記録映像としての価値があるとさえ思いました。沢尻エリカの人生には今後さまざまな試練が待っているとは思いますが、こんなに綺麗な姿をフィルムに残せたのですから、「これで良し」としなければなりませんね」とまで書いています。「人間失格 太宰治と3人の女たち」では、30代の女の色気が全開でした。

「3人の女たち」とはいっても、46歳の宮沢りえも、24歳の二階堂ふみも、33歳の沢尻エリカの圧倒的な美にはかないません。同じく33歳の北川景子や比嘉愛未でもかなわないでしょう。沢尻エリカ最強! もはや、日本映画界で彼女に勝てる可能性を秘めているのは、広瀬すず、浜辺美波ぐらいしかいないのではないでしょうか。沢尻エリカの演じた太田静子は写真を見ると、それほど美人ではありません。もし、彼女が本当に沢尻エリカみたいな美女であったなら、太宰も決して彼女を離さなかったと思います。

 一方、二階堂ふみが演じた山崎富栄の写真を見ると、かなりの美人です。ネガネをかけた写真も残っていますが、知的であり、クール・ビューティーという印象です。正直、二階堂ふみのイメージではありません。もっと、色白でか細い女といった感じです。山崎富栄は28歳で亡くなっていますが、わたしなら、現在27歳の白石麻衣ならハマリ役ではないかと思いました。まあ、映画では大胆な濡れ場があるので、アイドルには無理でしょうけどね。(苦笑)

 さて、その長くはない人生を振り返ってみると、まさに人間のクズといった感じの太宰治ですが、遺作となった『人間失格』こそは彼にしか書けない運命の小説でした。『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作です。1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿しました。その1か月後の6月13日、太宰は山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺しています。同年、雑誌「展望」6月号から8月号まで3回にわたって掲載され、著者死亡の翌月の7月25日、筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行されました。

『人間失格』の戦後の売り上げは新潮文庫版だけでも累計発行部数670万部を突破しており、夏目漱石の『こころ』と何十年にもわたり累計部数を争っているます。まさに、最も日本人に読まれた小説であると言っても過言ではありません。他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出すことのできない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場しています。
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隣人の時代』(三五館)



 じつは、拙著『隣人の時代』(三五館)の「はじめに『無縁社会の先にあるもの』」では、「人間にとっての『幸福』の正体」として、『人間失格』を紹介しています。太宰自身の自叙伝的要素が強いとされるこの作品で、彼は「自分には人間の営みというものがいまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾(てんてん)し、呻吟(しんぎん)し、発狂しかけた事さえあります」と書いています。

 続けて、太宰は以下のように書いています。
「自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。自分には、禍(わざわ)いのかたまりが10個あって、その中の1個でも、隣人が脊負(せお)ったら、その1個だけでも充分に隣人の生命取(いのちと)りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです」

 ここには、1人の人間の、人間としての「不安」が見事に描かれています。隣人とつながりを持てないという不安が。そして、太宰は「自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです」そして、「そこで考え出したのは、道化でした」と書いています。すべてを茶化して笑い事ですませ、他人に対して道化を演じることは「自分の、人間に対する最後の求愛でした」と、太宰は記しています。ここには、人間としての「不幸」がはっきりと示されています。彼は、隣人と楽しく会話がしたかった。隣人とつながりたかったのに、それができなかった。そのために、おどけた道化のふりをするしかなかった。おそらく、そんな自分自身の姿を重ね合わせて、太宰は『人間失格』という強烈なタイトルをつけたのではないでしょうか。

 しかし、彼がある意味で自虐的に命名した「人間失格」者たちが現代の日本では珍しくなくなってきました。隣人と会話ができないばかりか、隣人が孤独死していても気づかないような人が多くなってきました。そして、「無縁社会」とまで呼ばれるようになりました。このままでは、日本は人間失格者だらけの国になってしまいます。日本人が、いつも不安で不幸な人間失格者にならないために、わたしは『隣人の時代』を書きました。人間失格から人間合格へ。その最大の鍵は、隣人と会話ができるかどうか、つまり隣人と良好なコミュニケーションが実現できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。「人間失格 太宰治と3人の女たち」を観ながら、そんなことを考えました。

 最後に、宮沢りえ演じる妻・津島美知子は生前の太宰の小説を読まず、褒めもしなかったそうです。彼女も家事や育児で忙しかったのでしょうが、もう少し太宰の本を読み、「あなたは天才だわ」などと言っていれば、太宰も家に居ついたのではないでしょうか。作家というのは、つねに自分の本を読んでくれる女を求めているものですから。当代一の人気作家である村上春樹氏は愛妻家として知られていますが、村上氏が書いた小説は奥様が必ず最初に読むそうです。わたしの場合は、妻はまったく拙著を読まず、もちろん褒めてもくれません。(涙)とはいえ、太宰のような才能も人気もないわたしのような凡人は、愛人を作る甲斐性などありません。(苦笑)ちなみに、妻は学生時代は熱心な太宰の愛読者で、全作品を読んだそうです。嗚呼、ヴィヨンの妻は何処に?