No.499


 1月4日、ブログ「新年祝賀式典」で紹介した会社行事を万全のコロナ対応のもとで行った日の夜、T・ジョイリバーウォーク北九州で今年初の映画鑑賞をしました。話題のアニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」です。ネットでも高評価ですが、非常に感動しました。正月からボロ泣きです。今年最初に観た映画が、ハートフルな名作で本当に良かった!

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「2003年に実写映画化された芥川賞作家・田辺聖子の青春恋愛小説を劇場アニメ化。車椅子生活をしていたジョゼが大学生と出会い、外の世界へ飛び出す。監督をアニメ「ノラガミ」シリーズなどのタムラコータロー、脚本を『ストロボ・エッジ』などの桑村さや香、キャラクターデザインと総作画監督を『たまゆら』シリーズなどの飯塚晴子が手掛ける」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、「幼いころから車椅子生活で一日のほとんどを家の中で過ごしているジョゼは、ひょんなことから海洋生物学を専攻する大学生の鈴川恒夫と出会う。卒業後に留学すべくアルバイトに精を出す恒夫は、ジョゼの祖母からあるアルバイトを依頼される。自分の話し相手となった恒夫にジョゼは毒舌をふるうが、彼はひるむことなく率直に向き合い、やがて二人は心の距離を縮めていく」です。

 「ジョゼと虎と魚たち」は、本当に、せつなくて、哀しくて、美しい物語です。生まれつき足が不自由なジョゼと夢を実現するためにバイトに明け暮れる大学生の恒夫との関係を見ていると、こちらの方が胸が苦しくなります。障害を抱えているだけでなく両親も亡くし、さらには最愛の祖母さえも亡くしたジョセ。彼女に寄り添う恒夫も両親が離婚しており、寂しい少年時代を過ごした青年です。つまり、孤独なジョセの心を孤独な恒夫が救うという二重の「グリーフケア」の物語になっていました。それにしても、最近はどんな映画を観ても、グリーフケアの映画に思えてます。

 一条真也の映画館「ジョゼと虎と魚たち」で紹介したように、田辺聖子の原作で、犬童一心が監督した2003年の作品です。足の悪い不思議な少女ジョゼと大学生の恒夫のはかないラブストーリーです。恒夫がジョゼの手料理をおいしそうに食べるシーンとか、「おさかなの館」という名の水族館みたいなラブホテルで二人が愛し合うシーンとか、本当に素晴らかった! 何度も観たくなる名作でした。

 恒夫とジョゼは、あることをきっかけに別れてしまいます別れのとき、恒夫は淡々とジョゼの部屋を出て行きます。その後、道を歩いていると突然、どうしようもないほど大きな悲しみに襲われます。そして、恒夫は道にうずくまって泣きじゃくるのです。本当の悲しみとは、このように遅れてやってくるものなのだということを教えてくれたシーンでした。この「ジョゼと虎と魚たち」といい、長澤まさみと兄妹役で共演した「涙そうそう」(2006年)といい、妻夫木聡が別れの場面で泣く演技は最高でした。韓国の葬儀では「泣き女」という職業があるそうですが、妻夫木聡こそは日本一の「泣き男」だと思います。

 さて、今回のアニメ版「ジョゼと虎と魚たち」は実写版とはまったく違う結末だったので、驚きました。ネタバレを覚悟で書くと、実写版のラストで見られた恒夫の悲しみの号泣はなく、アニメ版では代わりに感動の涙が見られました。もう、はっきりと書いてしまいますが、アニメ版ではとびっきりのハッピーエンドで終わっています。「こういう、ニッチもサッチもいかない、ドツボのような状況でハッピーエンドを迎えるとは!」と、一瞬呆気にとられました。思うに、これはタムラコータロー監督の「日本人よ、コロナでも絶望するな! 生きていれば、きっと良いこともある!」というメッセージではないでしょうか。

 物語の中で、ジョゼと恒夫が海に行くシーンがあります。ジョゼは24歳なのですが、なんと生まれてから海に来たのはこれで2回目でした。最初は幼いときに亡き父親に連れてきてもらい、「海の味はどんな?」と問われたのですが、波が怖くて海に近づかなかったジョセは答えられませんでした。その後、読書によって「海水が塩辛い」ことを知ったジョゼは、そのことをどうしても自分で確認したくて、バイト契約していた恒夫に「連れて行け、あたいを海まで連れて行け!」と命令するのでした。結果、海を体験して海水を「しょっぱい!」と感じたジョゼでしたが、物語の終盤で涙も「しょっぱい!」と感じます。わたしは、このシーンを見て、拙著『涙は世界で一番小さな海』(三五館)のメッセージそのもであると思いました。
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涙は世界で一番小さな海』(三五館)



 『涙は世界で一番小さな海』では、5つの童話作品が重要な役割を果たしますが、その最初の作品がアンデルセンの『人魚姫』です。ディズニーの「リトル・マーメイド」、ジブリの「崖の上のポニョ」という日米の名作アニメの原作でもあります。この『人魚姫』がアニメ版「ジョゼと虎と魚たち」にも登場したので驚きました。それは、ジョゼが図書館で子どもたちに絵本『にんぎょひめ』を朗読するシーンと、自ら絵を描いたオリジナル紙芝居『にんぎょひめとかがやくつばさ』を朗読するシーンです。後者は恒夫に感動の涙を流させましたが、わたしも涙が止まりませんでした。

 言うまでもなく、足のない人魚姫は足の不自由なジョゼを投影しています。また、水を「自由」のメタファーとして描いているところは、一条真也の映画館「シェイプ・オブ・ウォーター」で紹介したアカデミー作品賞を受賞したSF恋愛映画にも通じます。第90アカデミー賞で作品賞など4部門を受賞したファンタジー映画で、米ソ冷戦下のアメリカを舞台に、声を出せない女性が不思議な生き物と心を通わせる物語です。政府の極秘研究所の清掃員として働く孤独なイライザ(サリー・ホーキンス)は、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と共に秘密の実験を目撃します。アマゾンで崇められていたという、人間ではない"彼"の特異な姿に心惹かれた彼女は、こっそり"彼"に会いにいくようになるのでした。この映画では「水」は徹底的に「自由」のメタファーとして描かれます。

「人魚姫」に話を戻しましょう。この童話のストーリーは、ディズニーが「リトル・マーメイド」としてアニメ映画化したこともあり、よく知られています。人魚の王様には6人の美しい姫がいました。末っ子の姫は15歳の誕生日に海の上に昇りますが、そこで船の上にいた人間の王子を目にします。その後、人魚姫は嵐のために難破した船から救い出した王子に恋をしてしまいます。王子と一緒にいたい一心で人間になることを望んだ人魚姫は、海の魔女の家を訪れます。そこで、自分の声と引きかえに人魚の尾びれを人間の二本足に変える飲み薬を貰います。魔女は、「もし王子が他の娘と結婚したとき、おまえは海の泡となって消えてしまう」と人魚姫に警告します。さらには、人間の足で歩くたびに、人魚姫はナイフでえぐられるような痛みを感じるという運命をも受け容れます。

 こうして人魚姫は王子と一緒の御殿で暮らせるようにはなりましたが、声を失って話せないため、王子は人魚姫が命の恩人であることに気づきません。それどころか、隣国の姫を命の恩人と勘違いしてしまい、王子は彼女と結婚することになります。絶望した人魚姫の前に姉たちがあらわれ、髪と引きかえに魔女に貰った短剣を人魚姫に差し出します。そして、この短剣で王子を刺せば、流れた血によって再び人魚の姿に戻れることを伝えます。しかし、愛する王子を殺すことなど到底できない人魚姫は、王子の結婚を祝福し、自らは海に身を投げて泡に姿を変えます。そして、人魚姫は空気の精となって天国へ昇っていったのでした。

 「人魚姫」の悲しい結末には、アンデルセンの人生も反映しているといわれます。彼は185センチの長身でしたが、鼻が非常に大きく、ある意味で異様な風貌であり、初めて会った人はみな驚いたといいます。アンデルセン自身も自分の容姿には強いコンプレックスを抱いていたようですが、そのためか失恋を繰り返し、生涯を独身はもちろん、童貞のままで終えたという説もあります。そんなアンデルセンの深い孤独が「人魚姫」には投影されているというのです。たしかにそういった側面もあるかもしれませんが、わたしはさらに深く宗教の問題を見た場合、「人魚姫」という作品は興味深いと思えてなりません。

 このように、「人魚姫」という童話には「愛」とともに「痛み」が描かれています。キリスト教において「愛」は無上の価値ですが、仏教においては「愛別離苦」という言葉もあるように苦悩のもとであると考えられました。「人魚姫」において「愛」と「痛み」がセットで描かれたことは、アンデルセンが宗教の枠を超えて普遍思想を求めるファンタジー作家であることを示しているようにも思えます。また、ジョゼのオリジナル紙芝居である「にんぎょひめとかがやくつばさ」には、自分のことではなく他者のために祈るという「利他」の行為の尊さが描かれています。

 利他の物語といえば、一条真也の読書館『鬼滅の刃』で紹介した物語にも描かれています。『鬼滅の刃』の主人公である竈門炭治郎は、心根の優しい青年です。鬼狩りになったのも、鬼にされた妹の禰豆子(ねずこ)を人間に戻す方法を鬼から聞き出すためであり、もともと「利他」の精神に溢れています。なんだか、ジョゼの顔が禰豆子に見えてきました。他人を一切信頼するることができず、頑なに閉ざされていたジョゼの心は恒夫のケアと愛情によって開かれていきますが、一条真也の映画館「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」で紹介した作品も、このアニメ版「ジョゼと虎と魚たち」も、ともに見事なグリーフケアの物語であると思いました。

 「ジョゼと虎と魚たち」という物語には、生まれつき歩けないという身体障がい者の悲しみが漂っています。ジョゼにとって、外の世界は猛獣である虎だらけのような世界なのです。映画の後半で、ジョゼが恒夫に向かって「健常者にはわからん!」と言い放つシーンがありますが、本当に健常者には障がい者の気持ちがわからないというのは事実でしょう。しかし、原作や実写版にもなかった設定で、恒夫はジョゼの心を理解することができるのでした。

 話は変わりますが、わたしは昨日、非常に感動的な動画をYouTubeで見つけ、大いに泣きました。「家族が見守る中、アラン・シルヴァは世界へ羽ばたく! 」というAGT2020の動画ですが、生まれつきの障がいのために辛い目に遭い続けてきた男性が、家族の前で奇跡を起こす真実の物語です。今年の夏に開催予定の東京パラリンピックはおそらく中止になると思われますが、わたしは、物語の中で健気に生きるジョゼには、どうかアラン・シルヴァのような奇跡を起こしてほしいと心から願うのでした。障がい者から見た世界は、虎だらけの密林かもしれません。しかし、ジョゼにとっての恒夫のように「世界はそんなに悪くないし、人はもっと優しい」ということを教えてくれる人が現れる可能性を信じたいものですね。

 ちなみに、「ジョゼ」という名前は本名ではありません。本名は久美子ですが、彼女の愛読しているフランソワーズ・サガンの小説のヒロインが「ジョゼ」なのです。彼女は図書館という新しい世界への窓を見つけるのですが、これから再び緊急事態宣言が発出されて、図書館が閉鎖されることが心配でなりません。それにしても、一条真也の映画館「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」で紹介した作品といい、「ソウルフル・ワールド」で紹介した作品といい、この「ジョゼと虎と魚たち」といい、最近のアニメ映画は本当に素晴らしい! 「不死」のメディアである映画が進化して、「生」のメディアとしてのアニメーションの重要性を感じます。今年は、『死を乗り越えるアニメ』という本を書いてみたくなりました。いや、本当に。