No.498


 ついに大晦日になりました。九州でも雪が積もっていますが、北陸では記録的大雪とのことで、おせち料理の配送を心配しています。ブログ「一条賞(映画篇)発表!」を30日の正午にUPしましたが、その直後に、ディズニー&ピクサー新作のアニメ映画「ソウルフル・ワールド」を観ました。今年最後の映画鑑賞は配信作品でしたが、素晴らしい感動の名作で、わたしの世界観にパーフェクトにマッチしました!

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「[配信作品]生まれる前にどんな人間になるかを決める『魂(ソウル)の世界』をテーマにした、ディズニー&ピクサーによるアニメ。青くかわいらしい姿をした『ソウル』たちが存在する世界に迷い込んだ音楽教師が、自分のやりたいことを見つけられずにいるソウルに出会う。監督は『モンスターズ・インク』や『インサイド・ヘッド』などのピート・ドクター。共同監督をドラマシリーズ『スター・トレック:ディスカバリー』の脚本に携わったケンプ・パワーズが務める」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ジャズピアニストになることを夢見る音楽教師のジョーに、ニューヨークのジャズクラブで演奏するチャンスが巡ってくる。しかし喜びもつかの間、彼はマンホールに落ちてしまう。そこには青くかわいい姿の魂(ソウル)たちの世界が広がり、人間として生まれる前にどんな自分になるかを決めていた。夢を追い続けるジョーがそこで出会ったのは、自分がどのようになりたいかを決められない『ソウルの22番』だった」

 この映画、じつはノーマークだったのですが、「映画を愛する美女」こと映画ブロガーのアキさんが教えてくれました。なんでも、映画評論家の町山智浩氏がツイッターで「世界中の人に観てほしい映画ですね」「今年観た映画のベストワンです」と大絶賛しているとか。町山さんといえば、わたしが最もリスペクトするシネフィルですので、「これは観なければ!」と思ったものの、劇場上映作品ではなく、ディズニープラスのサイトでしか観れないとのこと。迷わず、アキさんに従ってディズニープラスに加入しました。それにしても、「ソウルフル・ワールド」なんて、タイトルからして、わたしの好みではありませんか!

 その「ソウルフル・ワールド」をわが書斎で観終わった印象は、一条真也の映画館「インサイド・ヘッド」「リメンバー・ミー」で紹介したディズニー&ピクサーによる両アニメ作品をミックスしたような印象でした。2015年にアメリカで公開された「インサイド・ヘッド」は、第88回アカデミー長編アニメ映画賞を受賞。11歳の少女の頭の中を舞台に、喜び、怒り、嫌悪、恐れ、悲しみといった感情がそれぞれキャラクターとなり、物語を繰り広げます。田舎から都会への引っ越しで環境が変化した少女の頭の中で起こる、感情を表すキャラクターたちの混乱やぶつかり合いなどを描いています。「ソウルフル・ワールド」のソウルたちの造形は、「インサイド・ヘッド」に登場する感情たちの姿によく似ていました。

 2017年にアメリカで公開された「リメンバー・ミー」は、第90回アカデミー長編アニメ映画賞を受賞しています。また、2018年の一条賞(映画篇)の大賞に輝いた作品でもあります。1年に1度だけ他界した家族と再会できるとされる祝祭をテーマにした作品で、死者の国に足を踏み入れた少年が、笑いと感動の冒険を繰り広げます。テーマパークのような死者の国の描写、祖先や家族を尊ぶ物語に引き込まれる名作でした。「魂」と「音楽」がテーマというのは、まさに「ソウルフル・ワールド」と同じですが、「リメンバー・ミー」の舞台が死後の世界であるのに対して、「ソウルフル・ワールド」のそれは生まれる前の世界ということになっています。

「ソウルフル・ワールド」の主人公ジョー・ガードナーがゾーンに没入して奏でるピアノの音色は素晴らしいです。ピアノですから、もちろん音楽なのですが、彼の演奏は絵画的でもあります。わたしは、大好きな絵本作家エリック・カールの絵本『うたがみえる、きこえるよ』を連想しました。黒い服を着たバイオリニストが登場して演奏するだけの物語なのですが、バイオリニストの最初のセリフ以外は、全く文字がありません。イラストのみの絵本です。まさにエリック・カールのコラージュの傑作であり、そのコラージュの色使いは、彼の最高傑作とも言われています。

『うたがみえる、きこえるよ』のバイオリニストの奏でた音は、やがて色となりはじけて、月と太陽が生まれます。月と太陽は海に溶け合い、さまざまな生物が生まれます。まるで天地創造ですが、深い海はやがて少女となり、少女の涙は、土に命の恵みを与え、そこから根が張り、芽が息吹きます。やがて芽は成長し、大きな花をつけて花から飛び散った花びらは、また色となり、バイオリン奏者の奏でる音となり、バイオリンに吸い込まれていきます。楽器を演奏するという営みがいかに神話的な行為であるかを見事に表現しています。わたしはアニメーション化された『うたがみえる、きこえるよ』のビデオを2人の娘たちが幼い頃によく一緒に観ました。2人とも成人した今となっては、なつかしい思い出です。

 そんな『うたがみえる、きこえるよ』のバイオリニストに通じるものを、「ソウルフル・ワールド」のジョー・ガードナーは持っています。つまり、バイオリンにピアノと楽器は違えど、彼らの演奏は聴く者の魂(ソウル)に響くのです。ジョーの音楽はジャズです。一条真也の映画館「真夏の夜のジャズ」で紹介した映画を観て以来、わたしもジャズの魅力を再認識しました。ジャズは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国南部の都市を中心に派生した音楽ジャンルです。 西洋楽器を用いた高度なヨーロッパ音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と民俗音楽とが融合して生まれました。初期から白人ミュージシャンも深く関わり、黒人音楽であると同時に人種混合音楽でもありました。演奏技法なども急速に発展し、20世紀後半には世界の多くの国々でジャズが演奏されるようになり、後のポピュラー音楽に多大な影響を及ぼしました。つまり、ジャズという音楽ジャンルは黒人と白人が平和的コラボレーションを展開して発展させてきたジャンルなのです。
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ハートフル・ソサエティ』(三五館)



 ジャズもそうですが、「音楽」というものを発明した人類は、つくづく偉大であると思います。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「哲学・芸術・宗教の時代」にも書きましたが、人類が最初に発明した芸術とは、おそらく音楽であったとされています。人類がこの地球上に誕生してから現在に至るまで、人間が追い求めてきたものは「私とはいったい何者か」という自己の存在確認と意味の追求だったということができます。そして、それは近代文明の発達とともに「私の幸福とはいったい何か」という自己の存在の目的を追求することに少しずつ変わっていったのです。有史以前の音楽には、豊かな意味性があったといいます。自分たちの集落の音楽と他の集落の音楽を区別して、戦闘のときにそれを自分たちの戦意を鼓舞するために使いました。あるいは、誕生の祝いの歌、死者を弔う歌というふうに、目的に合わせて音楽に意味を持たせていたのでしょう。

 いま、「私とはいったい何者か」と書きましたが、「ソウルフル・ワールド」というアニメ映画でも、まだこの世に生まれていないソウルたちが「私とはいったい何者か」ということを問われます。それは「どのような人間として生きるか」ということにつながります。わたしは、かわいいソウルたちの姿を見ながら、メーテルリンクの『青い鳥』に出てくる「未来の国」を思い浮かべました。チルチルとミチルが最後に訪れる国ですが、ここでは、これから将来生まれてくる子どもたちが出番を待っています。彼らは、人間が長生きするための妙薬を33種類も発明するとか、誰も知らない光を発見するとか、羽がなくても鳥のように飛べる機械を発見するとか、とにかく人類のために何か役立ちたいという大きな志を抱いています。「未来の国」では、運命の支配者である「時」のおじいさんも登場します。「時」のおじいさんは、「子どもたちの生まれる時は運命によって決まっており、それを変えることはできない」と言います。
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涙は世界で一番小さな海』(三五館)



 また、「時」のおじいさんは「人間は地上に生まれるとき、たとえ発明などではなく、罪でも病気でもよいから何か1つは土産を持っていかなければならない」とも言います。これは人間の使命というものについて考えさせてくれます。そして、「未来の国」の子どもたちは、将来の自分たちの両親についてよく知っていました。赤ちゃんは生まれる前に、お母さんと約束して、今度の人生ではどういった使命を果たすのかを心に決めているというのです。でも、彼らが地球に到着した時点で、宇宙はその記憶を消してします。ごくたまに、記憶が残っている子どもが存在する。そのような考えが『青い鳥』に描かれています。神秘学や心霊主義にも詳しかったメーテルリンクは、そのような思想をどこかで学んだのかもしれません。わたしも、拙著『涙は世界で一番小さな海』(三五館)で紹介しました。

 さて、「私とはいったい何者か」という問いは、「この地上において、私は他人からどのような人間と認識されたいのか」という問いでもあります。そして、それは、経営学者ピーター・ドラッカーがよく語ったことでした。ドラッカーは「自己実現」の大切さを強調してきました。そして、そのための「自己刷新」や「自己啓発」の大切さを説きました。わたしは、よく講演などで若いビジネスピープルに「自己刷新」という考え方を伝えています。ドラッカーによれば、人間は何をもって後世の人々に記憶されたいかを常に自問しなければなりません。著書『非営利組織の経営』(ダイヤモンド社)で、ドラッカーは「私が13歳のとき、宗教の先生が生徒1人ひとりに『何によって人に憶えられたいかね』と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこう言った。『いま答えられるとは思わない。でも、50歳になって答えられないと問題だよ。人生を無駄に過ごしたことになるからね』」(上田惇生訳)と述べています。
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ドラッカー思考』(フォレスト出版)



 何によって人に憶えられたいか。若い頃に誰かにそう問いかけられた人は運のよい人です。そして、その問いを自らに問いかけ続けていけば、自然と人生が実りあるものになるとドラッカーは述べています。拙著『ドラッカー思考』(フォレスト出版)で、わたしは読者に問いかけました。「あなたは、何によって憶えられたいですか」と。やり手の営業スタッフでしょうか。凄腕のマーケッターでしょうか。優秀な経理スタッフでしょうか。はたまた、多くのお客様から愛される接客スタッフでしょうか。その職種や内容は関係ありません。何でもいいのです。大切なのは、あなたが何をめざし、その目標に向かって自己刷新の努力を続けてゆくことなのです。

 また、生まれる前の世界のソウルたちには「何のために生きるのか」という最大のテーマがあります。人間の生きがいとは何でしょうか。それについて、英文学者であり「現代の賢者」と呼ばれた故・渡部昇一氏が、著書『「人間らしさ」の構造』(講談社学術文庫)の中で1つの例をあげています。ここに1個のどんぐりがあるとします。そのどんぐりにとっての生きがい、つまり本望は何でしょうか。それはコロコロと転がって池に落ち、そこでドジョウに見守られながら腐ってしまうことではないでしょう。また石の上に落ちて乾上がってしまうことでも、鳥か何かに食べられてしまうことでもないでしょう。どんぐりの生きがいは、しかるべく豊穣な地面に落ちて、亭亭たる樫の木になることでしょう。

 どんぐりを割って、いくら顕微鏡で調べてみても、そのなかに樫の木の原形は見えません。しかし、しかるべき条件に置かれれば、やがて芽が出て、何十年後には大きな樫の木になるのです。つまり、どんぐりの中には樫の木になる性質が潜在していると言えます。エイブラハム・マズローなどの心理学者が、「自己実現」という言葉を唱えました。どんぐりが樫の木になるのも自己実現であるし、受精卵が人間になるのも自己実現です。どんぐりも可能性のかたまりですし、受精卵も可能性のかたまりです。あなたも、自分の可能性を展開しているときに生きがいを感じるのです。つまり、自己実現は生きがいそのものといってよいのです。

 また、地上の人間の世界とは「社会」と呼ばれます。そこで生きていくには「ミッション」というものが非常に重要です。もともとキリスト教の布教を任務として外国に派遣される人々を意味する言葉でしたが、現在はより一般的に、何らかの任務を担って派遣される使節団やそうした任務のもの、あるいは「社会的使命」を意味するようになってきています。ミッションというものを知れば、「私がここにいる理由」がわかるでしょう。よくいわれる「ミッション経営」とは、社会について考えながら仕事をすることであると同時に、顧客のための仕事を通して社会に貢献することです。すなわち、顧客の背後には社会があるという意識を持つということです。
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孔子とドラッカー新装版』(三五館)



 個人においても、使命感というものが大切です。日本における帝王学の第一人者で陽明学者の安岡正篤によれば、自分を知り、自力を尽くすほど難しいことはないそうです。自分がどういう素質能力を天からあたえられているか、それを称して「命」と呼びます。それを知るのが、命を知る「知命」です。知って、それを発揮していく、すなわち自分を尽くすことを「立命」といいます。『論語』の最後には、「命を知らねば君子でない」と書いてありますが、これはいかにも厳しく正しい言葉です。自分の素質能力を発揮できないとしても、せめて自分の素質能力を知らなければ立派な人間ではないというのです。ドラッカーは「仕事に価値を与えよ」と述べましたが、これはとりもなおさず、その仕事の持つ「ミッション」に気づくということにほかなりません。

 そして、「ソウルフル・ワールド」では、"メンター"であるジョーと"ソウル"である22番との間で「人生の目的」についての興味深い会話が交わされます。地上に生まれ落ちることを数千年ものあいだ頑なに拒んできた22番は、これまで、アルキメデス、コペルニクス、マリー・アントワネット、リンカーン、ガンジー、マザー・テレサ、カール・ユング、ジョージ・オーウェル、モハメド・アリといった人類史を飾る超有名人たちの霊をメンターとしてきました。彼らは必死に「地上で人間として生まれるように」と22番を説得しますが、それでも22番は拒み続けます。しかし、あるアクシデントからジョーの肉体に入り込んでしまった22番は、「肉体を持って生きることも悪くない」と思うのです。

 ジョーの肉体に入った22番が、間違って猫に入り込んでしまったジョーの霊に対して「きらめき」という言葉を使います。それは「人生の目的」というものに直結するキーワードでしたが、「それは君にとって何?」と問うジョーに対して、22番は「歩くことかな」と答えます。数千年もの長いあいだ肉体を持たなかった22番にとって、ジョーの肉体を得て2本の足で地上を歩くことは想定外の幸福感を与えてくれるものだったのです。しかし、ジョーは「そんなの人生をかけるようなことじゃない。ただの生活だよ」との否定的な言葉を吐き捨てるのでした。最後は、ジョーは自分の言葉が間違っていたことを知ることになるのですが・・・・・・。
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ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)



 わたしは、22番が語った「きらめき」という言葉は、まさに「ハートフル」という言葉の同義語であると思いました。当ブログの読者の方の多くはご存じかと思いますが、「ハートフル」は『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)に始まる一連の拙著のタイトルにも入っている、わたしの考え方が集約された代名詞的キーワードです。人は感動する事によってハートフルになれます。天にも昇るような、おいしいものを食べてハートフルになったり、魂を揺り動かすような音楽を聴いて、映画を観て、テーマパークで遊んで、ハートフルになったりします。素晴らしい自然に触れたり、スポーツで汗を流したりするうちにハートフルになることもあります。また、結婚式という人生で最も輝いたセレモニーにおいてハートフルになる人も多いでしょう。
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心ゆたかな社会』(現代書林)



「ソウルフル・ワールド」には、数々のハートフルな場面が登場します。それは、音楽の演奏で感動する。髪を切って爽快な気分になる。自転車で風を切る。美味しいピザを食べる。陽だまりの心地よさや紅葉の美しさを噛みしめる。そして、背筋を伸ばして颯爽と歩く・・・・・。みんな幸せな気分になる行為です。人間は、幸福になるためにこの世に生まれてきているという真実が、ここで明らかになります。天上のソウルフルから地上のハートフルへ。そう、ソウルフル・ワールドはハートフル・ソサエティに通じていたのです。映画「ソウルフル・ワールド」のメッセージとは、「世界中の人間たちよ、コロナ禍を超えて、心ゆたかな社会を生きよ!」ではないでしょうか。わたしには、そう思えてなりません。前代未聞の1年の最後の最後に、自分の考えにぴったりと合う映画を観ることができて、わたしはハートフルになれました!
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