No.542
8月6日、この日から公開された日本映画「キネマの神様」をシネプレックス小倉で観ました。一条真也の読書館『キネマの神様』で紹介した傑作小説の映画化とあって、公開をすごく楽しみにしていた作品です。しかし、映画版は原作とはかなり違う内容になっていました。山田洋次監督が脚本にも関わっていますが、率直に言って、大失敗だったと思います。せっかくの名作を台無しにされた気分で、残念ですね。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『男はつらいよ』シリーズなどの名匠・山田洋次監督が、作家・原田マハの小説を映画化。松竹映画100周年を記念して製作された、家族から白い目で見られるダメ親父の物語を紡ぐ。主演を務めるのは沢田研二と『アルキメデスの大戦』などの菅田将暉。『君は月夜に光り輝く』などの永野芽郁、バンド『RADWINPS』のボーカルで『泣き虫しょったんの奇跡』などの野田洋次郎のほか、北川景子、寺島しのぶ、小林稔侍、宮本信子らが共演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ギャンブル狂いのゴウ(沢田研二)は、妻の淑子(宮本信子)や家族にもすでに見捨てられていた。そんな彼が唯一愛してやまないのが映画で、なじみの名画座の館主テラシン(小林稔侍)とゴウはかつて共に映画の撮影所で同じ釜の飯を食った仲だった。若き日のゴウ(菅田将暉)とテラシン(野田洋次郎)は、名監督やスター俳優を身近に見ながら青春を送っていた」
この映画、全部で10劇場ある小倉のシネコンの6番目に大きいシアターで上映されていましたが、国民的映画監督ともいえる山田洋次監督がメガホンを取り、しかも松竹映画100周年記念作品だというのに寂しい限りです。やはり夏休みなので、チビッ子向けのアニメ映画などが大きなシアターを使うのでしょうね。それにしても、福岡県をはじめ全国各地で新型コロナウイルスの感染が悪化し、過去最多の感染者を出している中での公開というのは不運でしたね。まあ、映画館が閉鎖されていないだけでも良しとしなければいけないかもしれませんが。想定外のパンデミックまでも映画に取り込んだことは評価できます。わたしも、初めてスクリーン上で「新型コロナウイルス」という単語やマスク姿の人々に出合いました。
この映画は、製作の過程において、ずっとコロナに翻弄されてきました。主人公のゴウを沢田研二、若き日のゴウを菅田将暉が2人1役で演じるのですが、ゴウ役は当初、志村けんさんが務める予定でした。しかし、志村さんは新型コロナウイルス感染症の肺炎により降板、後に死去しました。そこで、かつて志村さんと同じ事務所(ナベプロ)に所属しており仲が良かった沢田研二が志村さんの意思を継ぎ、代役としてゴウを演じることになったのです。映画の最後には、志村さんの遺影とともに「志村けんさん さようなら」というクレジットが出ます。8月6日の「広島原爆の日」に公開されたこの「キネマの神様」という映画は死者を想う映画でした。
映画を観ると、志村さんの口から発せられることを前提に"当て書き"されたであろうセリフを所々に見ることができます。しかし、そんなことは先刻承知とばかりに沢田はすべてを引き受けました。そして、彼なりのゴウ像を見せてくれますが、そこに、あの美しきジュリーの面影は欠片もありません。ぶくぶくと太ったアルコール依存症&ギャンブル依存症の老人を演じ切りました。劇中、沢田が志村さんが愛した「東村山音頭」を歌うシーンは感動的でした。やはり、ジュリーは何を歌ってもうまい! 映画評論家の大塚史貴氏は、映画.comで「筆舌に尽くし難い志村さんへの思いを胸に多くを語らず茨の道を突き進み、銀幕の中で志村さんと邂逅してみせた沢田の男気には脱帽と形容するほかない」と書いていますが、同感です。わたしは、これまで「太陽を盗んだ男」「夢二」「魔界転生」などの沢田研二の主演映画が好きでしたが、この「キネマの神様」ではそれらの作品の主人公たちとは一線を画す「カッコ悪い爺さん」を見事に演じていました。
それにしても、菅田将暉が演じる若き日のゴウはなかなかスクリーンに登場しませんでした。冒頭のシーンから、ギャンブルで借金まみれの現在のゴウをめぐる楽しくない日常が描かれますが、彼が「テアトル銀幕」で上映された古い日本映画を観たときから物語が動き出します。その映画はゴウが若い頃に助監督を務めた作品であり、彼は、あろうことか美人女優の桂園子(北川景子)の瞳の中に自分が映っていると言い張ります。そこで園子の顔がクローズアップされ、そこからようやく菅田将暉がスクリーンに現れるのでした。そこは50年前の撮影所という設定ですが、山田監督自身が生きていた場所だけに、じつに生き生きと描かれていました。リリー・フランキー演じる出水監督も、映写技師のテラシンこと寺林新太郎(野田洋次郎)も、撮影所近くの食堂の娘・淑子(永野芽郁)もキャラが立って良かったです。
でも、豪華な出演者たちの中で最も良かったのは、原節子(もしくは岩下志麻)を彷彿とさせる美人女優の桂園子を演じた北川景子でした。彼女が和髪を結ってモノクロのスクリーンに映ると、本当に昭和の名女優というオーラを発していました。さすがです。淑子の食堂で日本酒を飲むシーンや、愛用のアメ車でドライブに繰り出すシーンなども魅力的でしたが、あえて難をつけるなら、彼女は近眼で台本を読むときは眼鏡をかけるという設定でしたので、駆け落ちする淑子を乗せた愛車を運転するシーンにこそ眼鏡が必要だったと思います。実際の映画では、彼女は裸眼で暗い夜道を疾走しており、違和感がありました。こういう細かいところにリアリティでないと、わたしは白けてしまうのであります。
リアリティといえば、時間の間尺も合いません。「キネマの神様」に登場する松竹撮影所とは、小津組が使った大船撮影所です。ここは、1936年1月15日から2000年6月30日まで神奈川県鎌倉市にあった映画スタジオです。それまで松竹は東京都大田区の蒲田撮影所で撮影をしていましたが、町工場の多い蒲田では騒音がトーキーの撮影に差し障るという理由から大船に移転しました。松竹が大船撮影所50周年を記念して、昭和初期の蒲田撮影所を舞台に、映画作りに情熱を燃やす人々の姿をオールスターキャストで描いた作品が「キネマの天地」(1963年)で、山田洋次監督がメガホンを取りました。どうやら、山田監督は「キネマの天地」で蒲田撮影所を活写したので、今度は「キネマの神様」で大船撮影所の黄金時代を描こうとしたと思われます。しかし、ここで「キネマの神様」の時間の間尺が合わないという決定的事実が判明します。
というのも、映画「キネマの神様」でコロナ禍の中にある現在のゴウは78歳となっています。過去のゴウは50年前という設定なので28歳ぐらいでしょうか。すると、過去の時代とは1970年前後でしょうか。この当時の映画産業は黄金時代どころかテレビに完全に負けていて、この映画に描かれているような夢に溢れた業界ではありませんでした。何よりもおかしいのは、「キネマの神様」で重要な役割を果たし、ラストシーンにも登場する映画のモデルとなった小津監督の「東京物語」が1956年の作品なのです。原田マハ氏の原作小説が発表されたのは2007年ですので、この時点ならば時間の間尺は狂っていません。この時代背景から過去を振り返るという設定ならば問題がなかったのですが、新型コロナウイルスによる当初主役の志村けんさんがコロナ感染で亡くなり、制作も中止され、新たに再開されたとき、志村さんへの追悼の意味でコロナ感染が盛り込まれのだと推察します。しかし、これがこの映画のリアリティを完全に破壊しました。「神は細部に宿る」といいますが、ディティールのリアリティを放棄したこの映画にはキネマの神様は宿らないと思います。
園子は松竹撮影所の巨匠である小田監督の「東京の物語」という映画に出演したことになっていますが、これは誰が見ても小津安二郎の「東京物語」のことだとわかります。若き日のゴウは、小田監督(小津監督)の代名詞ともいえる低い位置からのカメラアングルやロングショットなどの撮影技術を「古臭い」と言って批判しますが、これは山田監督自身の想いが反映されているのでしょうか。だとしたら、松竹映画100周年記念作品には、少々ふさわしくない印象を持ちました。山田監督以前にも松竹映画の巨匠は多く、木下惠介、成瀬巳喜男、五所平之助、川島雄三などの名前が浮かびます。そして、最大の巨匠が「映像の魔術師」と呼ばれた小津安二郎であることは言うまでもありません。「キネマの神様」には、そんな松竹映画の神々へのリスペクトが感じられませんでした。
小津安二郎といえば日本映画史に燦然と輝く存在ですが、映画によって日本の家族を描き続けたことで知られます。そして、山田洋二監督も日本の家族を描き続けてきました。家族映画は松竹映画の伝統であり、王道なのです。一条真也の映画館「東京家族」で紹介した映画は、小津監督の「東京物語」へのオマージュとなっています。2013年の作品ですが、「東京物語」完成から60周年、そして山田洋次監督の監督生活50周年を記念して製作されました。「東京家族」公式HPには、「時にやさしく温かく、時に厳しくほろ苦く、家族を見つめ続けてきた山田洋次監督。『家族』、『幸福の黄色いハンカチ』、『息子』、『学校』シリーズ、『おとうと』、そして『男はつらいよ』シリーズ─―そこには時代によってうつりゆく日本の家族の様々な姿が刻みつけられています」と書かれています。
また、公式HPには「そして2012年、〈今の家族〉を描く山田洋次監督待望の最新作が完成しました。監督生活50周年の節目でもある本作は、日本映画史上最も重要な作品の1つで、2012年に世界の映画監督が選ぶ優れた映画第1位に選ばれた、小津安二郎監督の『東京物語』をモチーフに製作されました。日本の社会が変わろうとするその時を、ある家族の日常風景を通して切り取った『東京物語』から60年─奇しくも現在の日本も、東日本大震災とそこから生じた様々な問題により、大いなる変化を突きつけられています。その傷痕を抱えたまま、どこへ向かって歩み出せばいいのか、まだ迷い続けている私たちに、今を生きる家族を通して、大きな共感の笑いと涙を届けてくれる、感動作の誕生です」とも書かれています。
そして、「東京家族」は「東京物語」のリメイクといってもいいほどのオマージュ作品でした。山田監督が「今回、初めて小津さんの凄さがわかった」と言うほど、小津映画に傾倒して作られた映画です。ブログ「小津安二郎展」にも書きましたが、わたしは小津安二郎の映画が昔から大好きで、ほぼ全作品を観ています。黒澤明と並んで「日本映画最大の巨匠」であった彼の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。
映画「キネマの神様」では、家族というものが感動的に描かれています。菅田将暉演じるゴウと永野芽衣演じる淑子が70代後半になっても夫婦であり続けているのは感動的でさえあります。しかし、山田監督は松竹伝統の「家族映画」にこだわるあまり、原田マハ氏の大傑作である『キネマの神様』の内容を大幅に改変してしまいました。『キネマの神様』という小説を一読して、わたしは心の底から温かくなったような気がしました。また、無性に映画館に行って、映画が観たくなりました。映画や映画館をテーマにした小説は多いですが、同書は最高傑作だと思いました。
文庫版のカバー裏には、「39歳独身の歩(あゆみ)は突然会社を辞めるが、折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、多額の借金が発覚した。ある日、父が雑誌『映友』に歩の文章を投稿したのをきっかけに歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることに。"映画の神様"が壊れかけた家族を救う、奇跡の物語」と書かれています。確かに家族も重要な要素ではあるのですが、この物語の最大の主人公は映画そのものです。それが山田監督と多くの山田監督作に携わってきた朝原雄三による脚本では、単なる家族のドラマになってしまっている印象を持ちました。
山田&朝原コンビは、それ以上の勇み足を犯しています。それは映画雑誌の脚本賞で大賞に輝いたゴウの映画「キネマの神様」のシナリオの最大のウリが映画のスクリーンから登場人物が抜け出してくるというアイデアだったことです。映画のラストもこのアイデアで結ばれていますが、これは「?」でした。スクリーンの中から映画の登場人物が出てくるというアイデアは、映画の中でゴウも語っているようにバスター・キートン主演の「キートンの探偵学」(1924年)で初めて使われたアイデアです。山田監督は約40年前、漫画家の手塚治虫から「スクリーンから俳優が出てきちゃう映画が実に良かった。山田さん、あなた、あんな話をお撮りになったらいいですよ」と言われたそうで、山田監督は「その言葉を僕は、とても大事にしてきた」として「いつか撮ってみたい」と思っていたと読売新聞のインタビューで答えています。しかし、「そんな個人的な想いで原作のストーリーをここまで変えていいものか?」と、わたしは疑問に思いました。
スクリーンの中から映画の登場人物が出てくるというアイデアですが、「カイロの紫のバラ」(1985年)が最も有名ですね。ウッディ・アレンが脚本・監督したファンタスティックなラブ・ロマンスです。古き良き30年代、熱心に映画館に通いつめるウェイトレスに、ある日、スクリーンの中から映画の主人公が語りかけてきます。銀幕を飛び出し、現実世界へ降り立ったその主人公は、ウェイトレスを連れて劇場を後にします。大慌ての興行者たちをよそに、2人の仲は進展していきます。そして、主人公を演じた本物のスターの出現によって事態は混乱を極めていくのでした。わたしはこの映画を大学生のときに東京の映画館で観ましたが、スクリーンを通して、スターが映画の中と現実を行き来するというストーリーに魅了された記憶があります。
また、同じアイデアに基づいているのが、一条真也の映画館「今夜、ロマンス劇場で」で紹介した2018年の日本映画です。映画監督志望の健司(坂口健太郎)は、映画館『ロマンス劇場』に通い詰めていました。彼はそこで1人の女性と出会いますが、彼女こそ健司がずっと恋い焦がれてきたスクリーンの中のお姫さま・美雪(綾瀬はるか)でした。美雪はモノクロの世界から抜け出して、色にあふれた現実の世界を満喫し......モノクロ映画のヒロインと現実世界の青年の切ない恋を描いたファンタジー映画です。映画というものはもともとウソの世界ですから、思い切って素敵なウソを描いてくれる作品が一番です。そんな意味で、この作品はあまりにも映画らしい映画で、感動しました。この「今夜、ロマンス劇場で」の配給は日本の映画会社ではなく、アメリカのワーナー・ブラザーズでした。しかし、それなりにヒットし、話題にもなったこの映画を松竹のスタッフが知らないはずはありません。
なぜ、彼らは山田監督に「このアイデアは、少し前に使われていますよ」と言わなかったのでしょうか。さらには、「監督、時間の辻褄が合いませんよ」と言わなかったのでしょうか。そこには「男はつらいよ」の巨匠に物申すことはできないという空気があったのでしょうか。山田監督に対する忖度があったのでしょうか。もし本当にそうならば、この映画は山田監督の老醜を晒した作品ということになりますね。旧態依然とした日本映画の映画のシステムに疑問を抱き、大御所たちの権威を否定して新しい映画を自由に作ることを目指した山田監督の行き着く先が自身の老醜を晒す映画だとしたら、あまりにも悲しいことですね。それは、映画「キネマの神様」の中で沢田研二が演じたゴウの老醜などよりもずっと醜く、悲しいものだと思います。
山田監督は、これまで映画を60年間撮り続けてきました。この「キネマの神様」で通算89本目となるそうです。しかし、すでに多くの映画で使い古されたアイデアを「どうだ!」とばかりにドヤ顔で示す姿には、わたしは老いの哀しさしか感じません。しかし、だからと言って、この映画が駄作というわけではありません。かつての黄金期にあった映画撮影の現場の臨場感はこの映画の最大の魅力であると思います。なんだかんだ言っても、映画は良いもの。人は映画を観て、どんな場所にも時代にも飛べるし、泣いたり笑ったり夢を見たりできます。この映画の中では、淑子が一番好きな映画として、フランク・キャプラ監督の「素晴らしき哉、人生!」を挙げたのが印象的でした。わたしも大好きな映画です。映画「キネマの神様」のテレビCMでなつかしい淀川長治さんの姿を見ながら、わたしは「素晴らしき哉、映画!」と言いたくなりました。