No.572
ユナイテッドシネマ金沢で日本映画「ちょっと思い出しただけ」を観ました。ネットで高評価の作品ですが、鑑賞後に余韻の残る傑作でした。
ヤフー映画の「解説」には、「『くれなずめ』などの松居大悟監督が、監督と脚本を務めたラブロマンス。別れを迎えたカップルが過ごした6年間を1年ずつ同じ日をさかのぼるようにして映し出す。『アジアの天使』などの池松壮亮、『タイトル、拒絶』などの伊藤沙莉、『由宇子の天秤』などの河合優実のほか、高岡早紀、菅田俊、國村隼、永瀬正敏らが共演する。松居監督作『私たちのハァハァ』などのクリープハイプが音楽を担当し、そのメンバーである尾崎世界観も出演している」と書かれています。
ヤフー映画の「あらすじ」は、「2021年7月26日。34歳の誕生日を迎えた佐伯照生(池松壮亮)は、サボテンの水やりなどをしてからステージ照明の仕事へ向かい、ダンサーにライトを当てていた。一方、タクシー運転手の葉(伊藤沙莉)は、客を乗せて夜の東京を走っている。トイレに行きたいという客を降ろした葉は、どこからともなく聞こえる足音に導かれて歩き出し、照生が踊るステージにたどり着く。さかのぼること1年前の7月26日。照生は自宅でリモート会議をし、葉はマスクを着けて飛沫シートを付けたタクシーを運転していた」となっています。
特に劇的な展開のない、退屈といえば退屈な映画なのですが、わたしはこういう作品が嫌いではありません。人生というものは(いわゆる映画のような)特に劇的な展開がないケースが多いわけで、その意味では多くの人が共感できる内容ではないかと思います。特筆すべき点もあります。冒頭から主人公がマスクを着けており、周囲の登場人物たちもマスクを着けています。そう、この映画は新型コロナウイルスによるパンデミックをきちんと反映した内容になっているのです。コロナ禍になってもう2年以上が経過しますが、その間に製作された映画でも登場人物たちはマスクを着けていませんでした。マスクを着けると表情が見えなくなるので演技の邪魔だからでしょう。でも、冒頭から主人公の葉を演じる伊藤沙莉がマスク着けているところがリアルで、とても良かったです。「やっと、コロナの映画に出合った!」と思いました。
バーバリーのようなチェック柄のマスクを着けたタクシードライバーの彼女は美しかったです。「あれ、伊藤沙莉って、こんなに美人だっけ?」と思いました。その秘密は、もちろんマスクにあります。個性的ではあっても、失礼ながら美人女優とは言えない彼女が綺麗に見えたのは、マスクから切れ長の目だけが見えるからです。それにしても、彼女の演技の上手さには唸りました。 ブログ「ひよっこ」で紹介したNHK朝ドラの名作で米屋の娘を演じたときに初めて彼女の存在を知ったのですが、「美人ではないが、存在感が凄い!」と思いました。その後、ブログ「全裸監督」で紹介したネットフリックスの傑作ドラマで演じたAV映画の女性カメラマン役も良かったです。
彼女がタクシードライバー役で出演しているクリープハイプ の 「ナイトオンザプラネット」のMVも素晴らしいです。この曲自体も最高に素晴らしい。「夜にしがみついて 朝で溶かして♪」で始まる歌詞ですが、二人でいる時は「吹き替えより字幕で♪」だけど、子どもが出来てからは「字幕より吹き替え♪」になっているのが秀逸ですね。その歌詞の中に「ちょっと思い出しただけ♪」というフレーズが出てきます。映画「ちょっと思い出しただけ」では、エンドロールでこの名曲が流れます。映画「ちょっと思い出しただけ」は、1991年に作られたアメリカ映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」(Night on Earth)をモチーフとしています。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」は、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」などのカルト・ムービーで知られるジム・ジャームッシュ監督のオムニバス映画です。ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキを舞台に、タクシードライバーと乗客の人間模様を描きました。その中でも、「ちょっと思い出しただけ」の劇中映画として登場するエピソードがロサンゼルス編です。若い女性タクシー運転手コーキー(ウィノナ・ライダー)は、空港で出会ったビバリーヒルズへ行こうとしている中年女性ヴィクトリア(ジーナ・ローランズ)を乗せます。映画のキャスティング・ディレクターであるヴィクトリアは、新作に出演する女優を探し出すのに手を焼いていました。口は汚いがチャーミングなコーキーに可能性を感じたヴィクトリアは、ある提案をするのでした。
松井大悟監督には、非凡な才能を感じます。1985年生まれというから、まだ36歳の若さ。なんと、北九州市の若松の出身です。福岡市育ちで、福岡海星女子学院附属小学校、久留米大学附設中学校・高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。大学入学と同時に演劇サークル創像工房 in front of.に入団。1年先輩の上田航平(現在はお笑いコンビ「ゾフィー」メンバー)のもとについて演劇を学びました。2009年夏のNHK「ふたつのスピカ」でNHKの連続ドラマ脚本では最年少記録として、ドラマ脚本家デビュー。2012年2月、映画監督デビュー作となる「アフロ田中」が公開。本作の主人公同様、自身も天然パーマだとか。クリープハイプのメジャーデビュー以降のビデオクリップを手掛けています。後にアニメーターとなる谷口崇とコンビを結成し、M-1グランプリに第2回から連続出場。もともとは漫画家志望だったそうで、じつに多才ですね。それから、松井監督は九州で活躍するコラムニストのトコさんの息子さんなのですね。知りませんでした!
わたしが、初めて見た松井監督の映画は一条真也の映画館「くれなずめ」で紹介した作品です。2021年公開で、「ちょっと思い出しただけ」の1作前の映画となります。高校時代に帰宅部だった6人の仲間たちが、友人の結婚披露宴で余興をするため5年ぶりに再会。久々に出会ったアラサー男たちは、披露宴と2次会の間の中途半端な時間を持て余しながら、青春時代の思い出話に花を咲かせます。彼らは今までと変わらず、これからもこの関係は続いていくのだろうと思っていたのですが、ある出来事が起きるのでした。コロナ禍で思うように行われなくなった日本の結婚式について想いを馳せようと思って昨年5月に観ましたが、物語が意外な展開となって、結婚式ではなく葬儀に想いを馳せてしまいました。この映画は、ヒューマンドラマでありながら、ファンタジー映画でもありました。「ちょっと思い出しただけ」と同じく、余韻の残る作品でした。
「ちょっと思い出しただけ」は、基本的に元カレ、元カノを思い出す恋愛映画です。静かで平凡な恋愛ではありますが、本人たちからすれば「かけがえのない」恋です。ちょっとした偶然で男女が出会い、恋に溺れる。相手の心と体を求める気持ちがどんどん大きくなっていく。そして、ちょっとした行き違いが起こり、それがだんだん深まってきて、ある日、二度と元には戻れない亀裂を生んでしまう。本当に、偶然とタイミングが結婚にまで至る恋愛と、結婚に至らない恋愛との分かれ道を作るのです。それにしても、この映画の照生と葉の別れのシーンは正直言って「?」でしたね。
二人はなぜ別れたのか?(映画com.より)
照生が足を怪我したことが原因で別れるのですが、「なぜ彼は足を怪我したのか」の説明が皆無なので、唐突な印象がありました。また、最後の別れ方も口喧嘩のレベルで、多くの観客は「どうして、これしきのことで別れるの?」と思うでしょう。この映画における恋人たちが別れた理由にはリアリティが感じられないのです。まあ、照生が怪我によって落ち込み、心配する葉に2週間も連絡しなかったようなので、これが別れた最大の原因だと思います。いくら落ち込んでいたとしても、マメに連絡しない男はダメです。あと、この映画はやたらと過去に遡っていくのですが、その時間の変化をカレンダーの日付で表現しています。そのカレンダーが非常に読みにくく、何年前に飛んだのかがわかりにくくなっています。これは、この映画の最大の欠点であるように思いました。
人間、誰でも生きていれば人生は続き、輝ける時間も持てば、辛い別れも経験します。それらはすべて「思い出」となってしまいます。この儚さ、切なさを描いた映画は数えきれないほどあります。「ちょっと思い出しただけ」を観て、わたしは、 一条真也の映画館「花束みたいな恋をした」で紹介した日本映画を連想しました。恋愛の本質を見事に描いた名作で、どこにでもいる現代の大学生の21歳から26歳までを描いています。わたし自身のいろんな思い出が蘇ってきて、センチメンタルな気分になりました。有村架純と菅田将暉の主演2人の演技も最高でした。ある晩、終電に乗り遅れた大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は、東京・京王線の明大前駅で偶然出会う。お互いに映画や音楽の趣味がよく似ていたこともあり、瞬く間に恋に落ちた二人は大学卒業後、フリーターとして働きながら同居を始める。ずっと一緒にいたいと願う麦と絹は、今の生活を維持することを目標に、就職活動を続けます。若い日の情熱的な恋愛をこの映画は見事に描いています。
映画「ちょっと思い出しただけ」は、特定の1日を1年ごとに遡っていきます。その特定の1日とは、照生の誕生日です。そう、誕生日は「特別な1日」なのです。この映画では、彼の誕生日を祝うシーンが何度も登場し、さまざまな誕生日ケーキも出てきます。わたしは、誕生日を祝う行為には深い意味があると思っています。祝いの心とは、他人の「喜び」に共感することです。それは、他人の「悲しみ」や「苦しみ」に対して共感するボランティアと対極に位置します。しかし、じつは両者とも他人の心に共感するという点では同じです。他人を祝う心とは、最高にポジティブな心の働きではないでしょうか。老若男女を問わず、誰にでも毎年訪れる誕生日。この誕生日を祝うことは、その人の存在そのものを肯定すること、存在価値を認めることにほかなりません。まさに、「人間尊重」そのものの行為です。そして、恋愛においては恋人の誕生日を祝うことは最重要のイベントであり、セレモニーとなります。
公園で妻を待ち続ける男(映画com.より)
「ちょっと思い出しただけ」には、永瀬正敏が出演しています。彼はこの映画が作られる元になったハリウッド映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」にも日本人俳優として出演しているのですが、「ちょっと思い出しただけ」では、いつも公園のベンチに座っている男性を演じています。彼はベンチに座って何をしているのかというと、今は亡き妻がやって来るのを待っているのです。でも、妻は死んでいるのですから、公園に来るはずがありません。それでも、彼は「妻は未来からやって来る」「待つ人がいるというのは奇跡だ」と言うのでした。照生と葉も彼のことが気になっており、何かと声をかけてあげます。また、奥さんの月命日には花を渡してあげたりします。永瀬演じる男性は、配偶者を亡くしてまさにグリーフの中にあり、その悲嘆の深さゆえに精神がダメージを受けて、時間や空間の感覚が歪んでいるように思えます。わたしは、「この男性は、奥さんが亡くなったときに、きちんと葬儀をあげたのだろうか?」と思いました。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
葬儀には、グリーフケアの文化装置という側面があります。『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、古今東西、人間は死に続けてきました。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていくのです。親しい人間が死去する。その人が消えていくことにより、愛する人を失った遺族の心は不安定に揺れ動きます。残された人は、大きな不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。つねに不安定に「ころころ」と動くことから「こころ」という語が生まれたという説も「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、この「こころ」に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。
『グリーフケアの時代』(弘文堂)
また、わたしは、『グリーフケアの時代』(弘文堂)の第3章「グリーフケア・サポートの実践」の「悲嘆の原因とプロセス」のケース1「ケアとしての葬儀の取り組み」に、「葬儀をあげる意味」について書きました。そこで、葬儀には、いったん儀式の力で時間と空間を断ち切ってリセットし、そこから新たに時間と空間を創造して生きていくという意味づけもできます。もし、愛する人を亡くした人が葬儀をしなかったらどうなるか。そのまま何食わぬ顔で次の日から生活しようとしても、喪失で歪んでしまった時間と空間を再創造することができず、「こころ」が悲鳴を上げてしまうのではないでしょうか。以上のようなことをブログ「グリーフケア対談in東京スポーツ」で紹介した2日の対談でも話しました。
最後に、葉の仕事であるタクシードライバーは基本的にサービス業であるとされていますが、タクシーという密室の中で乗客と会話し、その「こころ」に寄り添う...タクシードライバーはケア業でもあるという事実を見事に示しています。そういえば、最近は介護タクシーなども登場していますね。(コロナでビニールシートが隔てているにせよ)タクシーの車内では運転手と乗客がとても近い距離で接しており、それだけに女性ドライバーである葉にはストレスやセクハラの危険も感じることがあると思いますが、何よりも彼女がタクシードライバーの仕事を愛していることが素敵でした。國村隼演じるスナックのマスターもケア業そのものでした。彼は、心疲れた客たちに酒と言葉を与えてくれます。彼もスナックのマスターという仕事を愛しています。そう、ケア業の最大の特徴とは、その仕事への愛と誇りにあるのです!