No.573


 2020年のイギリス&アメリカ&スウェーデン合作映画「選ばなかったみち」をシネプレックス小倉で観ました。ネットでの評価は低い作品ですが、認知症ケアが取り上げられていること、メキシコの「死者の日」の場面があることを知り、観たいと思いました。3つの物語が同時進行して分かりにくい映画ですが、それなりに感じる部分はありました。特に、わたし自身の娘との関係を思い起こしましたね(この記事の最後に写真あり!)。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ジンジャーの朝 ~さよなら、わたしが愛した世界』などのサリー・ポッター監督が、自身の実体験をベースに手掛けたドラマ。認知症を患って日常生活もままならなくなった父親と、彼を病院に連れ出そうとする娘が過ごす24時間を描く。『BIUTIFUL ビューティフル』などのハビエル・バルデム、『最高に素晴らしいこと』などのエル・ファニングのほか、ローラ・リニー、サルマ・ハエックらが出演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ニューヨークに暮らす、メキシコ人移民の作家レオ(ハビエル・バルデム)。認知症を患っている彼は、誰かの介助なしには日常生活を送ることができず、ヘルパーや娘のモリー(エル・ファニング)との意思疎通を図るのも難しい状況に陥っていた。そんなレオを病院に連れ出そうとアパートを訪れるモリーだが、彼は娘を相手にせず、初恋の女性と出会った故郷のメキシコ、作家活動に行き詰まって単身で訪れたギリシャでの日々を思い起こす」

 第70回ベルリン映画祭コンペティション部門に出品された本作は、イギリスの女性映画監督サリー・ポッターの最新作です。彼女はいつも自身が体験した出来事を基に映画を作ることで知られますが、今回も実の弟が若年性認知症と診断され、ポッター監督自身が介護で寄り添った経験をもとに自らが脚本と音楽も手掛けました。この映画は3つの時間が並行するという構造になっています。1つめは、認知症を患った主人公レオが娘のモリーとニューヨークを移動する現実の時間。2つめは、レオがアメリカに移民する前にメキシコで結婚していた先妻のドロレス(サルマ・ハエック)と一緒に「死者の日」に交通事故で亡くなった息子ネスターの墓参りをする過去の時間。3つめは、ドロレスと破局した後にアメリカに移住し、アメリカ女性リタ(ローラ・リニー)と再婚してモリ―が生まれるも、執筆のためにギリシャに移住したレオがドイツ人観光客の中にモリーの面影を見つけて追いかけるという過去が変容した仮想現実の時間。これら3つの時間がくるくる入れ替わりながらレオの半生を描いていくので、非常にわかりにくいです。不用意に観ると、必ず混乱するでしょう。

 この映画、初見で同時進行する3つの物語を理解するのは困難です。理解できるかどうかのカギは、アメリカの詩人ロバート・フロストの「The Road Not Taken」という詩を知っているかどうかだと思います。映画「選ばなかったみち」の原題はこの詩に由来します。「森の中に二つの道があって、ひとつは先が見えない道で、もうひとつは先は見えないけどあまり踏み荒らされていなかったように感じた道」という言葉から始まり、最後は「自分はあまり踏み荒らされていない方の道を選んだ」と結ばれています。その選択が大きな違いとなったということを描いた詩ですが、この映画でも「選択」がメインテーマとなっています。ポッター監督は、この詩に影響を受けたことを告白し、「私はこの映画を、人生の奥深さに迫る作品にしようと考えていました。悲しい場面もありますが、一筋の光が与えられればと思いました。観客の皆さんには、レオの物語を通して、複雑で神秘的な自分の人生を追い求めてもらえたらと願っています」と語っています。

 3つの物語のうち、わたしが最も楽しみにしていたのは、メキシコの「死者の日」のエピソードでした。一条真也の映画館「リメンバー・ミー」で紹介した名作アニメ映画で有名になった「死者の日」ですが、メキシコでは11月1日と2日の祝日のことで、日本のお盆や欧米のハロウィーンに近い年中行事です。死者を供養する祭りですが、カラフルに派手に盛大に祝われます。オフレンダと呼ばれる祭壇が豪華に飾られ、マリーゴールドの花が敷き詰められ、中央のてっぺんには故人の写真が供えられます。ソカロと呼ばれる中央広場には、非常に大きなオフレンダや死者の日仕様のモニュメントが飾られます。また、「死者の日」では人々が骸骨のペイントをします。「リメンバー・ミー」で描かれた死者の国では、生者が祭壇に遺影を飾らないと死者は消えてしまうという設定が興味深かったです。つまり、生者から忘れられた死者はもう一度死ぬというわけです。
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レオとドロレス(映画com.より)



 わたしは、つねづね「生者は死者を忘れてはならない」と考え、また訴え続けているので、とりわけ興味深く感じました。「選ばなかったみち」では、完全に心が離れてしまった夫婦が亡き息子の墓参りをしたことによって、一瞬でも理解し合えたシーンは胸を打つものがありました。レオの先妻ドロレスを演じたサルマ・ハエックは一条真也の映画館「ハウス・オブ・グッチ」で紹介した映画で女占い師のピーナを演じていましたね。なお、予算によるロケ地の関係から、メキシコの「死者の日」の祭事ロケ地はスペインのアンダルシア平原だったそうです。
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ギリシャでのレオ(映画com.より)



 また、ギリシャを舞台とする物語も展開します。作家生活に行き詰まりレオは一人でギリシャにやって来たのでした。そこに観光で訪れたドイツ娘のアンニに「小説の結末に悩んでいる」という名目で近づいたレオは「(小説の結末を)どうしたらいい?」と訊きますが、逆に彼女から「自分はどうしたらよかったと思ってるの?」と訊き返され答えに詰まるのでした。このギリシャ編を観て、わたしは一条真也の映画館「永遠と一日」で紹介したギリシャ映画界最大の巨匠であるテオ・アンゲロプロスの映画を思い出しました。死を強く意識した老詩人と難民の子供との1日間の交流を詩情豊かに描いた人間ドラマであり、美しい映像詩でもあります。不治の病を患い、人生で最後の一日を送ることに決めた老詩人アレクサンドレのもとを訪れる様々な出来事が描かれます。

「永遠と一日」は、現実と幻想を軽やかに行き来しつつ、老詩人の最後の一日を描いた詩情溢れるアンゲロプロスの傑作です。まるで人生に微笑みかけるようなやさしさと穏やかさに満ちたこの作品は、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞しました。家族たちとの別れ・愛犬との最後の時間など、「選ばなかったみち」と共通する要素も多く、何よりもすべてが特定の「一日」を描いた物語であることが両作品に共通しています。なお、予算によるロケ地の関係から、「選ばなかったみち」のギリシャの島の海岸はスペインのアンダルシアのカボデガタニハルの自然公園のモロ島で撮影されたとか。

 そして、ニューヨークでの現実の時間。エル・ファニング演じるモリーは、ある朝、線路脇のアパートで一人で暮らす父レオを病院へ連れていくために彼を訪ねます。しかし、二人は意思の疎通もままなりません。二人が向かう先々でレオは面倒を起こし、モリーは仕事の重要なプレゼンを当日に控えながら予定を何度も変更せざるを得なくなります。観客の多くは、ハラハラするのを通り越してイライラしたのではないでしょうか。わたしも、「何もプレゼンの当日に病院に連れて行かなくたっていいじゃない!」と思いました。しかも、治療ではなく、検査なのです。
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NYのレオとモリー(映画com.より)



 それにしても、この映画は重度の認知症患者をケアする難しさを嫌というほど教えてくれます。歯の検査をすれば口を閉じて起き上がるし、目の検査をすれば目を閉じるし、車で移動中に車から飛び降りるし、検査中に失禁するし、ズボンの替えを買いに洋服店に行けば、そこで他人の愛犬を奪って抱きしめてしまうし、最後はモリーが寝ている間に一人で外に出てしまい、裸足のまま電車に乗ってニューヨークの下町を徘徊するといった具合です。そんな父を見捨てずにケアするモリーをエル・ファニングはよく演じました。なお、予算によるロケ地の関係から、NYシーンの多くはロンドンで撮影されたそうです。
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父と娘の行き先は?(映画com.より)



 3つの物語を紡ぎながらも、最終的に舞台はニューヨークに戻り、ラストシーンは「父を置いて出ていくモリー」と「父のそばにいるモリー」が同時に存在する様子を描いて幕が降ります。このシーンにはさすがに混乱しない観客はいないと思いますが、おそらくは、どちらかがレオの妄想、もしくは両方ともレオの妄想なのではないでしょうか。この不可解なシーンは、ポッター監督が弟を介護する生活の中で「自分自身が誰もが行きたがらない道を選んだ」ということを仄めかしているのかもしれません。身支度をして部屋を出るモリーの姿は、「弟は、自分のことをこんなふうに思っていたんじゃないか?」という疑問を観客に語り掛けているように思いました。

 それにしても、レオを演じたハビエル・バルデムの熱演には脱帽です。「さすがは、オスカー俳優だ!」と感服しました。彼は現在53歳なので、わたしより5歳も若いのですね。カナリア諸島ラス・パルマスにて、祖父母の代から俳優の芸能一家に生まれたバルデムは、叔父が監督のフアン・アントニオ・バルデムだったことから、6歳でデビューし。テレビなどに出演するようになりますが、一方でラグビーの世代別スペイン代表チームに選抜されるなど、スポーツ選手としても活躍。しかし芸術に興味を持ち、マドリッドで4年間絵画を学びますが、才能がないと感じて画家への道を諦め、映画俳優となったといいます。

 わたしが俳優ハビエル・バルデムを初めて知ったのは、2004年のスペイン・フランス・イタリア合作の伝記映画「海を飛ぶ夢」でした。25歳の時に頸椎を損傷し、以来30年近くものあいだ全身の不随と闘った実在の人物、ラモン・サンペドロの手記『地獄からの手紙』をもとに、尊厳死を求めて闘う主人公を描いたドラマです。バルデムのメイクアップも話題になりました。「海を飛ぶ夢」のサンペドロは寝たきりのまま想像を膨らませます。「選ばなかったみち」のレオも寝たままで妄想に浸ります。サンドロぺの頭の中にあるのはイリュージョンで、ネオの頭の中にあるのはデリュージョンという違いはあるにせよ、わたしには彼ら二人の姿が重なりました。「選ばなかったみち」でのバルデムの熱演のルーツが「海を飛ぶ夢」にあったのは間違いないと思います。

 それから、バルデムの熱演といえば、一条真也の映画館「マザー!」で紹介したダーレン・アロノフスキー監督の2017年にアメリカで公開された超問題作を思い出します。第74回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門で上映されるや、その衝撃から賛否が極端に分かれ、日本では劇場公開が中止されてしまいました。ようやくDVDで鑑賞したわたしは、ぶっ飛びました。こんなにも観る者に不安をあおり、かつ不快な感情を与える映画は初めてでした。この「マザー!」で、バルデムはスランプに陥った詩人を演じています。彼は若くて美しい妻(ジェニファー・ローレンス)と二人で一軒家に住んでいるのですが、ある夜、家に不審な訪問者が訪れます。詩人の夫はその訪問者を拒むこともせず招き入れます。それをきっかけに、翌日からも次々と謎の訪問者たちが現れ、夫婦の穏やかな生活は一転。ついには恐るべき結末を迎えるのでした。

「マザー」の次は「ファーザー」ということで、一条真也の映画館「ファーザー」で紹介したアンソニー・パーキンス主演映画も紹介しましょう。世界中で上演された舞台を映画化したヒューマンドラマで、年老いた父親が認知症を患い、次第に自分自身や家族のことも分からなくなり、記憶や時間が混乱していく様子が描かれています。第93回アカデミー賞において、脚色賞(クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール)、主演男優賞(アンソニー・ホプキンス)の二冠に輝いた作品です。ホプキンスは、史上最高齢受賞で、なんと授賞式にその姿を見せませんでした。認知症の父親の物語ですが、感動のヒューマンドラマというよりは、とてつもなく怖い映画でした。つまり、認知症患者の頭の中の妄想を描いているのです。当然ながら、「選ばれなかったみち」に通じる内容です。

 映画「選ばなかったみち」は、「ケアとは何か」について考えさせてくれました。原題のThe Road Not Taken」にある「Take」は「ふれる」という言葉の「Takana(ゲルマン祖語)」が由来といいます。英語の熟語「take care of」は、「・・・を世話する」「大事にする」という意味です。ここから、「世話」「配慮」「関心」「気遣い」などの意味が出てきます。今では、ケアは「幸福」「倫理」「愛」「善」などの概念と密接に関わる言葉となっています。どうやら、人間存在の根源的なものが、「ケア」に通じていると言えそうです。一条真也の読書館『ケアとは何か』で紹介した村上靖彦氏の著書によれば、人間なら誰でも病やケガ、衰弱や死は避けて通れません。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、わたしたちは「独りでは生きていけない」ことを痛感します。そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みがケアなのです。

「選ばなかったみち」は全体的に暗く、救いのない映画のように思えますが、最後に娘のモーリーがレオを献身的にケアする場面には感銘をおぼえます。結局のところ、レオは幸せな人間であったと思わざるをえません。しかし、そんな彼も執筆のためにモーリーを捨ててギリシャへ向かった過去がありました。彼は父親であることよりも作家であることを「選んだ」わけですが、その後、モーリーのことが忘れられずに戻ってきたことになっています(この映画、事実なのか妄想なのかが判別不可能なのです)。わたし自身、これまで本業の傍ら、多くの本を書いてきました。けっして子育てを放棄したつもりはありませんが、「子どもの頃にもっと遊んであげれば良かったな」とか「本ばかり書かずに、もっと話をしてあげたかったな」とか少しだけ後悔することはあります。

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二人の娘とともに



 でも、おかげさまで、長女とも次女とも良好な関係を保っています。最近も三人で食事しました。東京出張の際に、長女の結婚祝いと次女の就職祝いをダブルでお祝いしたのです。場所は銀座のレストランでした。銀座といえば、どんな高級クラブへ飲みに行くよりも、娘たちと一緒の時間が至福の時です。この4月に次女は社会人に、長女は花嫁になります。もうすぐ人生の新しい旅立ちを迎える娘たちの幸せを願わずにはいられません。わたしは、死ぬまで、彼女たちに「父親としてのケア」を心掛けたいです。