No.632


 9月30日から公開された日本映画「アイ・アムまきもと」を早速、シネプレックス小倉で観ました。一条真也の映画館「おみおくりの作法」で紹介した2013年のイギリス・イタリア合作映画を原作とした作品で、葬儀がテーマです。一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)が協賛しており、わが社もたくさんチケットを買わせていただきました。感想は、原作を改変したシナリオにはいくつかの違和感はおぼえましたが、全体的によく仕上がっていました。日本の事情に合わせ、よくアレンジされていましたね。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『舞妓Haaaann!!!』などの主演・阿部サダヲと水田伸生監督が再び組んだ人間ドラマ。人知れず亡くなった人を埋葬する『おみおくり係』として役所で働く男が、ある老人のおみおくりに身寄りや知人を集めようと奔走する。ウベルト・パゾリーニ監督による『おみおくりの作法』を原作に、『十二人の死にたい子どもたち』などの倉持裕が脚本を担当。共演には『海辺の生と死』などの満島ひかり、『曽根崎心中』などの宇崎竜童のほか、松下洸平、でんでん、宮沢りえ、國村隼らが名を連ねる」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「とある市役所で、人知れず亡くなった人を埋葬する『おみおくり係』として働く牧本壮(阿部サダヲ)。空気が読めず人の話を聞かない彼は、故人を思うがあまり周囲を振り回すこともしばしばだった。そんなある日、おみおくり係の廃止が決定する。孤独に亡くなった老人・蕪木孝一郎(宇崎竜童)の葬儀が最後の仕事となった牧本は、故人の身寄りを探すために友人や知人を訪ね歩き、蕪木の娘・津森塔子(満島ひかり)のもとにたどり着く」
 
「アイ・アムまきもと」が原作とした「おみおくりの作法」は、ウベルト・パゾリーニ監督が読んだガーディアン紙の記事に着想を得て生まれたそうです。たった1人で亡くなった方の葬儀を行う仕事についての記事を読んだパゾリーニ監督はそこに何か深く、普遍的なものを感じたといいます。孤独、死、人と人のつながり・・・・・・そして、ロンドン市内の民生係に同行し、実在の人物、出来事について綿密な取材を重ね、几帳面で誠実な地方公務員ジョン・メイの物語である名作「おみおくりの作法」が誕生しました。このくすっと笑えて、ちょっぴり切ない、心温まる静謐な物語は、 ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門でワールドプレミア上映され、感動を呼び、監督賞含む4賞を受賞、その後は世界の映画祭を席巻しました。

「おみおくりの作法」を観たときに感じたことですが、主人公のジョン・メイが他人と通常のコミュニケーションを取ることのできない変わり者として描かれています。それが「アイ・アムまきもと」では主人公の「空気が読めない」とか「人の話が聞けない」といった性格設定がいっそう強調されていました。この設定は明らかに発達障害やアスペルガー症候群を連想させますが、最初は「そういった普通ではない人しか、他人の葬儀になんか関心を示さない」といった見下したメッセージではないかと受け取って不愉快でしたが、ふと「いや、そういう特性の人だからこそ、人として最も大切なことが見えるというメッセージなのかもしれない」と思い直しました。

「映画.com」より
 
 
 
 阿部サダヲ演じる牧本は、人の話を聞いていないとわかったとき、両手を顔の前でバタバタと前後に振って、「牧本、いま、こうなってました!」と言うのですが、こうなっていたというのは、一番大切なことしか考えていなかったということです。そして、その一番大切なこととは「亡くなった人をどう弔うか」ということでした。亡くなった故人を弔うことを「葬礼」といいますが、葬礼こそは「礼」の基本です。古代中国の孔子も、葬礼をもとにして「礼」を重んじる儒教の体系を築き上げました。その後、さまざまな礼儀作法が生まれていきました。ちなみに、牧本は空気は読めませんが、非常に礼儀正しい人物で、初対面の相手に会ったときに挨拶や敬語の使い方は見事でした。映画の中で一箇所だけ、牧本が上司の部屋に忍び込んでとんでも行為におよぶシーンがありましたが、あれは完全に不要でした。わたしを含む多くの観客を不快にし、牧本の礼を重んじるキャラクターを壊す脚本の大失敗だと思います。監督も、あんなシーンを採用してはいけませんね。
 
 牧本は、孤独死した人々の人生に想いを馳せます。彼らが孤独死した部屋を訪れ、残された写真などから彼らの人生を辿ります。「おみおくりの作法」を観たときと同様に、写真こそは死者の生き様を知る上での唯一無二のメディアであることを再認識しました。もともと、写真とは「死者と再会したい」という人間の想いが生んだメディアであると思います。ちなみに、すべての人物写真は遺影です。たとえ生きている人を撮影した写真であっても、それは将来必ず、遺影となります。なぜなら、死なない人はいないからです。写真とは徹底して「死」と結びついたメディアであり、葬儀の際に遺影を飾るのは当然だと言えます。

「映画.com」より

 
 
 牧本は、写真をはじめとした僅かな手がかりをもとに、死者の身内や知人を訪ねます。そして、「ぜひ葬儀に参列してあげてほしい」と頼み込むのです。孤独死した蕪木老人が生前は喧嘩っ早かったという情報を得た牧本は、警察に逮捕歴と面会歴を調べてほしいと依頼します。そのとき、松下洸平演じる警察官の神代が「警察の真似をしているんじゃねえよ!」と言い放つのですが、彼の仕事は警察というよりも、基本的に探偵なのだなと気づきます。探偵は、依頼人のこれまでの人生や、死体が生きていた頃の様子などについて推理を働かせます。牧本の仕事もまったく同じでした。探偵といえば、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』に登場する名探偵が思い浮かびます。
 
 わたしは「アイ・アムまきもと」を観ながら、一条真也の映画館「シャーロック・ホームズ」で紹介した映画を連想しました。シャーロック・ホームズには独特の推論形式があります。ホームズは、やってきたクライアントの話を聞く前に、その人物の職業や来歴をぴたりと言い当てます。この映画にも、「あなたは家庭教師をしていて、教え子は8歳の男の子ですね」と的中させるシーンが出てきます。これは、どういう服を着ているかとか、その服のどこにインクの染みがあり、顔のどこに傷がついているかとか、具体的なデータを読んでいるわけです。そのような細部の情報を組み合わせて、ホームズはその人のパーソナル・ヒストリーを想像の中で構成しているのです。
 
 思想家の内田樹氏は、著書『邪悪なものの鎮め方』(文春文庫)で、探偵の仕事について鋭く分析し、「探偵は一見して簡単に見える事件が、被害者と容疑者を長い宿命的な絆で結びつけていた複雑な事件であったことを明らかにする。読者たちはその鮮やかな推理からある種のカタルシスを感じる。それは探偵がそこで死んだ人が、どのようにしてこの場に至ったのかについて、長い物語を辛抱づよく語ってくれるからである。その人がこれまでどんな人生を送ってきたのか、どのような経歴を重ねてきたのか、どのような事情から、他ならぬこの場で、他ならぬこの人物と遭遇することになったのか。それを解き明かしていく作業が推理小説のクライマックスになるわけだが、これはほとんど葬送儀礼と変わらない」と指摘します。
 
「探偵の仕事は葬送儀礼と同じ」という考えには、つねに葬儀の意味を考え続けているわたしも膝を打ちました。内田氏は、さらに「死者について、その死者がなぜこの死にいたったのかということを細大漏らさず物語として再構築する。それが喪の儀礼において服喪者に求められる仕事である。私たちが古典的なタイプの殺人事件と名探偵による推理を繰り返し読んで倦まないのは、そのようにして事件が解決されるプロセスそのものが同時に死者に対する喪の儀礼として機能していることを直感しているからなのである」と書いています。
 
 わたしは、この内田氏の文章を読んだとき、「行旅死亡人」と呼ばれる人々のことを思い浮かべました。氏名も職業も住所もわからない行き倒れの死者たちです。いわゆる「無縁死」で亡くなる人々です。そんな死者が、日本に年間3万2000人もいるといいます。明日、自宅の近くの路上にそんな死者が倒れている可能性がないとは言えません。その人が何者で、どのような人生を歩んできたのか。それを、みんなで推理しなければならないのが「無縁社会」です。わたしたちは、「一億総シャーロック・ホームズ」の時代を生きているのかもしれません。そして、「おみおくりの作法」や「アイアム・まきもと」は、「探偵の仕事は葬送儀礼と同じ」という真実を見事に示した映画と言えるでしょう。

葬式は必要!』(双葉新書)
 
 
 
 誰も参列者のいない葬儀のことを「孤独葬」といいます。わたしは日々、いろんな葬儀に立ち会いますが、中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀が存在するのです。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?
隣人の時代』(三五館)
 
 
 
 これは、まさに「実存的不安」の問題にほかなりません。つまり、その人の葬儀に誰も来ないということは、その人が最初から存在しなかったことになるという不安です。逆に、葬儀に多くの人々が参列してくれるということは、亡くなった人が「確かに、この世に存在しましたよ」と確認する場となるわけです。「となりびと」は「おくりびと」でもあります。冠婚葬祭互助会であるわが社では、孤独な高齢者の方々を中心に、1人でも多くの「となりびと」を紹介する「隣人祭り」を開催するお手伝いをしてきました。コロナ禍の前は、北九州市だけで年間700回開催していました。

「映画.com」より
 
 
 
 おみおくり係最後の「おみおくり」となったのは、宇崎竜童演じる蕪木の葬儀でした。このシーンでは、たとえ亡くなった時は1人でも、葬儀にたくさんの人にお見送りされることは故人にとって嬉しく幸せなことだということがしっかりと伝わり、家族葬や直葬など小規模化が進む日本に住む日本人たちに「本当にそれでいいのか?」と改めて葬儀の大切さを伝えてくれる名場面でした。また、グリーフケアの視点からもよく描けていたと思います。それぞれ悲嘆を抱える人々が葬儀に参列することによって「こころ」の繋がりを感じ、作中での故人について語る部分からのケアが行われていることを感じました。

「映画.com」より
 
 
 
 牧本は、孤独死した故人の葬儀にたった1人で参列し続けました。彼は仕事の範疇を超えて、多くの死者たちを見送ります。どんな社会的弱者であっても、生きている者が相手なら、いつかは感謝の言葉を与えられるかもしれません。社会的に大きな称賛を浴びる可能性だってあります。でも、孤独死した死者に尽くす生き方には、何の見返りもありません。これこそ真の「隠徳」というものでしょう。そして、映画のラストで牧本の陰徳は無駄ではなかったことが示されるのでした。しかし、「おみおくりの作法」のラストを観たときも感じたのですが、最後は牧本本人の姿があった方が良かったと思いました。

「映画.com」より
 
 
 
 

 あと、墓地で蕪木の関係者が集まる姿を見た神代が、その人々に牧本の死を知らせてあげなかったのは理解できませんでした。彼は、その人々の傍らを牧本の遺影を持って通り過ぎるだけなのです。思うのですが、神代が牧本がやってきた行為の素晴らしさを感じ取り、警察官をやめて「おみおくり係」を再開させるといった少年漫画的な熱い展開などがあっても良かったかもしれません。せっかく原作にはない神代というキャラクターを登場させたのですから、彼にもっと大きな役目を与えるでもよかったでしょう。牧本の死者への想いを神代が継承して「おみおくり」を行うようになれば、牧本の想いは続いていったのではないでしょうか。

葬祭業を「天使の仕事」と言われた故丹波哲郎さんと

 
 
 
 わたしは、「アイ・アムまきもと」の感動的なラストを観ながら、かつて丹波哲郎さんと交わした会話を思い出しました。 一条真也の映画館「丹波哲郎の大霊界」に書いたように、わたしはかつて「霊界の宣伝マン」と呼ばれた丹波さんと親交がありました。今からもう30年も前のことですが、拙著『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)を読まれた丹波さんから連絡をいただき、新宿の中華料理店で会食したことがありました。そのとき、わたしは葬儀という仕事の意味について丹波さんに問うたのです。わたしは「人を見送るお世話をした人は良い世界へ行けるように思うのですが、いかがでしょうか?」と申し上げたところ、丹波さんは「その通り。人を素晴らしい世界へ送ってあげるというのは天使の仕事なんだよ。これはもう、神から使命を与えられた最高の仕事ですよ!」と言って下さったのです。

故丹波哲郎さんの葬儀会場前で
 
 
 
 わたしは、丹波さんの言葉を聞いて涙が出るほど感激し、葬祭業という仕事に心からの誇りを持つことができました。なつかしい思い出であり、一生忘れられない思い出です。丹波哲郎さんは、2006年に84歳でお亡くなりになられました。数多くの映画やテレビドラマに出演した大俳優であり、死後の世界の真相を説く「霊界の宣伝マン」でした。霊界についての本を60冊以上出版し、映画まで製作して空前の霊界ブームを巻き起こしました。その人生を通じて、「人は死んだらゴミになる」という唯物論と闘い続けられました。

永遠葬――想いは続く』(現代書林)
 
 
 
 そして、映画「アイ・アムまきもと」の最大のテーマは「葬儀とはいったい誰のものなのか」という問いです。死者のためか、残された者のためか。「おみおくりの作法」で、ジョン・メイの上司は「死者の想いなどというものはないのだから、葬儀は残されたものが悲しみを癒すためのもの」と断言します。「アイ・アムまきもと」でも、牧本の上司は「人は死んだら、それで終わり。何も残らないの!」と言い放ちます。わたしは、多くの著書で述べてきたように、葬儀とは死者のためのものであり、同時に残された愛する人を亡くした人のためのものであると思います。そして、拙著『永遠葬』(現代書林)のサブタイトルのように、故人の「想いは続く」のです!
 
「アイ・アムまきもと」が公開された30日の3日前、つまり27日、安倍元首相の国葬が日本武道館で行われました。参列者は1分間の黙禱を捧げました。この1分間の黙祷の時間でさえも、日本武道館の外では「黙祷中止!」の声を上げ、鳴り物で音を出し続けて抗議するグループもありました。いろんな意見があってもいいとは思いますが、弔意を表す黙祷や献花を邪魔するような行為があったことは非常に残念でした。彼らが日本人だとしたら、同じ日本人として情けなく感じました。これでは、ブログ「炎上の国のピエロ」で紹介した「ごぼうの党」の党首と同じ非礼行為を働いたことになります。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)
 
 
 
 誰でも悲しみを表す権利は尊重されるべきであり、それを妨害したり、弾圧するような行為は絶対に許されません。わたしには『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館、サンガ文庫)という著書がありますが、その中で、死者を弔う行為は人類の存在基盤であると訴えました。「礼欲」という人間の本能の発露でもある葬儀は、政治・経済・哲学・芸術・宗教など、すべてを超越します。会場の前では共産党の志位委員長や社民党の福島党首が国葬反対の演説をしたそうですが、葬儀を否定できるイデオロギーなど存在しません。
 
 それにしても、1人の人間の葬儀をめぐって、これほど世論が二分したことが今までにあったでしょうか? 島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)と小生の『葬式は必要!』(双葉新書)の2冊が2010年に出て、葬儀の要・不要論争が起こりましたが、それ以来の、政治的問題としてはより大きなスケールで「国葬は、要らない」「国葬は必要!」論争が起こったのです。国葬といえども、1人の人間の死を悼むセレモニーとしての葬儀に変わりはありません。小さなお葬式、家族葬、家庭葬、0葬などなど、葬儀のあり方が問われている現在の日本で、国葬をめぐる論争が起こったことは、国民が「葬儀とは何か?」「死者を弔うことの意味は?」という最も本質的な問題について考える良い機会であったと思います。

葬式に迷う日本人』(三五館)

 

「おみおくりの作法」の舞台をイギリスから日本に置き換えた「アイ・アムまきもと」ですが、日本ならではの葬送事情が見られました。まず、ヨーロッパのようなキリスト教文化圏ではないために、死者は土葬ではなく火葬されます。火葬の後には遺骨が残されますが、身寄りのない故人、身寄りがあっても引き取り手のいない故人の場合は、遺骨の行き場がありません。それで牧本は大量の遺骨が入った骨壺を自分の職場に持って帰るわけですが、現在の日本には遺骨を引き取ってもらえない人が多いことを思うと、たまらない気持ちになりました。島田裕巳氏は遺骨も遺灰も火葬場に捨てていくという「0葬」を提唱していますが、それについて、わたしは『葬式に迷う日本人』(三五館)で島田氏とさまざまな意見を交換しました。島田氏の新著は一条真也の読書館『葬式消滅』で紹介した本ですが、わたしはもうすぐ反論書の『葬式復活』を上梓する予定です。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
 
 
 
 最後に、映画「アイ・アムまきもと」は観客に「葬儀とは何か?」「死者を弔うことの意味は?」という問いを突き付ける映画でした。冠婚葬祭業に従事する方々はもちろん、「死者を弔う」ことの意味を見失いつつあるすべての日本人に観てほしい映画です。「おみおくりの作法」は拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げましたが、「アイ・アムまきもと」は次回作『心ゆたかな映画』で取り上げる予定です。「アイ・アムまきもと」のページだけを空白にして印刷所に待っていただいています。10月末の刊行予定です。どうぞ、お楽しみに!