No.698
4月7日は話題の新作映画がいくつも公開されましたが、わたしは「ノック 終末の訪問者」をシネプレックス小倉で観ました。うーん、M・ナイト・シャマラン監督の作品は処女作「シックス・センス」以外は駄作が多いのは骨の髄まで知っていましたが、今回は特につまらなかったですね。これまで観た全映画の中でも最低レベルでした!
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ポール・トレンブレイによる小説『THE CABIN AT THE END OF THE WORLD』が原作のスリラー。山小屋で休暇を楽しんでいた一家が、家族の犠牲か世界の終えんかの選択を突きつけられる。監督などを務めるのは『シックス・センス』などのM・ナイト・シャマラン。『アーミー・オブ・ザ・デッド』などのデイヴ・バウティスタのほか、ジョナサン・グロフ、ベン・オルドリッジ、ニキ・アムカ=バード、ルパート・グリントらがキャストに名を連ねる」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「幼い女の子と両親は、人里離れた森の中にある山小屋に休日を過ごすためにやって来る。そこへ武器を手にした見知らぬ男女4人が突然現れ、ドアや窓を破って侵入。謎の人物たちに捕らえられた家族は、自分たちの選択次第で世界は滅びると告げられ、家族の犠牲か世界の終わりかという究極の選択を迫られる」
電波の届かない山奥のコテージに避暑に訪れたゲイカップルと中国人の養女の3人家族。もうこれだけでポリコレ感がプンプンして、「シャマラン。おまえもか!」と思いましたが、そこに謎の来訪者が4名訪れます。彼らは、人類を救うために、「3人家族のうち、誰かを犠牲に差し出せ!」と迫るのでした。アメリカでは珍しくないキリスト教系終末思想のカルト宗教を連想させます。デイブ・バウティスタが4人のリーダーなのですが、194センチで顔以外はタトゥーだらけの大男(教師だっていうが本当か?)が不気味きわまりないです。また、髭面の粗暴なレイシストの男がいるのですが、これがなんと、「ハリー・ポッター」でロンを演じたルパート・グリントでした。赤毛にロンの面影がありましたが、あっという間にスクリーンから消えました。
訪問者であるカルト4人組は、やたら「人類が裁かれる」と訴えます。世界中で天変地異が発生、多くの人間が犠牲になる展開、落雷と火災、感染症で子供が死亡、飛行機は次々墜落する終末世界がTVニュースのみで描かれます。巨大地震と津波のシーンがあるので、東日本大震災の経験者は注意が必要でしょう。この4人の訪問者は、明らかに「黙示録の四騎士」のメタファーとなっていました。『聖書』の「ヨハネ黙示録」の四騎士とは、白い馬に乗り、手には弓、頭に冠を被り、勝利(支配)する第一の騎士、赤い馬に乗り、手に大きな剣、地上の人間に戦争を起こさせる第二の騎士、黒い馬に乗り、手には食料を制限する天秤を持ち地上に飢饉をもたらす第三の騎士、そして、青白い馬に乗る「死」で黄泉を連れて、疫病や野獣を用いて地上の人間を死に至らしめる第四の騎士です。
「ノック 終末の訪問者」という映画がスリラー映画として決定的に失敗しているのは、訪問者たちに3人家族を殺す意思がないことを早々に明かしていることです。これによって、一気に観客の緊張感が失われました。キリスト教の終末思想と自己犠牲による救済を描いた物語なのですが、こういった要素は単なるホラー映画やスリラー映画には余計な不純物となります。せっかくデイヴ・バウティスタが演じる不気味な巨人が登場するわけですから、変な不純物を混ぜずに、アブナイ奴らが侵入してきた恐怖のみを描き続けたら、「ノック 終末の訪問者」はきっと物凄く怖いスリラー映画になったと思います。かえすがえずも残念でした。M・ナイトシャマラン監督はTVの通販番組の司会者としてカメオ出演していましたが、わたしは「そんなことしてる場合じゃないぞ!」と思ってしまいました。
異様な訪問者の恐怖を描いた作品では、ミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」(2001年)が思い出されます。穏やかな夏の午後。バカンスのため湖のほとりの別荘へと向かうショーバー一家。車に乗っているのはゲオルグと妻アナ、息子のショルシ、それに愛犬のロルフィー。別荘に着いた一家は明日のボート・セーリングの準備を始めます。そこへ、ペーターと名乗る見知らぬ若者がやって来ます。はじめ礼儀正しい態度を見せていたペーターでしたが、もう一人パウルが姿を現す頃にはその態度は豹変し横柄で不愉快なものとなっていきました。やがて、2人はゲオルグの膝をゴルフクラブで打ち砕くと、突然一家の皆殺しを宣言、一家はパウルとペーターによる"ファニーゲーム"の参加者にされてしまうのでした。「ファニーゲーム」は物凄く怖い映画でしたが、「ノック 終末の訪問者」はまことに残念でした。
「オールド」はM・ナイト・シャマラン監督の最新作です。もともと、わたしはシャマランの「シックス・センス」(1999年)が大好きで、映画館での鑑賞のみならず、DVDでも何度も観ました。ブルース・ウィリス演じる精神科医のマルコムは、かつて担当していた患者の凶弾に倒れます。リハビリを果たした彼は、複雑な症状を抱えたコールという少年の治療に取り掛かるのですが、コールには死者を見る能力としての「シックス・センス(第六感)が備わっているのでした。マルコムはコールを治療しながら、自身の心も癒されていくのを感じますが、最後には予想もつかない真実が待ち受けていました。サスペンス・スリラー映画の最高傑作であるのみならず、コールの死者への接し方にはオカルトを超えた仏教的な世界観さえ感じました。この映画を観たとき、わたしは「シャマランは天才だ!」と思いました。
シャマランが脚本・監督を務めた「シックス・センス」が商業的にも大成功で、アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞にノミネートされました。その後、「アンブレイカブル」(2000年)、「サイン」(2002年)も興行的には成功し、「シックス・センス」ほどではないにしろ、それなりに面白かったです。しかし、「ヴィレッジ」(2004年)あたりから様子がおかしくなってきて、「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006年)では最悪の事態が待っていました。この映画は興行的にも大失敗で、製作費も回収できませんでした。また評論家にも酷評され、さらにシャマランは第27回ゴールデンラズベリー賞で最低監督賞と最低助演男優賞を受賞したのです。
「ハプニング」(2008年)は興行的に成功しましたが、批評家には不評。続く「エアベンダー」(2010年)では、シャマランはこれまでのオリジナル脚本ではなく脚色を担当しました。その結果、興行収入は全世界で3億ドルを超えましたが、批評家支持率は過去最低の6%を記録し、第31回ゴールデンラズベリー賞では最低作品賞、最低監督賞、最低脚本賞を含む5部門を受賞しています。そして、ジェイデン・スミスとウィル・スミス主演の「アフター・アース」(2013年)では初めてデジタルでの映画撮影を行いました。人類が放棄して1000年が経過した地球を舞台に、屈強な兵士とその息子が決死のサバイバルを展開する物語です。さらに「ヴィジット」(2016年)を発表します。休暇を利用して祖父母の待つペンシルバニア州メイソンビルへと出発した姉弟の恐怖体験を描きました。ホラー映画として、なかなか好評でした。しかし、一条真也の映画館「スプリット」で紹介した2017年の映画はどうしようもない駄作でしたね。
わたしはシャマランの映画をほとんど観ていますが、毎回、奇妙な出来事がノンストップで起きて、最後はその謎が解き明かされるのですが、「?」というオチが少なくありません。彼の作品には、必ず「どんでん返し」が用意されています。「シックス・センス」のときはそれが大成功し、映画史に残る印象的なラストシーンが生まれました。しかし、その後のシャマランは「シックス・センス」の成功体験の呪縛にかかったようで、どうも「ドンデン返しを用意しなければ!」という強迫観念にとらわれているような気がします。それがまた、スベることが多いのです。「サイン」や「ヴィレッジ」のどんでん返しも賛否両論でしたが、わたしにはギリギリ許せるレベルでした。しかし、「スプリット」のドンデン返しはいただけません。「それが、どうした?」という感じで白けきってしまい、まったく驚きもしませんでしたね。
一条真也の映画館「オールド」で紹介した2021年の映画にもシャマラン流のドンデン返しが用意されています。正直言って、「スプリット」に比べればまだマシかもしれませんが、「なるほど、そうだったのか!」と納得できるようなラストとは言い難かったです。この映画でリゾートホテルの客室にチェックインしたとき、ガエル・ガルシア演じる一家の父親が、そのホテルを所有しているのが某製薬会社であることに気づくシーンがあります。その後の一連の奇妙な出来事はそのことと深く関わっていたのです。製薬会社といえば、コロナ禍のまっ真っ最中だった頃、ワクチンを製造しているモデルナやファイザーやアストラゼネカといった製薬会社の名前を聞かない日がありませんでしたが、それらの会社が邪悪な陰謀に関わっていたとしたら、これほど怖いことはありませんね。
というわけで、シャマラン監督の最新作「ノック 終末の訪問者」は信じられないほどつまらないスリラー映画でしたが、ある意味で、シャマラン映画の王道を行く作品だったのかもしれません。つくづく、「あの『シックス・センス』の完成度の高さは何だったんだ!?」と思ってしまいます。現在でもシャマラン監督が新作を作り続けることができて、それが全世界で公開されるというのは「シックス・センス」の貯金のおかげという見方もできますが、別の見方もあることに気づきました。それは、シャマラン作品のオチがズッコケることはもはや「芸」として確立されており、観客もそれを期待しているのではないかということ。わたしだって、「次はどこまで駄作にしてくれるのか?」といった変な興味を抱いていることを正直に告白します。能天気にカメオ出演したシャマランの余裕に満ちた顔を見ると、その推測が当たっているような気がします。