No.722


 6月9日、今治から岡山を経て小倉に戻ってきました。 その夜、この日から公開された「リトル・マーメイド」をシネプレックス小倉で観ました。一条真也の映画館「美女と野獣」「アラジン」で紹介した映画に続く、ディズニー・アニメの実写版です。今回は、上映時間の関係で日本語吹き替え版での鑑賞でした。公開前から物議を醸した作品ですが、音楽と映像が素晴らしかったです!
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ディズニーのアニメーション『リトル・マーメイド』を実写化したミュージカル。美しい声と引き換えに3日間だけ人間の姿になる海の王女を描く。監督を手掛けるのは『シカゴ』『NINE』などのロブ・マーシャル。ハリー・ベイリーをはじめ、『ムクドリ』などのメリッサ・マッカーシー、ジョナ・ハウアー=キング、ハビエル・バルデムらが出演している」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「おきてを破り人間界に近づいた海の王女アリエル(ハリー・ベイリー)は、嵐に遭った王子エリック(ジョナ・ハウアー=キング)を救う。彼女は王子との出会いにより、人間の世界への憧れを抑えきれなくなり、海の魔女アースラ(メリッサ・マッカーシー)と取り引きをする。それは3日間だけ人間の姿になる代わりに、アリエルの美しい声をアースラに差し出すというものだった。
 
 ちょうど6月9日の夜、テレビで「美女と野獣」の実写版が放送されていましたが、ディズニーアニメの実写化としては「美女と野獣」も「アラジン」も大成功だったと言えます。両作品とも拙著『心ゆたかな映画』(現代書林)で取り上げました。両作品とも、アニメそのままの数々の名曲に魅了されました。そして、今回の「リトル・マーメイド」実写版も「アンダー・ザ・シー」をはじめ、多くの名曲たちを楽しむことができます。「アンダー・ザ・シー」の歌詞は、人間の世界はいろいろと窮屈だし苦労が絶えないけれど、海の底は自由で気ままな世界だというメッセージです。何かに似ているなと思ったら、「ゲゲゲの鬼太郎」のアニメ主題歌で「楽しいな、楽しいな、おばけにゃ学校も試験も何にもない♪」に似ていますね。(笑)
 
 わたしは吹き替え版を観ましたが、オリジナルで「パート・オブ・ユア・ワールド」を歌い上げるハリー・ベイリーの歌唱力と表情は素晴らしいです。R&Bシンガーである彼女は4年前、この映画のオーディションを受けました。8歳から作曲し、16歳でビヨンセの「フォーメーション・ワールド・ツアー」のヨーロッパ公演でオープニング・アクトを務めた彼女は、アメリカで飲酒できる年齢に達する前に5回もグラミー賞にノミネートされています。それほどの歌手としての実力を持っているにもかかわらず、ベイリーは自分がアリエルを演じられるとは思っていなかったそうで、「私が思い描いていたアリエルは、みんなが大好きでよく知っている、色白の肌に真っ赤な髪をしていて、私とは似ていませんでした」と語っています。
 
 実写版「リトル・マーメイド」の主人公アリエルをアフリカン・アメリカンのベイリーが演じるキャスティングが最初に発表されたとき、大きな議論が巻き起こりました。実写版シリーズにおける初の黒人プリンセスに歓喜の声が上がる一方で、1989年のアニメ版「リトル・マーメイド」のファンからは「アリエルは白人」「子供時代の思い出を台無しにしないで」と猛烈な反発が起きました。#NotMyAriel(私のアリエルじゃない)のハッシュタグまで出回りましたが、多くの人はアフリカン・アメリカンのマーメイドが受け入れられなかったようです。過剰なポリコレやダイバーシティ描写が映画そのものの作品性を損なうことを普段から憂いていたわたしも、「おいおい、また多様性かい! アニメのイメージを踏襲する白人女性を起用した方が良かったのに!」と思っていました。
 
 しかし、よく考えたら、アニメ版のアリエルの肌もどちらかといえば浅黒く、完全な白人という感じではありません。「白雪姫」や「シンデレラ」を黒人女性が演じることには強い違和感がありますが、もともと人間でない人魚を演じるのに人種は関係ないのかもしれません。1989年のアニメ版も「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれるほど記念碑的な作品でしたが、原作であるアンデルセンの「人魚姫」の世界観を大きく破壊する作品となりました。というのも、原作ではアリエルは王子の幸せのために自らは海の泡となってしまいます。つまり、死んで天国に行くのです。しかし、アニメ版ではなんとアリエルは自分の居場所を見つけ、愛する人と幸せな人生を手に入れるのです。アンハッピーエンドをハッピーエンドに変えるという、最大級の改変がなされたのです。
 
 1837年、童話作家になったばかりのアンデルセンは、たて続けに2冊の童話集を刊行しますが、その評価は今ひとつでした。児童文学そのものへの認識が低かったという時代背景もあったでしょうが、アンデルセンは非常に落胆し、1年ほどは童話を書かない日々を送りました。でも、そのうち、彼の心の中には新しい童話の構想が湧いてきました。それは、いくら押さえようとしても押さえられないほど心の底から湧きあがってきたため、アンデルセンはその話をついに書き上げました。この作品こそ「人魚姫」です。「人魚姫」の成功によって、アンデルセンはもう迷いませんでした。その後は、自信をもって童話に取り組み、毎年のように童話集を出版。世間の人々は、新しい彼の童話を心待ちにするようになりました。「人魚姫」は、アンデルセンが童話を書き続けるきっかけになったのです。
 
「人魚姫」のストーリーはディズニーが「リトル・マーメイド」にも反映されていますが、人魚の王様には6人の美しい姫がいました。末っ子の姫は15歳の誕生日に海の上に昇ってゆきますが、そこで船の上にいた人間の王子を目にします。その後、人魚姫は嵐のために難破した船から救い出した王子に恋をしてしまいます。王子と一緒にいたい一心で人間になることを望んだ人魚姫は、海の魔女の家を訪れます。そこで、自分の声と引きかえに人魚の尾びれを人間の二本足に変える飲み薬を貰います。魔女は、「もし王子が他の娘と結婚したとき、おまえは海の泡となって消えてしまう」と人魚姫に警告します。さらには、人間の足で歩くたびに、人魚姫はナイフでえぐられるような痛みを感じるという運命をも受け容れます。
 
 こうして人魚姫は王子と一緒の御殿で暮らせるようにはなりましたが、声を失って話せないため、王子は人魚姫が命の恩人であることに気づきません。それどころか、隣国の姫を命の恩人と勘違いしてしまい、王子は彼女と結婚することになります。絶望した人魚姫の前に姉たちがあらわれ、髪と引きかえに魔女に貰った短剣を人魚姫に差し出します。そして、この短剣で王子を刺せば、流れた血によって再び人魚の姿に戻れることを伝えます。しかし、愛する王子を殺すことなど到底できない人魚姫は、王子の結婚を祝福し、自らは海に身を投げて泡に姿を変えます。そして、人魚姫は空気の精となって天国へ昇っていったのでした。このラストシーンには、伏線があります。人魚姫が人間の世界への強い憧れを抱きつつも、まだ海の魔法使いの家を訪れていなかった頃、年をとった祖母にたずねます。
 
 以下は、アンデルセンの原作から引用します。
「人間というものは、おぼれて死ななければ、いつまでも生きていられるんでしょうか?海の底のあたしたちのように、死ぬことはないんですか?」と、人魚のお姫さまはたずねました。「いいえ、おまえ、人間だって死にますとも」と、おばあさまは言いました。
「それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓をつくってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生れかわるということもない。わたしたちは、あのみどり色をした、アシに似ているんだよ。ほら、アシは、一度切りとられれば、もう二度とみどりの葉を出すことができないだろう。ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮かびあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても前から知ることができない世界なんだがね」(矢崎源九郎訳)

 
 おばあさまの説明を聞いた人魚姫は、どうして人魚は不死の魂を持つことができないのかと思います。そして、たったの1日でもいいから人間になれて天国に行けるのなら、人魚としての何百年をすべて失ってもかまわないとさえ思いつめるのです。おばあさまは、そんな人魚姫を「そんなことを考えちゃいけないよ」とたしなめ、「わたしたちは、あの上の世界の人間よりも、ずっとしあわせなんだからね」と説得します。それでも、人魚姫は人間の魂を持ちたくて仕方がありません。結局、人魚姫は人間になりたいのです。これは心理学における「自己実現」の問題にも関わっています。深層心理学者の矢吹省吾氏は、著書『どうしてこんなに心が痛い?』(平凡社)において、「深い海底の人魚の世界は遊びの世界です。大人の労働とも、学校生徒の勉強とも縁のない世界です。濃密な母性愛に包まれて遊び戯れるばかりの幼児の世界です。誰もがかつて幼かったころそこに住み、そこから旅立った、存在の故郷です」と述べています。
 
 矢吹氏は、「人魚とは何か?」という問いに対して、人間的な「幼稚さ」や「未熟さ」であると答えています。人魚とは文字通り半人前の存在です。その身体の半分が魚なら、当然海の底にでも住みつくしかありません。海底を幼児の世界のシンボルと見るならば、人魚はそこに潜む「幼さ」「未熟さ」と解釈できます。つまり、人魚姫は人間になることによって自己実現を果たし、幼児から大人に成長したかったのかもしれません。また、「大人になる」ということを単に心の問題としてだけではなく、体の問題、性の問題としてとらえることもできます。15歳の人魚姫はまさに「思春期を迎えた処女」であり、人間に変身した後の彼女は「処女喪失後の女性」を表わしているという見方があります。人魚の下半身は尾びれによって両足が閉じていますが、人間の下半身は両足を開くことができます。「二本足」とは「処女喪失」を暗示しているのです。
 
 しかし、人魚姫は「人間」になることだけに憧れたのではなく、「天国」に憧れたのだという見方もできます。人魚のほうが長生きできるのに、どうして人間となって天国に行きたかったのでしょうか。そこには、神による「救い」があるからです。神によって救われた魂は永遠の生を獲得することができるからです。「救い」こそは「幸福」を超越した恵みであり、キリスト教の根幹となる思想でもあります。おばあさまの説明から、人間とはキリスト教徒であり、人魚とは異教徒であることがわかります。いくら長生きして海の底で楽しく遊んで暮らしていても、そんな「幸福」など、神による永遠の「救い」に比べれば刹那の「快楽」にすぎないのです。本当の「幸福」とは「救い」によって初めて訪れるというのがキリスト教的幸福感です。
 
 人魚姫は「人魚のほうが人間よりも恵まれている」というおばあさまの言葉を理解してはいましたが、それでも「救い」のない「快楽」の虚しさを感じてしまったのです。だから、最後に救われて天国に行くために人間になりたかったのではないでしょうか。このように「人魚姫」には、「救い」や「天国」といったキリスト教の重大なテーマが出てきます。これらのテーマは後の「マッチ売りの少女」でさらに深く描かれていくのでした。わたしは、さまざまなテーマを含みながらも、「人魚姫」の最大のテーマとは、やはり「愛」だと思います。自分の命など犠牲にしても惜しくないほど相手を想う究極の「愛」を描いていると思います。「愛」の本質を描いているという点において、「人魚姫」を超える物語はなかなかないと、わたしは思います。なぜか。それは、「人魚姫」は、「愛」とは「痛み」をともなうものであることを明らかにしているからです。人を心の底から真剣に愛すること、それは決して「楽しさ」や「嬉しさ」などの感情ではなく、「痛み」や「切なさ」といった感情に結びついているのです。
 
 作家の角田光代氏は、少女時代に愛読した「人魚姫」を大人になってから読み返してみて、その「痛み」の感覚がひどくさりげなく描かれていることに驚いたそうです。誰かを愛すること、犠牲を払うこと、自立すること、孤独を知ること、傷つくこと、誰かを憎むことや守ること、そして自分を憎むことと守ること。それらの、人が年齢を重ねていくことで否応なく知り、どうしても引き受けなくてはならない多くのことが「人魚姫」に描かれていて、驚いたというのです。角田氏は、『別冊太陽 童話の王様アンデルセン』所収の「痛みの感覚としての窓」に「こどもだった私にそれらひとつひとつが理解できるはずもなく、ただ、物語の輪郭をなぞり、魔女に舌を抜かれる場面や、ナイフで刺すような痛みをこらえて彼女が踊る場面を思い描いては、直接こちらに向かってくるような痛みに顔をしかめ、最終的に海の泡になる彼女をかわいそうだと思っていた。すべては遠い場所にいる架空の人魚のお話なんだと思っていた」と書いています。しかし、大人になるにつれ、人はみな愛することや孤独を知っていきます。
 
「人魚姫」の悲しい結末には、アンデルセンの人生も反映しているといわれます。彼は185センチの長身でしたが、鼻が非常に大きく、ある意味で異様な風貌であり、初めて会った人はみな驚いたといいます。アンデルセン自身も自分の容姿には強いコンプレックスを抱いていたようですが、そのためか失恋を繰り返し、生涯を独身はもちろん、童貞のままで終えたという説もあります。そんなアンデルセンの深い孤独が「人魚姫」には投影されているというのです。たしかにそういった側面もあるかもしれませんが、わたしはさらに深く宗教の問題を見た場合、「人魚姫」という作品は興味深いと思えてなりません。キリスト教において「愛」は無上の価値ですが、仏教においては「愛別離苦」という言葉もあるように苦悩のもとであると考えられました。「人魚姫」において「愛」と「痛み」をセットとしたことは、アンデルセンが宗教の枠を超えて普遍思想を求めるファンタジー作家であることを示しているようにも思えます。

涙は世界で一番小さな海』(三五館)
 
 
 
 実写版「リトル・マーメイド」の冒頭には、「人魚は涙を流せない。だから、よけいにつらかった」というアンデルセンの「人魚姫」の言葉が引用されています。他にも、アンデルセンは「涙」についての有名な言葉を残しています。それは「涙は世界でいちばん小さな海」というものです。わたしには、その名も『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という著書があります。同書で、わたしは、ファンタジー作品を愛読していると述べました。中でも、アンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリの4人の作品には、非常に普遍性の高いメッセージがあふれていると考えています。いわば、「人類の普遍思想」のようなものが彼らのファンタジー作品には流れているように思います。心理学者のユングは、すべての人類の心の底には、共通の「集合的無意識」が流れていると主張しました。彼ら4人の作家の魂はおそらく人類の集合的無意識とアクセスしていたのだと思います。
 
 ドイツ語の「メルヘン」の語源には「小さな海」という意味があるそうです。大海原から取り出された一滴でありながら、それ自体が小さな海を内包しているのです。人類の歴史は、いわゆる「四大文明」からはじまりました。その4つの巨大文明は、いずれも大河から生まれました。そして、大事なことは河は必ず海に流れ込むということです。さらに大事なことは、地球上の海は最終的にすべてつながっているということ。チグリス・ユーフラテス河も、ナイル河も、インダス河も、黄河も、いずれは大海に流れ出ます。人類も、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは河の流れとなって大海で合流するのではないでしょうか。人類には、心の大西洋や、心の太平洋があるのではないでしょうか。そして、その大西洋や太平洋の水も究極はつながっているように、人類の心もその奥底でつながっているのではないでしょうか。それがユングのいう「集合的無意識」の本質ではないでしょうか。
 
 そして、「小さな海」という言葉から、わたしはアンデルセンの「涙は人間がつくるいちばん小さな海」という言葉を連想しました。これこそは、アンデルセンによる「メルヘンからファンタジーへ」の宣言ではないかと、わたしは思います。神秘哲学者のルドルフ・シュタイナーが『メルヘン論』で述べたように、メルヘンは人類にとっての普遍的なメッセージを秘めています。しかし、それはあくまで太古の神々、あるいは宇宙から与えられたものであり、人間がみずから生み出したものではありません。涙は人間が流すものです。そして、どんなときに人間は涙を流すのか。それは、悲しいとき、寂しいとき、つらいときです。それだけではありません。他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底から幸せを感じたときではないでしょうか。つまり、人間の心はその働きによって、普遍の「小さな海」である涙を生み出すことができるのです。人間の心の力で、人類をつなぐことのできる「小さな海」をつくることができるのです。
 
 アンデルセンは、涙は「世界でいちばん小さな海」だといいました。そして、わたしたちは、自分で小さな海をつくることができます。その小さな海は大きな海につながって、人類の心も深海でつながります。たとえ人類が、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは深海において混ざり合うのです。まさに、その深海からアンデルセンの人魚姫はやって来ました。人類の心のもっとも深いところから人魚姫はやって来ました。彼女は、人間の王子と結ばれたいと願いますが、その願いはかなわず、水の泡となって消えます。
 
 孤独な「人魚姫」のイメージは、「星の王子さま」へと変わっていきました。王子さまは、いろんな星をめぐりましたが、だれとも友だちになることはできませんでした。でも、本当は王子さまは友だちがほしかったのです。7番目にやって来た地球で出会った「ぼく」と友だちになりたかったのです。星の王子さまとは何か。それは、異星人です。人間ではありません。人魚も人間ではありません。人間ではない彼らは一生懸命に人間と交わり、分かり合おうとしたのです。人間とのあいだに豊かな関係を築こうとしたのです。それなのに、人間が人間と仲良くできなくてどうするのか。戦争などを行って、どうするのか。殺し合って、どうするのか。そんな平和のメッセージを秘めた「人魚姫」の映画化である「リトル・マーメイド」の主人公をアフリカン・アメリカンのハリー・ベイリーが演じたことは正しかったのではないかと思いました。
 
 この映画のラストでは、ハビエル・バルデム演じる海の王トリトンが海上に姿を現し、エリックと結ばれてハネムーンに旅立つアリエルを見送ります。彼と一緒に多くの人魚たちも海上に姿を見せますが、白人の人魚、黒人の人魚、アジア系の人魚......それはもうダイバーシティの饗宴のようでした。このシーンを観たとき、わたしは「ここまでやられたら、アリエルの肌の色についてもう文句は言えないな」と思いました。愛娘に別れを告げるトリトンは寂しそうでした。娘が幸せになることへの喜びとともに、娘が自分のもとを去っていく寂しさを感じたのでしょう。わたしは、1年前の6月5日に結婚した長女のことを考えました。この日にテレビ放送された実写版「美女と野獣」は有楽町マリオンの映画館で長女と一緒に観たことも思い出しました。最後に、ベイリーの小麦色の肌から、わたしは1982年に松田聖子が10枚目のシングルとして発表した名曲「小麦色のマーメイド」を連想しました。