No.745


 イオンシネマ中間で日本映画「658km、陽子の旅」を観ました。父親の葬儀に駆けつける女性の物語であることと、主演女優の「化け物級演技」という前評判に接し、ぜひ観たいと思っていた作品でした。想像していた通りにグリーフケア映画の大傑作でしたが、菊地凛子の演技は圧巻で、使い古された表現ですが「凄いものを観た!」というのが実感です。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『私の男』などの熊切和嘉監督が『パシフィック・リム』シリーズなどの菊地凛子を主演に迎えたヒューマンドラマ。42歳のフリーターの女性が、疎遠になっていた父親の死の知らせを受け、故郷のある青森県の弘前へ向けて東京からヒッチハイクの旅をする。竹原ピストルや黒沢あすか、風吹ジュン、オダギリジョーなどが共演する」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「42歳の陽子(菊地凛子)は独身で、非正規雇用で働いている。かつて陽子の夢への挑戦に反対した父親が亡くなり、彼女はいとこの茂の車で故郷の弘前に帰ることにするが、途中のサービスエリアで起きたトラブルにより取り残されてしまう。陽子は所持金もなくヒッチハイクをするが、その道中で、必死で働くシングルマザーや心優しい夫婦などさまざまな人と出会う」

 この映画、アジアを代表する映画祭として知られる第25回「上海国際映画祭」で最優秀作品賞を含む最多3冠の快挙を達成しましたが、菊地凛子も最優秀女優賞に輝きました。1981年生まれの菊地凛子は、この映画の主人公である陽子と同じ42歳です。世間を騒がせている広末涼子と同い年ですが、彼女は今や国際的女優です。彼女の存在を一躍世界に知らしめたのはハリウッド映画「バベル」(2006年)です。モロッコ、メキシコ、アメリカ、日本を舞台に、ブラッド・ピット、役所広司らが演じるキャラクターが、それぞれの国で、異なる事件から1つの真実に導かれていく衝撃のヒューマンドラマです。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が、言語、人種、国などを超え、完成度の高い物語を作り上げました。名だたる実力派俳優たちが名演を見せる中、孤独な少女を演じ、海外のさまざまな賞に名前を連ねる菊地凛子の存在感のある演技に、世界中の観客の目がくぎ付けになりました。

「バベル」で演じたろう者の女子高校生役が話題となり、菊地凛子はアカデミー賞助演女優賞を含む多数の映画賞にノミネートされました。そこからはSF超大作「パシフィック・リム」シリーズの主要キャスト、近年では超大作ドラマ「TOKYO VICE」にも参加しています。彼女は、米最大手タレントエージェンシー「クリエイティブ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)」と契約中です。彼女のマネージメントを務めているのがヒルダ・クアリーですが、業界では敏腕として知られる"スーパーエージェント"です。例えば、オスカー女優のケイト・ブランシェット、ケイト・ウィンスレット、ジェシカ・チャステイン、クロエ・グレース・モレッツ、ジョニー・デップの娘リリー=ローズ・デップといった超大物ばかりを担当。菊地への期待値も、彼女たちと同等と言えるでしょう。

 そんな世界的大女優となった菊地凛子ですが、この「658km、陽子の旅」は意外にも初の邦画単独主演作品でした。彼女が演じる陽子は、いわゆる"コミュ障"です。長い間、アパートの自室に引きこもっていたため他人とまともな会話ができません。寡黙で対人スキル・ゼロというキャラクターを表現するのは難しいことです。しかし、彼女は「雄弁に語らず、多くを動かず」という制約の中でも、哀しみや苦しみをしっかりと滲ませつつ、少しづつ陽子という人間の内面を露出していきます。彼女は、若い頃に父親と対立して家を出てから、東京で自身の夢を追いますが、現実の厳しさを思い知るばかりでした。

 現実に敗北し、夢を追うことを諦めた陽子ですが、じつは、そこには「就職氷河期世代/非正規雇用/独身者」という背景がありました。菊地凛子、熊切監督、原案・共同脚本の室井孝介、そして陽子は、同年代の就職氷河期世代です。いわゆる「ロスジェネ」と呼ばれる世代なのですが、「映画.com」の特集記事「【2023年"本当に観て良かった1本"に確定しました】コミュ障引きこもり女性が東京→青森658kmを旅する しかもヒッチハイクで!? 菊地凛子の"化け物級演技"を堪能できる――海外映画祭3冠を達成した珠玉の一作」には、「面倒で解決できないものを心に仕舞い込み、自分で自分を見て見ぬふりをしてきた陽子が過酷な旅に身を投じることで、過去の確執と対峙し、自分自身を見つめ直していく。一見荒療治にも見えますが、これは"癒しの物語"ともとらえることができます。映画終盤の陽子の姿は、確かに"殻を破った"という印象を与え、それゆえ観る者の心も確かに癒やしてくれるのです」と書かれています。

「映画.com」より



 陽子は仕事で成功できなかっただけでなく、恋人もいませんし、もちろん結婚もしていません。青森の実家には、もう長いこと帰省していません。東京で生活しているといっても近所に知り合いもなく、孤独な日々を送っています。現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、わたしは凧が最も安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思っています。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。この縦横の二つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての「幸福」の正体だと思います。陽子は、横の糸である地縁や、疎遠となった実家、すなわち縦の糸を失ったフラフラ漂う凧のような状態だったのでしょう。

「映画.com」より



 そんな陽子が、父の訃報を受けて、その葬儀に参列しようと思います。せめて、出棺までには父のもとに到着したいと切望する彼女は、過酷な旅に身を投じます。撮影は東京から青森まで北上しながら行われたそうですが、菊地は陽子をリアルに体現するため全シーンをノーメイクで参加したとか。不慣れな状況に戸惑いながら、傷つきながら前へ進んでいきます。しかし、そもそもコミュ障の彼女はヒッチハイクなどする気はまったくありませんでした。従兄(竹原ピストル)が運転する車に同乗して青森まで行くはずだったのですが、予期せぬ事態でサービスエリアに置き去りにされます。ちょっと、このあたりは「ありえんだろ!」とリアリティを感じなかったのですが。陽子が従兄に電話をすればそれで解決だったのでしょうが、あいにく前日にスマホが故障していたのです。所持金は2000円弱で、別ルートで移動する余裕もありません。それでも、翌日正午の父の出棺に間に合わなければいけない彼女は、追い詰められて見知らぬ人に声をかけまくるのです。

「映画.com」より



 コミュ障である陽子の言動は、観ているわたしに多大なストレスを与えました。せっかく最初に乗せてくれたシングルマザーにお礼もきちんと言わず、別れ際に唐突に借金を申し込む場面などは、その非常識さに腹が立ちました。彼女は「ありがとうございます」と「すみません」の言葉が言えないのです。じつは、この映画を観る前日に東京からのスターフライヤー機内で臨席の若い男性とトラブルがありました。先にわたしが3人席の通路側に座っていて、彼が中央の席に座ったのですが、背負っていた大きなリュックを手で抱えずにそのまま席に座ろうとしたため、リュックがわたしの顔に当たったのです。わたしは、「痛っ!」と言って彼を見たのですが、彼は知らん顔をして目を合わせようとしないのです。「なんだ、失礼だな!」と思いましたが、そのときは我慢しました。

「映画.com」より



 続いて、ドリンクサービスの回収時に彼がCAの女性に飲み終えた紙コップを放り投げるように渡して、それがわたしの上に落ちたのです。彼の飲み残した液体がわたしのスーツを汚しました。それでも、彼はわたしと目を合わせず、謝りもしません。さすがに今度はキレて、「『すみません』も言えないのか!」と彼を怒鳴り上げました。すると、彼が逆ギレしてわたしの腕を強く掴んできたのです。これはもう正当防衛だと思い、「何だ!」と言って彼の腕をねじ上げてやりました。わたしだって柔道の有段者だし、関節技の知識もあります。すると、1人の年配の女性が飛んできて「どうしましたか? この子の親です!」と言うのです。わたしが事情を説明すると、女性は「申し訳ありません! この子は謝ることができなくて!」と言うのです。その瞬間、この男性が何らの障がいを抱えていることを悟り、わたしは急速にクールダウンしました。

「映画.com」より



 わたしは、いま、『年長者の作法』(主婦と生活社)という本を書いています。年長者が「老害」と呼ばれないためには、相手が若い人であっても「ありがとうございます」と「すみませんでした」の言葉を使うように訴えました。人間が社会で生きていく中で、さまざまな危険な場面があります。その際、挨拶こそが最強の護身術になるというのがわが持論です。最強の護身術とはグレーシー柔術でも極真空手でもなく、礼儀正しさだと思います。子どもでも「ありがとう」「ごめんなさい」の2つの言葉を使うことが人間としての基本ですが、世の中にはそれができないという障がいを持つ人がいることを知りました。ただ、わたしの隣の彼は、ろう者とかではなく、母親から「あんた、きちんとお詫びしなさい!」と一喝されると、大きな声でわたしの「すみませんでした!」と言いました。それで、わたしも「はい、この話は終わりです。お母さんも、どうぞ、もう気にされないで下さい」と言いました。

「映画.com」より



 それでも、そのお母さんは帰り際にもわたしの所へやってきて、「本当に申し訳ございませんでした。よろしければ、クリーニング代を払わせていただけませんか?」と言うのです。わたしは「いいえ、もう本当に大丈夫ですから。ご丁寧にかえって恐縮です」と言いました。それを聴いたお母さんは「このたびは、不愉快な思いをさせて、本当に申し訳ございません」と深々とお辞儀をされたので、思わずわたしも返礼しました。飛行機を出るときは、CAの女性が「わたしがコップを受け取れずに失礼いたしました」と言うので、「あなたは悪くありませんよ」と言いました。わたしは、悲しくて仕方がありませんでした。あのお母さんの謝り方は、いつも謝り慣れている印象だったからです。今回のようなトラブルが絶えないのかもしれません。彼は明らかに「コミュニケーション障がい」を抱えているのだと思いますが、その背景には何らかの病名がある可能性が高いです。本当は母子で一緒に座りたかったのに、その日は満席でそれが叶わなかったのでしょう。ちなみに、そのときのわたしはボルサリーノの帽子にサングラスという強面スタイルだったのですが、そんなわたしの腕を彼が掴んできたときは本当に驚きました。
「映画.com」より



 わたしの周囲には、コミュ障をはじめ、アスペルガー症候群、適応障がい、うつ病などに苦しんでいる人たちがいます。彼らの立場に寄り添いたいと思いつつも、「礼」を重んじるあまり、きちんと挨拶ができない人に対してはどうしても失望してしまう自分がいます。それは、これまでも薄々感じてきたことなのですが、今回の出来事でかなり落ち込んだわたしは、「もっと、ケアやコンパッションの精神を身につけないといけないな」と思いました。その翌日に、「658km、陽子の旅」というコミュ障の主人公の映画を観て、シンクロニシティというものを感じるととともに、これは天からわたしへのメッセージではないかと思いました。もちろん非常識な行為や失礼なふるまいは許せませんが、これからは「礼」を追求するにしても「自分に厳しく、他人に優しく」を心掛けたいと思います。せっかく、『コンパッション!』(オリーブの木)という本まで書いているのですから、わたし自身が「思いやり」を実践しないといけません。心から、そう思いました。
「映画.com」より



 映画「658km、陽子の旅」の話に戻します。コミュ障ながらも追い詰められた陽子は、勇気を振り絞って「青森まで行きたいんですけど...途中まででもいいですから、乗せていっていただけませんか?」とお願いするのでした。彼女の願いを聞いてくれた人たちは基本的にコンパッションの精神のある人々でしたが、中には邪な心を持っている者もいて、乗せてやる代わりに抱かせろと要求するクズもいたのです。自分の欲望を果たした後、約束を破ってヒッチハイクをさせなかったライター(浜謙太)に体も心も汚された陽子は自暴自棄になりますが、その後、心優しい高齢夫妻と出会ったことで、彼女の精神は浄化され、少しずつケアされていきます。その後、父親と男の子の車に乗せてもらった際には、彼女は「少し、個人的なことを話してもいいですか?」と言って、自分語りを始めます。

「映画.com」より



 彼女の父親が亡くなったこと、父とは仲違いしたまま死別したこと、出棺までには到着して父の手を握りたいことなどを語る彼女の姿から、グリーフケアの自助グループの語り合いを連想しました。人は自身の悲しみを語ることによってケアされるのです。また、彼女は最後に「ありがとうございました」とはっきり言いました。これまで、「ありがとう」と言えずに、ほんの少しだけ頭を下げることしかできなかった彼女が「ありがとう」と言ったのです。「ありがとう」を言えなかった彼女が「ありがとう」を言える彼女になるまでの時間経過は、たったの1日です。その短いひとときのなかで、陽子は大きく成長しました。愛する人を亡くした人は悲嘆の淵にありますが、それは洞窟に閉じ籠っていることに例えられると思います。その洞窟の闇に太陽の光が射すことこそ、グリーフケアです。そして、それは日本神話では「岩戸開き」と呼ばれました。天の岩戸を開く太陽の光とは、人間界では「ありがとう」の言葉であるように思います。

ウェルビーイング?』『コンパッション!』の双子本



 わたしは、『ウェルビーイング?』『コンパッション!』(ともに、オリーブの木)という双子本を書きましたが、神道においてはウェルビーイングとは「天晴れ(あっぱれ)」天が晴れて光が差し込み、世界が明るくなることだと述べました。岩戸が開かれることによってこの世に太陽光を戻し、「天晴れ(あっぱれ)」を実現するのですが、そこから、コンパッションとしての「あはれ」が派生していくのでした。これは宗教哲学者の鎌田東二先生から教えていただいたことです。鎌田先生は、「あっぱれ」こそが日本的ウェルビーイングであり、「あはれ」が日本的コンパッションであると指摘し、その二つは神道的視点では同源だと喝破されました。わたしは、この事実に大きな衝撃を受けました。陽子はずっと他人から心配されていましたが、旅の終わりには「他人のことを心配する」ようになります。言葉を内に溜め込んでいた彼女が「ありがとう」と、言葉を自ら発信するようになります。これまで避けてきた人との出会いと別れによって、陽子の凍りついた心は次第に溶けていったのだと思います。

「映画.com」より



「658km、陽子の旅」の大きなポイントは、過酷な旅を続ける陽子の傍らに、亡くなったはずの父親(オダギリジョー)の姿があることです。しかも、亡くなったときの高齢ではなくて、陽子と同じ42歳の姿です。父は何も語りませんが、陽子は父の幻影に向かって心の中に溜めていたことを語ります。父を憎んでいたはずの陽子でしたが、じつは父の思い出に支えられて生きてきたことがわかるシーンです。わたしは、「生者は死者によって支えられている」との持論を改めて思いました。どんな人間にも必ず先祖はいます。しかも、その数は無数といってもよいでしょう。これら無数の先祖たちの血が、たとえそれがどんなに薄くなっていようとも、必ず子孫の1人である自分の血液の中に流れているのです。「おかげさま」という言葉で示される日本人の感謝の感情の中には、自分という人間を自分であらしめてくれた直接的かつ間接的な原因のすべてが含まれています。そして、その中でも特に強く意識しているのが、自分という人間がこの世に生まれる原因となった「ご先祖さま」なのです。

供養には意味がある』(産経新聞出版)



 憎んでいた父を赦した瞬間、陽子は、先祖という縦糸と繋がりました。また、ヒッチハイクという一時的な「縁」にしろ他人との縁を紡いでいくことで横糸も繋がりました。彼女の心の凧は再び宙に舞い、安定して空に浮かんだように思います。クライマックスは、父親の葬儀ですが、そのシーンはスクリーンには映りません。でも、何よりも、葬儀の重要性が伝わってくるラストシーンでした。拙著『供養には意味がある』(産経新聞出版)にも書きましたが、最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供など大切な家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。というわけで、この映画、スマホと葬儀が重要な役割を果たします。でも、スマホは「ないと不便きわまりない」というレベルなのに対して、葬儀は「行われないと、残された者が生きていけない」という必要不可欠なものとして描かれます。「658km、陽子の旅」が国際的に高い評価を受けたのも、親の葬儀に必死で駆けつけるという物語に、世界中の人の心に響く普遍性があったからだと思います。

 陽子がようやく父の葬儀を営む実家に到着したとき、彼女をサービスエリアで置き去りにした従兄が迎えてくれました。従兄役の竹原ピストルも素晴らしい演技でした。わたしが彼を初めて知ったのは、一条真也の映画館「永い言い訳」で紹介した2016年の日本映画でした。一条真也の映画館「おくりびと」で紹介したアカデミー外国語賞受賞作で葬儀の納棺師を演じた本木雅弘が遺族の役を演じるとして話題になった作品です。人気小説家の衣笠幸夫(本木雅弘)の妻で美容院を経営している夏子(深津絵里)は、バスの事故によりこの世を去ってしまいます。しかし夫婦には愛情はなく、幸夫は悲しむことができません。ある日、幸夫は夏子の親友で旅行中の事故で共に命を落としたゆき(堀内敬子)の夫・大宮陽一(竹原ピストル)に会います。陽一は妻・ゆきの葬儀で号泣しました。一方、幸夫は妻・夏子の葬儀で涙を流さなかったばかりか、現地で妻を荼毘に附します。

 夏子は美容院のオーナーでしたが、彼女の部下たちは夏子の遺体のない葬儀場で幸夫に「知らせていただければ、現地に駆けつけたのに!」と幸夫に言い寄ります。そして、1人の女性スタッフが「わたしたちは1年のうち、300日以上も朝から晩まで一緒に働いてきました。夏子さんには、わたしたちとの時間もあったんですよ!」と言って泣き崩れます。わたしは、この場面を観て、いわゆる「家族葬」のことを考えました。「葬儀は近親者のみで行います」として「葬儀は家族葬で」が主流になりかけていますが、本来、1人の人間は家族の所有物ではありません。家族葬だと縦糸だけで、横糸は切り捨てられてしまいます。家族葬があるなら、隣人葬もあっていいはずです。もちろん家族も隣人も一緒に故人を見送る葬儀が一番ですが。

 最後に、「658km、陽子の旅」の音楽が素晴らしかったです。担当しているのは、国際的ミュージシャンのジム・オルーク。熊切監督とは「海淡市叙景」「夏の終り」「私の男」に続き、4作品目のコラボだとか。しかも、エンディングテーマ「Nothing As」では、 一条真也の映画館「ドライブ・マイ・カー」で紹介したアカデミー賞映画の音楽を手掛けた石橋英子とタッグを組んでいます。しかし、わたしが最も心に残ったのは劇中で陽子の亡父が歌った「亜麻色の髪の乙女」の歌でした。ヴィレッジ・シンガーズが1968年2月25日に日本コロムビアから発売した5枚目のシングル曲で、GSを代表する大ヒット曲になりました。2002年に発売された島谷ひとみのカバー版も、オリコンチャート最高4位に入るヒットとなっています。わたしは、昔からこの曲が大好きで、カラオケでもよく歌っていました。じつは、昨年6月に長女が結婚する前夜にも歌いました。歌詞の中に「乙女は胸に白い花束を♪」「乙女は風のように丘を下る 彼のもとへ♪」「明るい歌声は恋をしているから♪」などのフレーズがありますが、これは父親が娘の幸福を願う曲なのだと思いました。陽子の父親も、きっと娘の幸福を願っていたのでしょう。