No.764
9月8日は、映画の新作公開が相次ぎました。その日の夜、まずは日本映画「禁じられた遊び」をシネプレックス小倉で鑑賞。一条真也の読書館『禁じられた遊び』で紹介した小説の映画版ですが、Jホラー史に燦然と輝く名作「リング」の中田秀夫監督の最新作とあって、見どころは満載でした。ある意味で貞子より怖いキャラも登場して、面白かったです!
映画ナタリーの「解説」には、「第4回本のサナギ賞で大賞に輝いた清水カルマのデビュー小説『禁じられた遊び』を映画化。事故で亡くなった母が生き返ることを願い、父から冗談半分で教えられたタブーを犯してしまった息子を不気味な出来事が襲う。監督は『リング』の中田秀夫。橋本環奈とジャニーズWESTの重岡大毅がW主演を務める。共演は堀田真由、倉悠貴、正垣湊都ら」とあります。
映画ナタリーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「妻子と仲睦まじく暮らす伊原直人は、ある日、息子の春翔に死んだ生き物をよみがえらせる呪文を教える。そんな折、不慮の事故で妻の美雪が他界。事故を知った倉沢比呂子が直人を思い出した頃、春翔は直人に教えられた呪文で母をよみがえらせようとしていて......」
原作を書いた清水カルマはフリーライター。2018年、第4回本のサナギ賞大賞を受賞。翌年、受賞作『リジェネレイション』を『禁じられた遊び』に改題し出版。同書のカバー裏表紙には、こう書かれています。 「伊原直人は、妻の美雪と息子の春翔と共に幸せな生活を送っていた。しかし、念願のマイホームを購入した矢先、美雪が交通事故に遭い、死亡してしまう。絶望する直人に対し、春翔は『ママを生き返らせる』と美雪の死体の指を庭に埋め、毎日熱心に祈りを捧げる。同じころ、フリーのビデオ記者、倉沢比呂子のまわりで奇怪な出来事が起こり始める......」
ヒロインの橋本環奈は良かったです。怖がる表情とか絶叫する演技も素晴らしく、立派なホラー・クイーンぶりを発揮していました。もともと顔立ちが端正なので、少しでも顔を歪めたりすると絵になります。ただ、タバコを吸ったりするシーンはあまりサマになっていませんでしたね。一条真也の映画館「春が散る」にも書きましたが、彼女は非常にキュートですが、小柄で童顔です。髪をひっつめたりすると、安達祐実の子役時代のようになってしまいます。女優としてもう一段グレードアップするには、大人の女性の色気が求められるでしょう。
ところで、この日の劇場にはわたしを含めて4人しか観客がいませんでしたが、最後列に座ったわたしのすぐ近くに1人の女子高生が座りました。学校帰りにシネコンに寄ったような感じでした。ふと見ると、その子が橋本環奈そっくりなのでビックリしました。実際に本人が出演して、ドッキリとかモニタリングなどの企画でわたしの反応を隠し撮りしているのではないかと疑ったほどです。あまりジロジロ見ると変なので、極力見ないようにしました。その子は周囲から「橋本環奈に似てる」と言われて映画を観に来たのかもしれません。それにしても、よく似てたなあ!
橋本環奈とW主演の重岡大毅も悪くはありませんでしたが、彼がジャニーズWESTのメンバーだということで、どうしても前日に行われたジャニーズ事務所の社長交代会見を連想してしまいました。正直言って、これからジャニーズのタレントたちには茨の道が待っていると思います。一条真也の映画館「#マンホール」にも書いたように、ジャニーズ事務所には名優が揃っています。木村拓哉をはじめ、岡田准一、二宮和也、藤ヶ谷太輔、中島裕翔、そして最近では目黒蓮。本当に、みんな素晴らしい役者です。彼らの映画出演への機会が減ることは日本映画界にとっても損失ですね。そのためにも、社名も一新した方がよいと思います。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
映画「禁じられた遊び」はもちろんホラー映画ですが、グリーフケア映画の一面もあります。「愛する人」との死別と悲嘆を描いているからです。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)に書いたように、「愛する人」と一言でいっても、家族や恋人や親友など、いろいろあります。わたしは、親御さんを亡くした人、御主人や奥さん、つまり配偶者を亡くした人、お子さんを亡くした人、そして恋人や友人や知人を亡くした人が、それぞれ違ったものを失い、違ったかたちの悲しみを抱えていることに気づきました。それらの人々は、何を失ったのでしょうか。それは、「親を亡くした人は、過去を失う。配偶者を亡くした人は、現在を失う。子を亡くした人は、未来を失う。恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う」というものです。ちなみに、『愛する人を亡くした人へ』を原案とする映画「君の忘れ方」が現在撮影中で、わたしも10日の埼玉ロケで出演いたします。
「禁じられた遊び」には、グリーフケアの呪文が出てきます。父親の直人が息子の春翔に教えた「エロイムエッサイム」という言葉です。最愛の母親を亡くした春翔は、母の指を埋めた地面に向かって「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム...」と唱え続けるのですが、その姿を見たわたしは「悪魔くん」を連想しました。「悪魔くん」は水木しげるの漫画作品を原作として作られた特撮テレビドラマで、1966年から翌年にかけて放送されました。1963年生まれのわたしは、ビデオソフトで観ました。「悪魔くん」と呼ばれる少年が悪魔の力を借りて、世界を平和へと導くために戦う物語ですが、悪魔を呼び出す時は魔法陣を前に「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり」と呪文を唱えるのです。これは18・19世紀のフランスで流布した魔法書に記された、悪魔を呼び出すために黒い雌鶏を引き裂いて唱える呪文に由来します。
「禁じられた遊び」の主人公であるフリーのビデオ記者、倉沢比呂子は、冒頭から邪悪な霊によって想像を絶する恐怖体験をします。それによって1年間も精神病院に入院しなければならないほど心を病んでしまうのですが、その霊は死霊ではなく生霊でした。比呂子が密かに想いを寄せる直人の妻・美雪が自らの超常的な能力(テレパシー)で比呂子の秘めた恋心を知り、呪いによって比呂子を苦しめるのでした。それがグラスを粉々に砕いたり、切れていたテレビのスイッチを入れて最大音量で流したり、電話機を燃やしたり......といったやりたい放題で、「エクソシスト」の悪魔も驚くような物理現象のオンパレードで、「おいおい、生霊がここまでやるか!」と突っ込みたくなるような過剰ぶりなのです。生霊といえば、『源氏物語』の六条御息所が有名ですが、あれは陰湿で地味だから怖いのであり、本書のように派手な生霊というのはまったく怖くありません。これでは、単なる暴走エスパーです。しかも、比呂子は直人と不倫してたわけではなく、ただ憧れていただけなのです。それなのに、1年間も精神病院に入らなければいけないほどの恐怖を味わうのは理不尽きわまりないと思うのですが......。
本書には、大門という霊能力者が登場します。
もともとは真言宗の僧侶でしたが、素行不良で宗派を追われ、テレビの霊能番組で活躍するという、ずばり織田無道を連想させる男です。その大門は「この世には幽霊などおらん」と断言し、釈迦だって、死後の世界があるとは一言も言っていないと説明します。さらには「人は死んだらなんにもなくなり、一切は無に帰するのだ。だから幽霊なんて怖がる必要はない」と言うのですが、それに対して比呂子が「だけど、あなたはテレビで先祖の霊が祟っているとか言ってたじゃないの」と言うと、大門はこう答えます。
「あんなものは嘘っぱちだ。いいか、よく聞け。死んだ人間には何もできん。幽霊などというのは、みんな生きている人間が見させているのだ。たとえば、自殺のあったホテルの部屋に幽霊が出るという噂があるとする。そこに泊まった人間は必ず夜中に息苦しさを覚えて目を覚まし、部屋の真ん中で首をつっている人間の姿を見るという噂だ。事前に、その部屋で自殺があったと知っていれば、気味悪い先入観から、夢や幻を見てしまう可能性もあるだろう。けれども宿泊客たちは誰ひとりとして、その部屋で自殺があったことなど知らんのだ。それなのに幽霊を見るのだから霊は本当に存在するのだ、とまわりの人間たちは思うかもしれないが、それが曲者なのだ。ホテルの従業員や近所の人間は、その部屋で自殺があったことを知っている。客が泊まりにくると、『この客は自殺があった部屋で眠るのか。かわいそうに。何も出なければいいが......』と思い、その念が夜中に客に悪夢を見させたり、揺り起こして幻を見させたりするのだ。すべては生きている人間の仕業。人間がいない場所には憎悪もない。幽霊も存在せんのだ。本当に怖いのは生きている人間だ」
(『禁じられた遊び』P.162~163)
たしかに幽霊など存在しませんでした。すべての霊現象は生きている人間が起こすものであり、比呂子は美雪の生霊に苦しめられました。そして、生霊よりもさらに恐ろしい存在を知ります。それは、生と死の狭間で蠢いているものの怨念でした。いわば「この世で一番恐ろしいもの」であるとも言えますが、それが比呂子を襲うことになったそもそものきっかけは、直人が息子の春翔に「トカゲのしっぽを埋めると再生するよ」と小さな嘘をついたことでした。その嘘を信じた春翔は、愛する母のが交通事故で死んだとき、ちぎれた指先を土に埋めて、再生させようと必死に祈るのでした。その後、土の中で再生した美雪が比呂子を滅ぼそうとし、次から次に奇怪な出来事が起こります。物語は「これでもか!」というほどオドロオドロしい展開となっていく一方で、正直、これも冒頭の生霊のパワー行使と同じく、やりすぎだと思いました。デビュー作で、しかもホラーとあって、著者はちょっとサービス過剰でしたね。
この映画の原作である『禁じられた遊び』という小説は文庫で400ページ近くありますが、物語の展開が早くて、あっという間に読めました。ライトノベルと言ってもいいような読みやすさでしたが、もともとのタイトルは『リジェネレイション』でした。そして、明らかにホラー小説の歴史に残るある名作の影響を濃厚に受けています。"モダン・ホラーの帝王"ことスティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』です。競争社会を逃れてメイン州の田舎に越してきた医師一家を襲う怪異を描いていますが、ジェイコブズの古典的名作『猿の手』にも通じる「死者のよみがえり」というテーマに真っ向から挑んだ、恐ろしくも哀切な家族愛の物語です。
『ペット・セマタリー』は1983年に発表されましたが、原稿自体はそれ以前に完成していました。かねてから「あまりの恐ろしさに発表を見合わせている」と噂されていた作品で、キング自身は「妻のタビサがこの本を私に発表させたがらない」と述べていました。愛するが故に、呪いの力を借りてまでも死んだ家族を生き返らせようとしてしまうという「家族愛の哀しさ」と「人間の愚かさ」を描いたモダン・ホラーの傑作です。1989年にパラマウントから映画化されましたが、邦題は「ペット・セメタリ―」でした。一条真也の映画館「ペット・セメタリ―」で紹介したように、2019年にもリメイクが作られていますが、前作の欠点を補った完全版として高い評価を得ています。日本では2020年1月17日に公開されました。
さて、『禁じられた遊び』といえば、1952年のフランス映画の名作を思い浮かべない人はいないでしょう。監督はルネ・クレマン、出演はブリジット・フォッセーとジョルジュ・プージュリー。 フランソワ・ボワイエ(フランス語版)の小説を原作とし、戦争で孤児となった5歳のフランス人少女の運命を描いた映画です。Wikipedia「禁じられた遊び」の「ストーリー」には、「1940年6月、ドイツ軍から逃げるため街道を進む群衆の中に、幼い少女ポーレットがいる。そこに戦闘機による機銃掃射があり、ポーレットは一緒にいた両親と愛犬を失ってしまう。ポーレットは愛犬の死体を抱きながら川沿いの道を彷徨い、そこで牛追いをしていた農家の少年ミシェルと出会う。ミシェルの家庭は貧しかったが、ポーレットが両親を亡くしていることを知り、彼女を温かく迎え入れる。ミシェルはポーレットに親近感を持ち、無垢なポーレットもミシェルを頼るようになる」と書かれています。
また、Wikipedia「禁じられた遊び」の「ストーリー」 には、「ポーレットは死というものがまだよく分からず、神への信仰や祈り方も知らなかった。ポーレットはミシェルから『死んだものはお墓を作るんだよ』と教えられ、愛犬の死体を人の来ない水車小屋に埋葬し、祈りをささげる。愛犬がひとりぼっちでかわいそうだと思ったポーレットは、もっとたくさんのお墓を作ってやりたいと言い出す。ミシェルはその願いに応えてやりたくなり、モグラやヒヨコなど、様々な動物の死体を集めて、次々に墓を作っていく。二人の墓を作る遊びはエスカレートし、ついには、十字架を盗んで自分たちの墓に使おうと思い立つ。そのころ、馬に蹴られて寝込んでいたミシェルの兄が亡くなり、ミシェルは父が用意した霊柩車から飾りの十字架を盗む。十字架が消えていることに父が気づいてミシェルを問い詰めると、ミシェルは隣人がやったのだと言い逃れをする。葬儀に参列したポーレットが教会にある美しい十字架を気に入ったので、ミシェルはその十字架も盗もうと教会を訪れるが、失敗して神父に追い返される。すると、それを聞いたポーレットは、ミシェルの兄が埋葬されている墓場にも十字架は沢山あると言い出す。ミシェルとポーレットは、爆撃で光る夜空の下、墓場から多くの十字架を盗みだして自分たちの墓地へと運ぶ」とも書かれています。
わたしは、幼いミシェルとポーレットの「遊び」には、葬儀の原点があると思っています。わたしは古今東西の人物のなかで孔子を最も尊敬しています。なぜ、わたしは孔子に心を惹かれるのか。まずは、冠婚葬祭業というわたしの仕事の偉大な先達ということがあげられます。孔子の母親はもともと葬儀や卜占にたずさわる巫女であり、「原儒」と呼ばれる古代の儒教グループも葬送のプロフェッショナル集団でした。この事実は、中国文学者・白川静氏の名著『孔子伝』で明らかにされました。孟子の母親は、孟子が子どもの頃に葬式遊びをするのを嫌って家を3回替えた、いわゆる「孟母三遷」で知られていますが、孟子の師である孔子も子ども時代にはよく葬式遊びをしたようです。
『唯葬論』(サンガ文庫)
ミシェルとポーレットの「禁じられた遊び」とは虫や小動物の亡骸を地中に埋めて十字架を立てて祈りを捧げるという、小さな子どもによる「葬式遊び」でした。どうも「遊び」と「葬式」の間には強い関連性があるようです。そういえば、古代の日本では天皇の葬儀にたずさわる人々のことを「遊部(あそびべ)」と呼びました。そんなことを『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)などに詳しく書きましたので、興味がある方はご一読下さい。