No.913


 話題のアメリカ映画「フェラーリ」をシネプレックス小倉で観ました。わたしは、もともとフェラーリという車も、フェラーリが大好きだという人間も、ともに苦手なのですが、この映画を観てもっと苦手になりました。ただ、単なるカーレース映画かと思ったら、全篇でさまざまな種類のグリーフが描かれており、そこは興味深かったです。
 
 ヤフーの「解説」には、「イタリアの自動車メーカー『フェラーリ』の創始者エンツォ・フェラーリの伝記ドラマ。1957年に行われたイタリアでの公道レース『ミッレミリア』に挑んだエンツォの姿を通して、彼が抱えていた情熱と狂気を描く。監督は『ブラックハット』などのマイケル・マン。『65/シックスティ・ファイブ』などのアダム・ドライヴァー、『コンペティション』などのペネロペ・クルスのほか、シャイリーン・ウッドリー、パトリック・デンプシーらが出演する」と書かれています。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「1957年。59歳のエンツォ・フェラーリ(アダム・ドライヴァー)は、妻ラウラ(ペネロペ・クルス)と立ち上げたフェラーリ社をイタリア屈指の自動車メーカーにまで成長させたが、会社は経営状態の悪化で買収の危機に瀕していた。1年前の息子ディーノの死により家庭も破綻しており、さらに、ひそかに愛し合うリナ・ラルディ(シャイリーン・ウッドリー)との子供ピエロを彼は認知することができずにいた。会社経営と私生活の両方で窮地に立つエンツォは、再起を懸けて公道レース『ミッレミリア』に挑む」となっています。
 
 映画「フェラーリ」を観て、わたしは、一条真也の映画館「ハウス・オブ・グッチ」で紹介した2021年のアメリカ映画を連想しました。界的ファッションブランド「グッチ」創業者の孫で3代目社長マウリツィオ・グッチの暗殺事件と、一族の確執を描いたサスペンスです。貧しい家庭出身の野心的なパトリツィア・レッジャーニ(レディー・ガガ)は、とあるパーティーで世界的ファッションブランド『グッチ』創業者の孫であるマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライヴァー)と出会います。互いに惹かれ合うようになった2人は、周囲の反対を押し切って結婚。やがて、セレブとしての暮らしを満喫する彼女は一族間の確執をあおり、グッチ家での自分の地位を高めブランドを支配しようとします。そんなパトリツィアに嫌気が差したマウリツィオが離婚を決意したことで、危機感を抱いた彼女はある計画を立てるのでした。
 
「ハウス・オブ・グッチ」でマウリツィオ・グッチを演じたアダム・ドライヴァーは、「フェラーリ」では主人公のエンツォ・フェラーリを演じました。ともにドロドロの離婚劇の主役であり、その人物像もけっして好意的に描かれてはいません。グッチ社も、フェラーリ社も、現代イタリアを代表する名門企業です。その創業家であるグッチ家とフェラーリ家は当然ながら名誉も資産もある華麗なる一族のはずです。しかし、映画を観た限りでは「彼らほど不幸な人々もいないのでは?」と思えてきました。「フェラーリ」という作品を最初はフェラーリ社のPR映画ぐらいに考えていたのですが、観ているうちに「これはフェラーリ社の宣伝にもならないし、何よりもフェラーリ家の名誉を汚すものだな」と思えてきました。
 
 1947年にドライバーだったエンツォと共にフェラーリ社を立ち上げた妻ラウラはペネロペ・クルスが演じました。息子ディーノを産んで間もない若い頃のラウラは美しく描かれていましたね。しかし、そのディーノが病死してからは、夫婦仲が怪しくなります。さらに、ディーノが闘病していた間ずっと夫のエンツォが不倫をしていたこと、しかもその不倫相手のリナ・ラルディとの間にはピエロという息子がいることを知ったラウラは怒りのあまり半狂乱になります。もともとディーノを亡くしたグリーフを抱えていた上に、夫の不倫および隠し子の存在を知ったわけです。大きなショックを受けたラウラには同情してしまいますが、リナ・ラルディについての「見知らぬ相手と人生を分け合っていたなんて!」という言葉が印象的でした。
 
 エンツォ・フェラーリは、多くの人々との死別を経験していました。父や兄をはじめ、親友たち、そして最愛の息子だったディーノ。それでも、彼は悲しみません。「悲しむなんて意味がない」と言い放つ始末です。でも、グリーフケアという考え方が一般的になってきた昨今では、愛する人を亡くしたときは悲しむのが当然であり、むしろ悲しむ必要があるとされています。それを「悲しむなんて意味がない」と言うエンツォは人間的に重大な欠陥を抱えていたように思います。ディーノを失った妻ラウラは悲嘆に暮れて日々を過ごしていたわけですから、夫婦仲がおかしくなるのも当然です。でも、本当はエンツォも悲しかったのでしょう、彼は毎朝、ディーノの墓参りをするのでした。
 
 ラウラは、「ディーノが死んだのは、あなたのせいだ」とエンツォを非難します。というのも、エンツォは「ディーノは絶対に死なない」と言っていたからだというのです。ジストロフィーと腎臓疾患に冒されたディーノを救うために、エンツォは猛烈に医療のことを勉強したそうです。それでも、ディーノの命を救えなかったので、ライラはエンツォを責めるのでした。わたしは、この場面を観て、一条真也の映画館「ディア・ファミリー」で紹介した現在公開中の日本映画を連想しました。心臓の機能をサポートする医療器具・IABP(大動脈内バルーンパンピング)バルーンカテーテルを開発した筒井宣政氏の実録ドラマです。町工場の経営者だった筒井氏が、娘の命を救おうと人工心臓の開発に挑みます。わたしは、「それほど医療について勉強したのなら、馬鹿みたいに速い車を作るよりも、エンツォは筒井氏のように医療機器の開発に取り組めば良かったのに!」と本気で思いました。
 
 これから、けっこう本音を語っていきますが、わたしは速い車というものにまったく興味がありません。むしろ、「そんなものは人間の生命を脅かす危険なものだ」と思っています。ですから、カーレースなどというものにもまったく興味がありません。もちろん車が嫌いなわけではありません。日本国内で運転するかぎりは、速い車など意味がないので、わたしは機能性のある車と美しい車を好みます。現在、わたしは最高の機能性を誇るレクサスRXと、わたしが最も美しいと感じるジャガーのクラシックタイプの2種類の車を愛用しています。ちなみに、国民的人気作家の村上春樹氏もジャガーの大ファンだそうで、一条真也の読書館『騎士団長殺し』で紹介した長編小説で、ジャガーをこの上なく魅力的に描いています。
 
 映画「フェラーリ」の中で、ル・マンで連覇したジャガーのことをエンツォ・フェラーリが「ジャガーは売るために走る。わたしは走るために売る」と言い放つ場面がありますが、単なる負け惜しみにしか聞こえませんでした。フェラーリ車が高価なことは百も承知ですが、いくらお金があったとしても、わたしはフェラーリに乗りたいとは思いません。エンツォが自社のドライバーのことを駒の1つぐらいにしか考えておらず、「ブレーキの存在は忘れろ!」などと信じられないような発言をしたのが事実なら許せないと思います。人の命を何だと思っているのか? フェラーリがレースで優勝することよりも、ドライバーの命の方が大事だということさえわからないのか? ドライバーが死んだら、遺された家族や恋人は深い悲嘆を抱えることも知らないのか? 「悲しむなんて意味がない」というセリフを自分だけでなく、他人にも言うのか? 映画の中でエンツォが「アイム・コンパッショッネイト(わたしは慈悲深い)」と言うシーンがあるのですが、笑止千万。彼には、コンパッションの欠片も感じられませんでした。
 
 ドライバーの命を大事に考えられないエンツォが社長を務めるフェラーリ社の車は、1957年の「ミッレミリア」で大惨事を起こします。ミッレミリアは1927年から始まった公道での自動車レースです。その高い人気を受けて、第二次世界大戦前にはムッソリーニ率いるイタリアや、ヒトラー率いるドイツ国などの工業国かつ独裁国が、国威発揚のためにこれらのメーカーを国を挙げて支援したものの、第二次世界大戦の勃発により1941年から1946年の間は開催が一時的に中止。戦後は、アメリカからも当時モータースポーツに積極的に参戦していたリンカーンが参戦するなど、戦前を上回る盛り上がりを見せました。しかし、1957年にスペインのアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵がドライブするフェラーリが観客を巻き込む大事故を起こし(デ・ポルターゴ侯爵自身も死亡した)ため、やむなくイタリア政府は以降のレースの開催の中止を命じ、30年間の輝かしい歴史に幕を閉じたのです。
 
 このときの大事故で、5人の子どもを含む9人の観客が死亡しました。そもそも猛烈なスピードで爆走するカーレースを公道で行うこと自体が狂っていますが、このときフェラーリ社の代表だったエンツォはマスコミから袋叩きに遭います。ラウラは「これは私たちに与えられた罰ね」と言うのですが、エンツォはまったくそんなことは考えていませんでした。結局、フェラーリ社の責任は問われなかったようですが、わたしにはエンツォ・フェラーリの傲慢さが起こした事故だったように思えてなりません。最後に、愛人との息子であるピエロは現在、フェラーリ社の副会長を務めているようです。この事実を知ったとき、わたしはライラが気の毒でなりませんでした。もちろん彼女はすでに死亡していますが、彼女の無念を想うと辛くなります。ところで、大事故で中止となったミッレミリアは1977年、当時参戦した実車とその同型車のみが参加できるタイムトライアル方式のクラシックカーレースとして20年ぶりに復活しました。現在も毎年開催されているそうでが、わたしには関係のない話です。