No.1063


 GW明けの5月7日、福岡県内の紫雲閣を回りました。途中の時間を利用して、ユナイテッド・シネマなかま16で中国映画「来し方 行く末」を観ました。葬儀の弔辞ライターの物語で、サンレーのグリーフケア推進室の市原室長も一緒でした。しかし、「グリーフケアの参考になった」と言うにはビミョーな内容でしたね。
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「脚本家としての夢がかなわず、葬儀場で弔辞の代筆業をする男性を描いたヒューマンドラマ。やむなく始めた弔辞の代筆業が好評を得た男性が、さまざまな依頼主と出会う中で新たな一歩を踏み出していく。監督などを手掛けるのはリウ・ジアイン。『鵞鳥の夜』などのフー・ゴー、『西湖畔に生きる』などのウー・レイのほか、チー・シー、ナーレンホアらがキャストに名を連ねる」

 ヤフーの「あらすじ」は、「ウェン・シャン(フー・ゴー)は大学院まで進むものの、脚本家としてなかなか芽が出ずにいる。不思議な同居人のシャオイン(ウー・レイ)と共同生活を送る彼は、葬儀場で弔辞の代筆業のアルバイトをしながら生計を立てていた。丁寧な取材に基づいたウェン・シャンの弔辞は好評だったが、中途半端な今の自分の状態に彼は悩んでもいた」となっています。
 
 この映画、もっと感動できるかと思っていましたが、残念ながらそうではありませんでした。あまりにも物語に起伏がなく、また、画面が暗かったこともあって睡魔に襲われた次第です。その睡魔を打ち破ったのは、つねにスクリーンの中のスマホの着信音でした。これがものすごく音量が大きいのです。ただでさえストレスを与える着信音がさらにストレスフルになっていました。主人公の弔辞の代筆業という仕事はそもそも日本には存在しませんし(会葬礼状を作成する広告代理店は存在します)、存在したとしても個人が生計を立てるのは難しいでしょう。主人公と親しい葬儀社の社員は独立して「葬儀アプリ」の会社を立ち上げようとします。彼は「弔いも、墓も、バーチャルで実現したい」と意気込むのですが、なんだかどこかの互助会の新規事業みたいだなと思いました。
 
 いずれ、弔辞はChatGPTによって書かれるのでしょうか? いや、すでにもうかなりの弔辞がAIによって書かれていることでしょう。わたしは、これまで多くの葬儀に参列し、多くの弔辞を聴いてきました。まことに弔辞とは胸を打つもの。一条真也の読書館『弔辞 劇的な人生を送る言葉』で紹介した本のカバー前そでには、「わずか数分に凝縮された万感の思い。故人との濃密な関係があったからこそ語られる、かけがえのない思い出、知られざるエピソード、感謝の気持ち。作家、政治家、俳優、歌手、漫画家、芸人、スポーツ選手まで、二十世紀を彩った50人への名弔辞を収録」と書かれています。同書を読んで、弔辞もまた文学、いや弔辞こそ文学であると思いました。まさに「こころの文学」です! しかしながら、最近の葬儀は直葬など小規模葬儀が多くなっており、葬儀という最期のセレモニーの中で生前に親しかった方より弔辞をいただく場面をあまり見なくなりました。本当に寂しい限りですね。
 
「来し方 行く末」の主人公は弔辞ライターですが、遺族から故人についての情報をいろいろと聞き出します。それはまるで殺人事件を調査する探偵のようでもありますが、亡くなった人について調べる点では探偵も弔辞ライターも基本的には同じです。わたしは、一条真也の映画館「悼む人」で紹介した2015年の日本映画を思い出しました。ベストセラー作家・天童荒太の直木賞受賞作『悼む人』を堤幸彦が映画化した作品です。亡くなった人が生前「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」を覚えておくという行為を、巡礼のように続ける主人公"悼む人"こと坂築静人と、彼とのふれ合いをきっかけに「生」と「死」について深く向き合っていく人々の姿を描いた名作です。天童が『悼む人』を書くに至った発端は、2001年、9・11アメリカ同時多発テロ事件、およびそれに対する報復攻撃で多くの死者が出たことだったそうです。
 
 わたしは、葬儀やグリーフケアに関する映画は必ず観るようにしています。この「来し方 行く末」はまさにそのジャンルですが、予告編を観て、一条真也の映画館「おくりびと」で紹介した2008年の日本映画を連想しました。楽団の解散でチェロ奏者の夢をあきらめ、故郷の山形に帰ってきた大悟(本木雅弘)は好条件の求人広告を見つけます。面接に向かうと社長の佐々木(山崎努)に即採用されますが、業務内容は遺体を棺に収める仕事でした。当初は戸惑っていた大悟でしたが、さまざまな境遇の別れと向き合ううちに、納棺師の仕事に誇りを見いだしてゆきます。「おくりびと」は、「死」という万人に普遍的なテーマを通して、家族の愛、友情、仕事への想いなどを直視した名作です。「おくりびと」の主人公は音楽家志望でしたが、「来し方 行く末」の主人公は脚本家志望。設定がよく似ているので、「来し方 行く末」は「おくりびと」のオマージュ的作品ではないかと推測したのです。
 
 古今東西の葬儀映画の中でも最高傑作である「おくりびと」で最も興味深く感じたのは、納棺師になる前の主人公の仕事がチェロ奏者という音楽家だった点でした。チェロ奏者とは音楽家であり、すなわち、芸術家です。芸術の本質とは、人間の魂を天国に導くものだとされます。素晴らしい芸術作品に触れ心が感動したとき、人間の魂は一瞬だけ天国に飛びます。絵画や彫刻などは間接芸術であり、音楽こそが直接芸術だと主張したのは、かのベートーヴェンでした。すなわち、芸術とは天国への送魂術なのです。拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)の「芸術論」にも書きましたが、わたしは、葬儀こそは芸術そのものだと考えています。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」にほかならないからです。人間の魂を天国に導く芸術の本質そのものなのです。
唯葬論』(サンガ文庫)



 フー・ゴーが演じる「来し方 行く末」の主人公ウェン・シャンは、脚本家を目指していました。彼の脚本にはドラマ性が乏しいということで、葬儀場に人間観察に通ううちに、弔辞ライターとなったのです。確かに、葬儀とは人生の縮図であり、最高にドラマティックなセレモニーです。そこに脚本の修行に来るというのは的を得ています。それと、彼が書く脚本とはTVドラマや映画というより舞台のそれでした。ならば、さらに葬儀とは親和性が高いです。『唯葬論』に詳しく書きましたが、「葬儀も演劇である」からです。もともと世界各地の古代の王の葬礼から演劇という文化が誕生したという説があります。その意味では、葬儀とは演劇の母なのです。
愛する人を亡くした人へ』(PHP文庫)



 また、拙著『愛する人を亡くした人へ』(PHP文庫)にも書きましたが、愛する人を亡くした人の「こころ」は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。この儀式という「かたち」は、「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。死別によって動揺している人間の「こころ」を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。ドラマによって「かたち」が与えられると、「こころ」はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。それは、いわば「物語」の力だと言えるでしょう。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。
 
 物語というものがあれば、人間の「こころ」はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、「こころ」はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。仏教やキリスト教などの世界宗教は、最も大きな物語だと言えるでしょう。死者が遠くに離れていくことをどうやって表現するかということが、葬儀の大切なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために、葬儀というものはあるのです。映画「来し方 行く末」については、前半パートと後半パートに分けてみるとわかりやすい様に感じました。前半パートは主人公であるウェンシャンがさまざまな方の話を聴き他人のために弔辞を書くパート、後半は前半で知り合った人物に主人公自身のことを語り、自分自身の中にあったものをかたちにし、気付くことから自分自身が変わっていくというグリーフケアのパートとなります。
 
 特に後半は傾聴というシーンを見ることができ、そのことから自ら変わっていくというケアの実践を見ることができました。そしてこれは、"図らずとも"そうなっていったという印象で、それが成立する人と人との縁と関係が大切であることを感じられるものでした。ウェンシャンという主人公の名前が中国語で「聞善」だというのがシンボリックです。「聞くことは善いこと」という意味は、まさに傾聴の精神です。また、この映画の英語タイトルである"ALL EARS"にも製作者のメッセージが込められていますね。前半は淡々としていて、人間関係もわかりにくく、主人公に感情移入しにくいように思いましたが、後半の語りから主人公が生きてきたように感じました。

 ウェンシャンは、ずっとクライアントの語りを傾聴するばかりでしたが、ある女性の登場によって、反対に自分が語るようになるのです。語れば、自身の「物語」が展開され、ケアが作動されるように思いました。あと、この映画の特殊なところは、弔辞の物語なのに、肝心の弔辞が読み上げられるシーンが一度も登場しないところです。劇中でウェンシャンがクライアントに取材するシーンは延々と繰り広げられますし、彼が弔辞を仕上げるのに苦労する場面も出てくるのですが、なんと、観客は彼が書いた弔辞の内容を一切知ることができないのです! また、葬儀およびお別れ会のシーンもまったく登場しませんでした。一瞬、葬儀会場の入口は映りましたけど。これはあまりにも不親切な脚本であり、ラストではウェンシャンが書いた弔辞が披露されるシーンを観たかったです!