No.1138
10月9日の朝、富士から東京に移動しました。 いくつかの打ち合わせをした後、夜はイギリス映画「ブライアン・エプスタイン 世界最高のバンドを育てた男」をTOHOシネマズシャンテで観ました。
ヤフーの「解説」には、「『ザ・ビートルズ』を支えたマネージャー、ブライアン・エプスタインの人生に迫るドラマ。無名のローカルバンドだったザ・ビートルズを世界的成功へと導く一方で、彼が人知れず抱えていた苦悩を描く。監督は『アガサと深夜の殺人者』などのジョー・スティーヴンソン。ドラマ『Bodies/ボディーズ』などのジェイコブ・フォーチュン=ロイドが主人公、彼の両親を『奇跡の海』などのエミリー・ワトソンと『おみおくりの作法』などのエディ・マーサンが演じるほか、ロックバンド『ニュー・ホープ・クラブ』のブレイク・リチャードソンやジョナ・リースらが出演する」と書かれています。
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「イギリス・リバプールで家具店とレコード店を兼業する実業家ブライアン・エプスタイン(ジェイコブ・フォーチュン=ロイド)は、ある日地元のクラブ『キャヴァーン』で駆け出しのローカルバンド『ザ・ビートルズ』と出会う。その演奏に衝撃を受けた彼はバンドメンバーにマネージメント契約を持ち掛け、彼らを売り出すべく奔走する。やがて、EMI傘下のパーロフォンからデビューしたザ・ビートルズは世界的人気を博すようになっていく。彼らの活躍を喜ぶブライアンだったが、自身は業務過多によるストレスや、人には言えない悩みを抱えていた」
ブライアン・サミュエル・エプスタイン(1934年9月19日 ~1967年8月27日)は、イギリスの実業家です。1962年6月26日、ビートルズをマネージメントする為の会社「NEMSエンタープライズ」を弟クライブを共同経営者に迎えて設立。ビートルズのマネージャーとして最もよく知られ、彼らからはエピーという愛称で呼ばれていました。なお、彼自身は自分の苗字を常に「エプスティーン」と発音しました。父方の祖父アイザック・エプスタインは、リトアニアからイギリスに移住したユダヤ人(ユダヤ系リトアニア人)。アイザックは、息子ハリー(ブライアンの父)とリヴァプールのウォルトン・ロードで家具店を経営していました。ポール・マッカートニーの家族は、そこでピアノを購入したといいます。
そのブライアンの父であるハリー・エプスタインをイギリスの姪俳優であるエディ・マーサンが演じていました。彼は、一条真也の映画館「おみおくりの作法」で紹介した2015年のイギリス・イタリア映画で主人公のジョン・メイを演じた人物です。公務員のジョン・メイは、ロンドン南部ケニントン地区で亡くなった身寄りのない人々の葬儀を執り行う仕事をしています。いくらでも事務的に処理できる仕事ですが、律儀な彼は常に死者に敬意を持って接し、亡くなった人々の身内を捜すなど力を尽くしていました。糸口が全て途切れたときに初めて葬儀を手配し、礼を尽くして彼らを見送ってきた彼に思いもかけない出来事が起こります。「おみおくりの作法」は、葬儀の本質を示す名作でした。
ブライアン・エプスタインの自伝『地下室いっぱいの騒音』によると、ビートルズの存在を知ったのは、1961年10月28日、レイモンド・ジョーンズというビートルズのファンが、ビートルズの伴奏するトニー・シェリダンの「マイ・ボニー」というシングルを彼の店に買いに来たときだったそうです。店はビートルズのレコードを扱っていませんでしたが、エプスタインと友人のアリステア・テイラーは、演奏を見るために同年11月9日にキャヴァーン・クラブを訪れました。クラブは彼の店から通りを下ったところに位置した。バンドの演奏を見たエプスタインは「私はそれまで、地元のリヴァプールで人気を集め始めていたビート・グループに対して一度も興味の目を向けた事は無かったが、すぐに彼らの音楽、彼らのビート、彼らのユーモアセンスに打たれた」と語っています。
さらにブライアンは、「彼らに会った後でさえ、彼らの個人的魅力に再び心打たれた。そしてそれは全ての始まりだった」と語ります。そんな彼がバンドのマネージャーになってから、ビートルズが一気にスターダムを駆け上がっていきます「エルヴィスを超える」と言えば鼻で笑われ、「痛い目を見るぞ」とくぎを刺されても、ブライアンは誰よりもビートルズを信じました。瞬く間に世界最高のバンドへとのし上がっていくビートルズの横にはいつも彼がいました。次々と成功を収めていくビートルズとは裏腹に、ブライアン・エプスタイン本人は徐々に精神を削られていくのでした。イギリスの港町リヴァプールから世界の頂点に立ったビートルズの成功の影の立役者が辿った激動の人生に胸が締め付けられます。
ブライアンの苦悩を象徴するシーンの1つに、ザ・ビートルズのドラマーであったピート・ベストを外し、代わりにリンゴ・スターを加入させる場面があります。戦力外通知を受けたピートが呆然として「リンゴは友人なのに...」とつぶやいたのが印象的でした。一条真也の映画館「ザ・ビートルズの軌跡」で紹介した2024年のドキュメンタリー映画では、ビートルズがスターダムを駆け上がるまでの前日譚を、関係者へのインタビューなどから紐解いています。ドイツのハンブルクでの巡業やデビュー直前のメンバー交代劇などを、初代マネージャーのアラン・ウィリアムズや解雇されたドラマーのピート・ベストといった、初期のビートルズをデビュー前から知る人々が語ります。
エプスタインは、新入社員のロバート・スティッグウッドに命じて、ビージーズをイギリスへ帰国させ、1967年5月にポリドール・レコードからのデビューに成功させましたが、同年8月27日、アスピリンの過剰摂取で死去しました。満32歳没。死因は自殺であったとしばしば推測されました。というのも、同年9月30日にビートルズとNEMSとの契約が満了すること、ビートルズが公演活動を終了したためにエプスタインの仕事が減り、自分の必要性がそれまでよりなくなってしまい悩んでいたとも言われていました。しかしながら、、検死の結果、死因は偶然の事故とされました。
ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』という本でエプスタインの死について触れられた際、亡くなる前のエプスタインに特に怪しい素振りはなかったことや当時は薬物の誤使用による事故死が多かった点に触れ、全員が自殺説について否定しています。エプスタインは、ビートルズの経歴全ての面を管理していました。彼が死んだ後、メンバーの対立が表面化し、ビートルズは解散に向かうこととなったため、解散の重要な要因となったとも言われています。葬儀はロンドン市内にある墓地で行われ、ビートルズのメンバーは混乱を理由に誰も出席しませんでした。しかし、1967年のエプスタインの死を掲載した日本の音楽誌「ミュージック・ライフ」(シンコーミュージック)によると、ハリスンはひまわりの花を手向けたといいます。
生前公表されることはありませんでしたが、エプスタインは同性愛者でした。ジョン・レノンに惹かれ恋愛感情を抱いていたものの、個人的な感情に基づいて行動した形跡はほとんどありません。1963年4月、2人は4日間のスペイン旅行に出かけました。この際、2人が性的関係をもったという噂が流れました。率直な発言で知られるレノンは、常にこの噂を否定しました。1980年には、プレイボーイ誌の取材に、レノンは「決して頂点に達することはなかったけど、かなり強烈な関係だった」と答えています。マッカートニーも、レノンとエプスタインの関係はプラトニックだったと述べている。映画 「僕たちの時間」The Hours and Times(1991年)は、このスペイン旅行の事実に基づいたフィクションです。
レノンはブライアンとの性的関係の噂には敏感でした。1963年6月18日、マッカートニーの誕生日を祝う席で、当時リヴァプールでDJをしていたボブ・ウーラーがエプスタインとのスペイン旅行に触れた途端、レノンは激怒しウーラーの顔面を何度も殴打したといいます。翌日にはブライアンが謝罪し、これをウーラーが受け入れたことで収まりました。情報が新聞社に届いた際、レノンは「酔っ払いのケンカだよ、本気じゃないさ」と釈明しています。レノンはウーラーに電報を送り、「とにかく悪かった、以上それだけ」と形式的に詫びを入れています。その後も、レノンは亡きブライアンとの関係を否定し続けました。わたしは、ブライアン・エプスタインが同性愛者であったことと、ビートルズの成功を予見したことは無関係ではないと思います。日本のジャニー喜多川の例もあるように、同性愛者の美意識というものはスターを見つけるセンサーになりうるように思えてなりません。