No.1161
日本映画「平場の月」をローソン・ユナイテッドシネマ小倉で観ました。50代のリアルな恋愛を描いた物語ですが、特にロマンティックな展開はありません。でも、堺雅人と井川遥の達意の演技が素晴らしくて、しみじみと泣けました。
ヤフーの「解説」には、「山本周五郎賞を受賞した朝倉かすみの恋愛小説を実写映画化。中学時代の初恋の相手同士である男女が年月を経て再会し、心を通わせていく。『花束みたいな恋をした』などの土井裕泰が監督、『ある男』などの向井康介が脚本を担当。主人公を『DESTINY 鎌倉ものがたり』などの堺雅人、彼の初恋相手を『水霊 ミズチ』などの井川遥、主人公の同級生を『ハゲタカ』シリーズなどの大森南朋が演じるほか、中村ゆり、でんでん、吉瀬美智子、坂元愛登、一色香澄らが出演する」とあります。
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「妻と離婚後に地元へ戻り、印刷会社に再就職して平穏に暮らす青砥健将(堺雅人)は、あるとき中学時代の初恋相手だった須藤葉子(井川遥)と再会する。彼女は夫との死別などつらい過去を抱えながらも、今はパートで生計を立てているという。互いに独り身となり、さまざまな人生経験を重ねてきた二人は、離れていた時間を取り戻すかのように過ごすうちに、再び惹かれ合うようになっていく」
原作は朝倉かすみによる小説ですが、アマゾンの内容紹介には「須藤が死んだと聞かされたのは、小学校中学校と同窓の安西からだ。須藤と同じパート先だったウミちゃんから聞いたのだという。青砥は離婚して戻った地元で、再会したときのことを思い出す。検査で行った病院の売店に彼女はいた。中学時代、『太い』感じのする女子だった。50年生き、二人は再会し、これからの人生にお互いが存在することを感じていた。第32回山本周五郎賞受賞の大人のリアルな恋愛小説」と書かれています。
11月14日の初日舞台挨拶で、堺雅人は「ちょっと意地っ張りな須藤のあの可愛さと、悲しさと、魅力と。それを見守る青砥のあの関係性は、『僕だったらどうするかな』とか、『でもそこがいいんだよなあ。須藤は』とか、そういう気持ちが。僕は原作を読んで、後から後から言葉が出てきたので、皆さんもこの後そういう風になっていただけたら、とても嬉しいなと思っております」と語りました。また堺は、「名前のつけようがないというか。ラブストーリーなんだけど、ラブストーリーだけでもない気がするし...大人の恋なんだけど、大人だけではない気がするし...やっぱり裏には、中学時代の恋がずっと続いているので。宣伝で『こういう映画です』って説明しようとすればするほど、するする逃げていくような言葉があるので」と発言しています。
「平場の月」は、中学生のときの初恋の相手と50代になって再会し、恋愛するというストーリーです。初恋の人との再会ということで、わたしは一条真也の映画館「秒速5センチメートル」で紹介した新海誠原作の日本映画を思い出しました。小学校を卒業後に離ればなれになった少年と少女が、中学1年の冬に再会し、18年後に同じ場所で会う約束を交わす物語です。しかし、幾度もニアミスしながらも、2人は再会することはありませんでした。一方の「平場の月」の2人は再会しています。「秒速5センチメートル」はある意味で恐ろしい話とも囁かれています。主人公の男性はずっと初恋の女性を想い続けて生きており、目の前の恋愛には消極的だからであり、「初恋をこじらせた話」などとも言われているようです。その意味では、再会して恋愛もできた「平場の月」の2人には悔いはないかもしれません。
初恋の相手と再会したといっても、「平場の月」はロマンティックな設定ではありません。再会したきっかけというのも、胃の検査をした青砥が病院の売店で働く須藤に気づいたからでした。数十年ぶりに再会した2人でしたが、話題は病気の話。そのうち、青砥が妻と離婚したことを告白します。須藤にも離婚経験があり、いろいろあって郷里に帰ってきたことを告白。孤独な2人の心は急速に接近します。そのとき、須藤は「これから、ときどき無駄話をして、お互いに励まし合わない?」と提案します。すると、青砥は「互助会みたいなもんだな」と言い、須藤も「そう、互助会!」と言うのでした。互助会を生業とするわたしが、このシーンに感銘を受けないはずがありません。2人は籍こそ入れていませんが、これからの人生を共に生き、励まし合い、助け合っていこうというのです。まさに「互助会」ではありませんか!
わたしは「夫婦は一番小さな互助会」という言葉をよく口にします。結婚によって、男女がひとたび夫婦になると、それは運命共同体になります。キリスト教の結婚式では、「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓います」という言葉を宣誓します。結婚しておいて良かったとしみじみ思うのは「病めるとき」と「貧しきとき」です。結婚というのは、そういう人生の危機を生き延びるための相互扶助システムだと思います。大腸がんに冒された須藤が闘病しているとき、青砥は献身的に支えます。そして、「一緒になろうか?」とプロポーズしますが、これ以上負担をかけたくない須藤は「別れよう」と言います。「彼らがもし結婚していたら...」と思うとやりきれません。
「平場の月」は、若い人よりも中年のための恋愛映画です。50代のリアルというか、病気のエピソードばかり出て来ますし、「ユニクロ」や「しまむら」や「ニトリ」といった庶民感覚の固有名詞がバンバン登場します。つましく生きている青砥と須藤ですが、ときどき行きつけの焼き鳥屋に行って飲むのがささやかな贅沢であり、楽しみです。その店では、薬師丸ひろ子の1981年のヒット曲「セーラー服と機関銃」が流れ、世代的にその歌を知っている2人が一緒に口ずさみます。須藤が亡くなった後、青砥が職場の飲み会でその焼き鳥屋を訪れたとき、店内有線でその「セーラー服と機関銃」が流れます。それを聴いたとき、青砥は須藤が座っていた空の席を眺め、号泣するのでした。わたしは、「本当の悲しみというのは、こんなふうに遅れてやってくるのだ」と思いました。そして、貰い泣きでハンカチを濡らしました。
映画のエンドロールでは、星野源の主題歌「いきどまり」が流れます。この曲について、初日舞台挨拶での堺雅人は「最初に聞いた時は、物語が星野源さんのこの言葉で終わるのだっていうのが、とっても素敵だなと思って。あと『いきどまり』って、行くと止まるの複合動詞なんだけど、行くと止まるもそうだけど、生きるの『いきる』と、留まるの『とまる』っていう意味もあるのかな?と思ったときに、立場と意味がぐるっと反転して。今までさようならのものだったのが、さようならじゃないと思った瞬間に、ゾゾっときました」と回想しています。続けて「ひらがなにしているタイトルは、絶対に意味があるはずなので。なんてすばらしい言葉を最後に残してくれたんだろう、星野源さんはと思って。素敵だなと思いました」と星野による主題歌に感激したことを明かしていました。
青砥の離婚した妻は吉瀬美智子が演じました。彼女が登場するのは青砥の母親、つまり元義母の葬儀です。離婚した元嫁というと、青砥の母や青砥自身に対して喧嘩腰の嫌な女をイメージしていましたが、実際はまったくそんなことはありませんでした。遺体と対面するなり「お母さん!」と泣き崩れ、元夫の青砥にも「大丈夫?」と気遣います。彼女はセレモニーホールを後にするとき、彼女が忘れたハンカチを届けてくれた須藤と出会います。そのときの青砥と須藤のたたずまいを見た元妻はすべてを悟ったのでした。それにしても、元妻が吉瀬美智子で、恋人が井川遥とは、堺雅人が羨ましいですね。こんなに羨ましいのは、一条真也の映画館「サヨナライツカ」で紹介した2009年の韓国映画で、妻が石田ゆり子で、恋人が中山美穂だった西島秀俊以来です!
『葬式は必要!』(双葉新書)
この映画で最も哀しかったのは、須藤が亡くなったとき、彼女自身の遺言によって葬儀が行われなかったことでした。彼女は自分の親を憎んでいました。そして、自分のことも憎んでいました。きっと彼女は自らの人生そのものを否定するがゆえに葬儀を行わなかったのでしょう。しかしながら、拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書きましたが、人が亡くなって葬儀を行わないということは、それは「実存的不安」の問題に繋がります。葬儀を行わないということは、亡くなった人が最初からこの世に存在しなかったことになるという不安です。逆に、葬儀に1人でも参列してくれる人がいれば、亡くなった人が「確かに、この世に存在した」という事実を確認する場となります。葬儀は人間にとって究極の存在証明なのです。けっして豪華な葬儀である必要はありません。どんな質素な葬儀でもよいから、わたしは須藤葉子の葬儀のシーンが見たかったです。きっと、青砥健将は涙で顔をクシャクシャにしながら見送ってくれたことでしょう。
「平場の月」の平場とは、ひらたい地面のことです。「平場の月」という言葉は、特別な場所ではなく、日常の中で見上げる月のことでしょう。映画の冒頭には、2人が幸せに付き合っていた頃、須藤の住むアパートに戻る途中の青砥が、部屋の窓を開けて夜空の月を眺めている須藤の姿を見つけるシーンがあります。「お前、あのとき何を考えていたの?」と問う青砥に対して、須藤は「夢みたいなことだよ。夢みたいなことを、ちょっと」と答えるのでした。映画の肝となる重要シーンです。世界中の老若男女の頭上には月が上ります。そして、どんなに過酷な運命を生きている人間にも、天からは優しい月の光がしんしんと降り注ぎます。
わたしは、「月光は慈悲の見える化」ということを唱えてきました。わたしは、やわらかな月の光を見ていると、それがまるで「慈悲」そのものではないかと思うことがあります。ブッダとは「めざめた者」という意味ですが、めざめた者には月の重要性がよくわかっていたはずです。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放です。東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるのかもしれません。亡くなっても葬儀が行われなかった須藤ですが、青砥の祈りが通じれば、夜空の満月の中に彼女の笑顔が見えることでしょう。


