No.1174


 日本のアニメ映画「ペリリュー ―楽園のゲルニカ―」を、公開翌日となる12月6日に観ました。戦後80年を記念して作られた戦争アニメですが、登場人物が全員3頭身なのと、主人公の「へのへのもへじ」みたいな目には違和感をおぼえましたが、それでもテーマの重さに心を打たれました。

 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「武田一義によるコミックを原作に、太平洋戦争の激戦地として知られるペリリュー島で終戦を知らずに潜伏していた兵士たちを描いたアニメーション。太平洋戦争末期の1944年、激しい戦闘、飢えや病などに苦しむ日本軍の兵士たちの中で、亡くなった兵士の最期を記録する功績係らの行く末が描かれる。ボイスキャストは俳優の板垣李光人や中村倫也、天野宏郷、藤井雄太、茂木たかまさなど。監督をアニメ『魔都精兵のスレイブ』などの久慈悟郎が務める」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「太平洋戦争末期の1944年、ペリリュー島。漫画家に憧れる21歳の日本軍兵士・田丸は、亡くなった仲間の最期の勇姿を描く功績係に任命される。日本軍の兵士たちがアメリカ軍による激しい砲撃により命を落とし、さらには飢えや渇き、伝染病などに追い詰められていく中、田丸は仲間の死を美談に仕立て上げることに疑問を抱く。そして1万人いた兵士は、わずか34人にまで減少していたのだった」

 この映画の原作である武田一義氏の漫画『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』(白泉社)の第1巻のアマゾン「内容紹介」には、「昭和19年、夏。太平洋戦争末期のペリリュー島に漫画家志望の兵士、田丸はいた。そこはサンゴ礁の海に囲まれ、美しい森に覆われた楽園。そして日米合わせて5万人の兵士が殺し合う狂気の戦場。当時、東洋一と謳われた飛行場奪取を目的に襲い掛かる米軍の精鋭4万。迎え撃つは『徹底持久』を命じられた日本軍守備隊1万。祖国から遠く離れた小さな島で、彼らは何のために戦い、何を思い生きたのか──!?『戦争』の時代に生きた若者の長く忘れ去られた真実の記録!」と書かれています。

 武田氏が原作漫画の執筆を続ける中で心にあったのは、2015年に公開された塚本晋也監督・主演の映画「野火」だそうです。大岡昇平の小説『野火』を原作とする戦争映画で、飢餓に苦しみながらフィリピンの山野を敗走する日本兵を生々しく描きました。今年は「終戦の日」を中心にアンコール上映が続いています。武田氏は、「最前線の兵士たちが地べたをはい回るリアリズムが衝撃的。考えさせられることが多かった」と語っています。『ペリリュー』は映画「野火」公開と同じ2015年、ムック本の読み切り作品としてスタートしました。執筆にあたり、武田氏は「子どもから大人まで、多くの人に戦争の悲惨さを伝えるにはどうすればいいのかをすごく考えた」と言います。

「北海道新聞」の能正明記者のインタビューによれば、武田氏は「野火」を見て「いつかこんな作品を描いてみたい」とは思っていたそうです。しかし、実績のある塚本監督も制作費の確保などに苦心したと知り、「零戦や戦艦大和など〝ヒーローメカ〟がないと商業的な動きにはつながらない」とも感じていたといいます。そこで「ペリリュー」で工夫したのは、メカなどが登場しなくても、読み手を引きつける登場人物の造形でした。主人公は「子どもも知っている職業にすることで、今と当時をつなげて感情移入してもらいたい」と漫画家志望にしました。また、それまでも描いてきた3頭身の愛らしいキャラをそのまま生かし、残酷な場面も読み進めやすいようにしました。
 
 武田氏は、作品に取り組む中で多くの生還者から聞き取りを行い2017年には実際にペリリュー島を訪れたそうです。ただ、誠実に進めているつもりでも、取材をしていると「戦争を経験していないあなたが何を描けるのですか」と問われたといいます。同じ質問はメディアからの取材でも度々受けました。武田氏は、「実はよく分からない」とした上で「戦場には自分が作家として描きたい人間社会のさまざまな矛盾が凝縮されている気がするからかもしれない」と明かしています。『ペリリュー』の単行本は本編が全11巻、本編のサイドストーリーをまとめた「外伝」4巻あります。今年ようやく漫画は一段落しましたが、武田氏は「戦後」は終わっていないと感じるそうです。そして、「ペリリュー島は自分がずっと興味を抱き続ける場所に変わりはない。今後も何か描く可能性はあります」とも述べています。

 終戦の前年となる1944年9月15日、米軍におけるペリリュー島攻撃が始まりました。襲いかかるのは4万人以上の米軍の精鋭たち。対する日本軍は1万人。繰り返される砲爆撃に鳴りやまない銃声、脳裏にこびりついて離れない兵士たちの悲痛な叫び。隣にいた仲間が一瞬で亡くなり、いつ死ぬかわからない極限状況の中で耐えがたい飢えや渇き、伝染病にも襲われます。日本軍は次第に追い詰められ、玉砕すらも禁じられ、苦し紛れの時間稼ぎで満身創痍のまま持久戦を強いられてゆくのでした。「戦争終結」の情報が入り、日本兵たちは米軍から投降を呼びかけられますが、徹底持久を続ける者たちは仲間の投降をけっして許そうとしません。戦争中も、戦争後も、地獄は続いていたのです!

 実際の戦場では、華々しく名誉の戦死を遂げる者ばかりではありません。足を滑らせて岩に頭を打って死ぬ者もいれば、正気を失った仲間から射殺される者もいます。そんな無念の死、非業の死を、功績係の田丸は正しいことが何か分からないまま、時に嘘を交えて美談に仕立てます。田丸はそのことに疑念を抱いたりもしますが、上官は「日本にいる遺族にとって、お前の嘘が本当になるのだ。そして、それは死んだ本人の名誉を守ることでもあるのだ」と言いますが、わたしも同感です。田丸の仕事はまさに故人への供養であり、遺族へのグリーフケアでした。そして、それは戦死した日本兵を「英霊」と呼ぶことの理由にもなっていると思いました。

 自分だけ特殊な任務を与えられた孤独な田丸心の支えとなったのは、同期ながら頼れる上等兵・吉敷でした。吉敷はあまりにも銃撃の達人なので、猟師の出身だという噂が立ちますが、実際は農家の1人息子でした。田丸と吉敷は共に励ましあい、苦悩を分かち合いながら、特別な絆を育んでいきます。彼ら以外にも兵士たちには1人1人それぞれに生活があり、家族がいました。誰も死にたい者などいませんでした。全員がただただ、愛する者たちの元へ帰りたかったのです。最後まで生き残った日本兵はわずか34人でした。

 物語の中で、田丸と吉敷と同じくらい存在感を放っているのは、島田洋平です。人望のある彼は田丸や吉敷たちを率いる小隊長として、リーダーシップを発揮します。映画のラストまで彼は重要な登場人物であり続けました。また、小杉三郎は飄々としており、周りの状況を伺いつつ生き延びるために冷静に行動します。泉康市は上官である島田に強い憧れを抱いており、穏やかで心優しい性格です。片倉憲伸は戦闘能力が高く、淡々と敵兵を倒す有能な兵士です。彼らの間には「絆」がありました。「きずな」という文字には「きず」が入っていますが、本当の絆とは身体や精神の傷の共有が不可欠です。その意味で、戦友ほど絆の深い者同士はいないという事実を再認識しました。戦友の絆は最強です!

 戦友の他にも「きず」を共有する「きずな」で結ばれた人々がいます。災害の被災者、事件や事故の犠牲者といった方々です。被災者や犠牲者も身体的および精神的に傷を共有しており、生死を共にするという極限体験も共有しています。しかしながら、戦友にはさらなる「傷」があることに気づきました。それは敵兵を殺したという事実です。人間を殺すという行為は「人」が「鬼」になるということであり、敵を「鬼畜米英」と称して自分たちを「鬼殺隊」のように見立てても、人を殺めた経験は生涯消せない深い心の傷となったことでしょう。「自分は人を殺してしまった。自分は鬼になってしまった」という想いど深い悲嘆はありません。戦争を思い出を決して語ろうとしない老人がよくいましたが、その理由は「人が鬼になる」というトラウマに根差しているのではないかと思います。だからこそ、戦友の間には絆さえも超えた悲しみの縁としての「悲縁」が生まれるように思います。

 主人公の田丸は、戦死した兵士の遺族に手紙を書く功績係でしたが、この映画では終戦後も徹底抗戦する日本兵たちを祖国の家族からの手紙で説得するという描写があり、とても印象的でした。太平洋戦争と手紙といえば、クリント・イーストウッド監督の名作「硫黄島からの手紙」(2006年)を思い出します。戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、アメリカ留学の経験を持ち、西洋の軍事力も知り尽くしている陸軍中将の栗林忠道(渡辺謙)が、本土防衛の最後の砦ともいうべき硫黄島へ向かいます。指揮官に着任した彼は、長年の場当たり的な作戦を変更し、西郷(二宮和也)ら部下に対する理不尽な体罰も戒めるなど、作戦の近代化に着手するのでした。この映画では、手紙が大きな役割を果たします。

 また、一条真也の映画館「雪風 YUKIKAZE」で紹介した今年公開の戦争映画も思い出しました。実在した大日本帝国海軍の駆逐艦「雪風」にフォーカスしたドラマです。ミッドウェー海戦、レイテ沖海戦など、太平洋戦争の激戦をくぐり抜けてきた、雪風の乗組員やその家族らの姿を描きます。1942年6月、ミッドウェー島沖。沈没目前の巡洋艦「三隈」に駆逐艦「雪風」が近づき、先任伍長・早瀬幸平(玉木宏)の指揮のもと、二等水平の井上壮太(奥平大検)ら、海に投げ出された三隈の乗員が救出されます。翌年10月、雪風に水雷兵となった井上や新しい艦長・寺澤一利(竹野内豊)が配属されますが、寺澤がミッドウェー島沖の救助をとがめたことから、彼と早瀬の間に緊張が走るのでした。

 竹之内豊演じる寺澤は、玉木宏が演じる先任伍長の早瀬幸平が戦死した後、兄の無事を祈り続けていた早瀬の最愛の妹・サチ(當真あみ)に向けて慈愛に溢れた手紙を書いて送ります。亡くなった早瀬は妹からの手紙を何よりも楽しみとして、何度も何度も読み返していました。現代ではメールやLINEという便利なコミュニケーション・ツールがあります。いつでも、どこでも、メッセージを相手に送信することができますが、手紙という時間とエネルギーを要するツールがどれほど送られた人の心にエネルギーを与えたことでしょうか。指一本で簡単に送れるLINEメッセージなどとは違って、手紙に記された家族からの近況報告や無事を祈る文面は、当時の日本だけでなく古今東西の世界中の兵士の心を和ませてきました。そんな手紙の持つハートフル・パワーをUruが歌う主題歌「手紙」にはよく表現されています。
 
 戦地から祖国の家族へ書く手紙は、えてして遺書ともなります。そこで思い出す感動作が、一条真也の映画館「ラーゲリより愛を込めて」で紹介した、辺見じゅんのノンフィクション『収容所から来た遺書』を原作にした2022年の映画です。第2次世界大戦が終結した1945年。シベリアの強制収容所では、ソ連軍の捕虜となった山本幡男(二宮和也)ら多くの日本軍兵士たちが収容されていました。わずかな食料しか与えられず、零下40度という過酷な状況下で重労働を強いられる彼らに、山本は「生きる希望を捨ててはいけません。帰国の日は必ずやって来ます」と訴え続けます。山本の信念と仲間を思う行動に勇気づけられる捕虜たち。8年後、山本のもとへ愛妻(北川景子)からのハガキが届き、帰国の日は近いと感じる山本でしたが、その体は病に蝕まれていました。
2025年8月15日付「産経新聞」



 それにしても、先の戦争がいかに多くの日本人の生命を奪い、人生に多大な影響を与えてきたかを想像すると気が遠くなりそうです。戦後80年となる今年の「終戦の日」、8月15日付の「産経新聞」にわが社の意見広告を打ちましたが、そこに「戦争は、歴史の事実であると同時に、人間の心を揺さぶる『巨大な物語の集合体』でもあります。真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ゼロ戦、ビルマ戦線、神風特別攻撃隊、回天、硫黄島の戦い、東京大空襲、戦艦大和、ひめゆり部隊、沖縄戦、広島原爆、長崎原爆、満州侵攻、ポツダム宣言受諾、玉音放送......それぞれ単独でも大きな物語を形成しているのに、それらが無数に集まった巨大な物語の集合体。それが先の大戦だったと思います」と書きました。「ペリリュー ―楽園のゲルニカ―」を観て、ペリリュー戦の物語がそこに加わりました。
死者とともに生きる』(産経新聞出版)



 実際、あの戦争からどれだけ多くの小説、詩歌、演劇、映画、ドラマが派生していったことでしょうか。それらの物語は、未来へと語り継がれることで、はじめて「鎮魂」となります。あの戦争において、約310万人もの日本人が命を落としました。それは、日常を生きていた人々が、ある日突然、戦地に赴き、大地に斃れ、海に沈み、空に散った――名もなき個人の物語の連なりでした。たとえば知覧、沖縄、広島、長崎――この国の各地に刻まれた記憶は、そのひとつひとつが、尊い「いのち」の物語であり、わたしたちの「今」を形づくる礎です。しかしいま、戦争の記憶は次第に遠のき、「終戦の日」の意味すら知らない世代が増えています。そんな現実に、深い寂しさと危機感を覚えます。それでも、わたしは「死者を忘れて、生者の幸福なし」と信じています。そんな想いから、わたしは『死者とともに生きる』(産経新聞出版)を上梓しました。

 ペリリュー島では昨秋、米軍による旧日本兵の集団埋葬地が見つかりました。それを知って、わたしは一条真也の映画館「木の上の軍隊」で紹介した今年公開の戦争映画を連想しました。同作の撮影中、沖縄決戦当時の日本兵と思われる20人相当の遺骨が地中から発見されたそうです。この映画がなかったら、ずっと発見されずにいたと思うと、「ここに埋められているから、見つけて下さい」という死者の念を感じずにはおれません。この他にも、伊江島には多くの遺骨が埋められたままになっているのではないでしょうか。そして、それは伊江島に限りません。海外でも多くの日本兵の遺骨が回収されないままになっています。
前田日明氏と日本兵の遺骨を収集したい!



 ブログ「前田日明氏と対談しました」で紹介したように、今年6月5日にわたしは"永遠の格闘王"こと前田日明氏と対談しましたが、そのとき日本兵の遺骨収集の話題が出ました。前田氏は、「最低限、国としてやるべきことがあります。それが戦没者の遺骨の収集です」と喝破されました。その熱い憂国の想いに頭が下がりました。先の戦争で戦死された英霊の方々は約310万柱。そのうち海外戦没者が240万柱と言われていますが、2020年の時点で約112万柱の遺骨が未収容のままになっています。このうち海外遺骨が約30万柱、相手国の事情により収容が困難な遺骨が23万柱、収容可能な遺骨は59万柱という数字が厚生労働省のホームページに出ています。

 前田氏は、「最終的にはすべての遺骨を収容するのは言うまでもありませんが、収容可能だとわかっている50万柱の英霊をいつまで放っておくつもりなのか」と述べられました。終戦からすでに80年が経っています。戦没者はいまでも戦地だった中国、ロシア、東南アジア、南方諸島などに眠ったままなのだとして、前田氏は「祖国のために散っていった彼ら英霊たちを"帰国"させるのは国としての急務ではないですか? ところが、日本政府は、遺骨の収集にまったく積極的ではありません。発見された遺骨の7割以上は帰国した兵士や引揚者が持ち帰ったものや、遺族や民間団体が手弁当で発掘したものです。国の事業による収容は34万人分しかありません」と述べられました。

 2016年3月、議員立法で「戦没者遺骨収集推進法」が成立。ここで初めて遺骨収集は「国の責務」ということが決まったわけですが、前田氏は「国の責務と決まる? 遺骨収集は最初から国の責務じゃないのかしてあげているボランティアという位置づけだったとでもいうつもりなのか。祖国のために死んだ人たちの遺骨を探すのはどこの国でも、国の責務なのに、この国ではお手伝いをしている感覚だったんですね。だから、遺族たちが手弁当で探すしかなかったし、遅々として進まなかったのです。『戦没者遺骨収集推進法』ができて以降は遺骨収集関連全体で17億円、2019年には23億円、2020年には29億円とやっと多少まともな予算がつくようになりましたが、本来これでは全然足りません」と発言されました。「戦後80年」といいますが、まだ本当の意味で戦争は終わっていません。