No.1181


 U-NEXTでアメリカ映画「ラスト サムライ」を22年ぶりに観ました。ブログ「さらば愛しの映画監督」ブログ「『ラスト サムライ』から『国宝』へ」で紹介したように、映画監督の原田眞人氏の訃報に接したことがきっかけです。昨年の師走も女優・中山美穂さんの訃報に接して一条真也の映画館「Love Letter」で紹介した彼女の主演作を再鑑賞しましたが、このような訃報に導かれての映画鑑賞はとても大切で、これも故人への供養ではないかと思います。
 
「ラスト サムライ」(原題: THE LAST SAMURAI)は、2003年のアメリカの叙事詩的時代劇アクション映画です。エドワード・ズウィックが監督・共同製作し、ジョン・ローガン、マーシャル・ハースコヴィッツと共同で脚本を務めました。主演は共同製作のトム・クルーズで、渡辺謙、ティモシー・スポール、ビリー・コノリー、トニー・ゴールドウィン、真田広之、小雪、小山田真らが出演。日本の映画監督であり原田眞人も出演、日本の大臣で実業家でもあった大村松江を演じました。本作は日本人俳優がハリウッドに進出する契機となり、渡辺謙や真田広之は外国映画に数多く出演しています。
 
 明治維新直後の日本。政府は軍事力の近代化を図ろうと西洋式の戦術を取り入れることを決断。一方で前時代的な侍たちを根絶させようと企んでいました。やがて、政府と発展著しい日本市場を狙うアメリカ実業界との思惑が一致、政府軍指導のため南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)が日本にやって来ます。彼はさっそく西洋式の武器の使い方などを教え始めますが、ある時、政府に反旗を翻す侍のひとり、勝元盛次(渡辺謙)と出会います。そして、彼ら侍たちの揺るぎない信念に支えられた"サムライ魂"を感じ取った時、オールグレンは失いかけたかつての自分を思い出していくのでした。
 
「ラスト サムライ」の日本での興行収入は137億円、観客動員数は1410万人と、2004年度の日本で公開された映画の興行成績では1位となりました。一方、本国のアメリカでは2003年12月1日にプレミア上映されたのち、12月5日に2908館で公開され、週末興行成績で初登場1位になっています。その後も最大で2938館で公開され、トップ10内に7週間いました。興行収入は1億ドルを突破し、2003年公開作品の中で20位でした。日本人俳優が海外に進出する1つの契機を築いただけでなく、日本文化そのものを象徴する「武士道」の存在とその魅力を世界中に知らしめたという意味でも、「ラスト サムライ」は映画史に残る重要な作品であると思います。

「ラスト サムライ」はワーナー・ブラザーズなどが製作したアメリカ映画ながら、日本を舞台に日本人と武士道を偏見なく描こうとした意欲作です。多数の日本人俳優が起用されたことも話題を呼びましたが、その中でも「勝元」役を演じた渡辺謙は、ゴールデングローブ賞助演男優賞、ならびに第76回アカデミー賞助演男優賞にノミネートされました(いずれも受賞には至らず)。戦闘シーンの苛烈さや、一部に介錯シーンなどを含むため、アメリカ公開時はR指定(17歳未満の鑑賞は保護者同伴が必要)となっている(日本では全年齢指定)。興行収入は4億5600万ドルで、公開当時、演技、脚本、監督、スコア、映像、衣装、メッセージなどが高く評価されました。また、アカデミー賞4部門、ゴールデングローブ賞3部門、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞2部門など、数々の賞にノミネートされました。
 
 トム・クルーズが演じるのは、アメリカ第7騎兵連隊のネイサン・オールグレン大尉です。彼は、かつてアメリカの先住民との戦いで心に深い傷を負った南北戦争の英雄でした。日本政府に雇われ、近代的な軍隊の訓練を指導するため来日するも、勝元率いる反乱軍との戦いで捕虜となります。彼らと共に過ごす中で、武士道の精神や日本の文化に触れ、次第に武士たちの生き方に深く共感していきます。Wikipedeia「ラスト サムライ」には、「この映画のプロットは、1877年の西郷隆盛による西南戦争と、外国勢力による日本の西洋化にヒントを得ているが、映画の中ではアメリカが西洋化を推し進めた主要な勢力として描かれている。また、戊辰戦争で榎本武揚と一緒に戦ったフランス人陸軍大尉のジュール・ブリュネや、常勝軍を結成して中国の西洋化に貢献したアメリカ人傭兵のフレデリック・タウンゼント・ウォードの話にも影響を受けている」と書かれています。

 トム・クルーズが演じる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、江戸幕府のフランス軍事顧問団として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して1868年に起こった箱館戦争(戊辰戦争)を戦ったジュール・ブリュネ(1838年~1911年)は、フランス陸軍の陸軍将校です。江戸幕府陸軍の近代化を支援する目的で派遣されたフランス軍事顧問団の一員として訪日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加しました。ナポレオン3世は開国した日本との関係を深めるため、第15代将軍・徳川慶喜との関係を強め、1866年に対日軍事顧問団を派遣することを決めました。ブリュネはシャルル・シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれたのです。1868年の戊辰戦争ではナポレオン3世に書簡を送り、アメリカやイギリスの軍人が倒幕派に加担していることを伝えています。帰国後は将官に就任。

「ラスト サムライ」は1876年の横浜港から物語が始まりますが、その翌年の1877年には「西南戦争」が起こっています。明治維新の立役者である西郷隆盛が挙兵した戦いで、日本国内における最後の内戦です。「ラストサムライ」で渡辺謙はカリスマ性あふれる武士・勝元を演じましたが、モデルは西郷隆盛だとされています。1828年に鹿児島で生まれた彼は鹿児島藩主島津斉彬に取り立てられます。安政の大獄と斉彬の死を契機に入水自殺を図った後、公武合体を目指す島津久光のもとで活躍するも、久光と衝突し、配流。召還後、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允と薩長連合を結びました。勝海舟とともに江戸城無血開城を実現し、王政復古のクーデターを成功させます。新政府内でも参議として維新の改革を断行。明治6年(1873年)、征韓論に敗れ下野。明治10年(1877年)、郷里の私学校生徒に促されて西郷は挙兵します。これが西南戦争ですが、政府軍に敗北し、西郷は自刃しました。

 トム・クルーズ演じるネイサン・オールグレン、渡辺謙演じる勝元に続いて、「ラスト サムライ」で大きな存在感を放っているのが真田広之が演じる氏尾。勝元に次ぐサムライたちのリーダー格です。見事な剣さばきでしたが、本作以降の真田は拠点をロスに移して、多くのハリウッド映画に出演。世界進出については師の千葉真一からアドバイスを受けており、「(師は)いつも世界市場の未来に目を向けていたので、その姿勢に大きな影響を受けました。おかげで将来、他の素晴らしい俳優や監督と一緒に仕事をするには、どうしたらいいかを考えるようになりました」と話しています。2024年、ディズニープラスSTARオリジナルシリーズで初めて主演とプロデューサーを務めたドラマ「SHOGUN 将軍」がアメリカ合衆国テレビ業界の最高栄誉であるエミー賞にノミネートされ、ドラマシリーズ部門主演男優賞を、2025年1月にはゴールデングローブ賞のテレビドラマ部門主演男優賞をそれぞれ受賞。両賞共に日本人が受賞するのは彼が初めてとなりました。
大村松江を演じた原田眞人



 そして、今年12月8日に76歳で亡くなられた原田眞人監督。「ラスト サムライ」では、俳優として大村松江を演じています。原田監督が本作に出演していることは知っていましたが、失礼ながらチョイ役だと思い込んでいました。それが22年ぶりに再鑑賞して、あまりの存在の大きさに仰天しました。これは、トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之に次ぐ、4人目の男ではないですか! そもそも、大村松江とは何者か。日本の政治家で実業家だということになっていますが、映画スクエアの「大村松江(原田眞人)」の項には「フランスの法律家、ドイツの技術者、オランダの建築家といった多くの外国人を日本に招いて近代化を進めるなど、明治維新後の政府の要人として大きな力を持っている。また、鉄道などの利権を押さえた財閥のリーダーでもある。政府との契約を急ぐアメリカ大使を他国との契約をちらつかせて黙らせるなど、巧みな交渉術も持つ」と書かれています。
大村松江は明治新政府の権化だった!



 大村松江のモデルは1人に限定できません。名前だけなら大村益次郎を連想しますが、その風貌は伊藤博文。キャラクター的には大久保利通、山縣有朋の面影もあります。まあ、明治新政府の権化のような存在、それが大村松江なのでしょう。大村は、新政府に従わない勝元を鎮圧するために軍備を強化し、自らサンフランシスコに渡って軍の教練する人物としてオールグレンやバグリーを日本に連れ帰ります。自らの財閥が関与した鉄道を勝元が襲った時には、兵士が未熟であることを理由に出撃に否定的なオールグレンの意見を受け入れずに出撃。結果として大打撃を受け、オールグレンが勝元に捕らえられてしまいます。その後の忍者による勝元襲撃の首謀者とも見られています。ちなみに明治時代に忍者は存在しないので、これは明らかに時代考証がおかしいですね。

 その後、大村は天皇の命令として勝元を東京に呼び出し、元老院に出席させます。その際に、廃刀令に従わずに刀を持って元老院にやって来た勝元を捕らえて、自宅に謹慎させるのでした。しかし勝元が自宅から村に帰ったことから、鎮圧のための軍を勝元の村に出撃させ、大村は自らが司令官を務めます。勝元やオールグレンの戦術に翻弄されながらも、最後はガトリング銃で勝元の軍を倒すのでした。映画のラスト近くで勝元の刀を献上するためにオールグレンが天皇の謁見に現れた時には、勝元の思いを理解した天皇から叱責されて反論します。だが、「恥辱に耐えられなければこれを使って腹を切れ」と刀を渡され、何も言い返せない姿を見せるのでした。原田眞人、一世一代の名演技には感服いたしました。

 映画「ラスト サムライ」では西南戦争を連想させる戦いが描かれていますが、オールグレンのモデルであるジュール・ブリュネが参戦したのは箱館戦争(戊辰戦争)でした。これも西南戦争と並んで、最後の侍たちの戦いでした。原田眞人監督は一条真也の映画館「燃えよ剣」で紹介した作品を2021年に発表しましたが、これはまさに箱館戦争(戊辰戦争)の物語でした。司馬遼太郎のベストセラー小説を原作にした時代劇ですが、新選組の副長・土方歳三の姿を、近藤勇や沖田総司といった他の志士たちの人生と共に活写します。江戸時代末期、黒船来航と開国の要求を契機に、天皇中心の新政権樹立を目標とする討幕派と、幕府の権力回復と外国から日本を守ることを掲げた佐幕派の対立が表面化。そんな中、武士になる夢をかなえようと、近藤勇(鈴木亮平)や沖田総司(山田涼介)らと京都に向かった土方歳三(岡田准一)は、徳川幕府の後ろ盾を得て芹沢鴨(伊藤英明)を局長にした新選組を結成。討幕派勢力の制圧に奔走する土方は、お雪(柴咲コウ)という女性と運命の出会いを果たすのでした。ラストの函館戦争で土方が散ってゆく映画「燃えよ剣」こそは、まさに原田版「ラスト サムライ」でした!

「燃えよ剣」で主人公・土方歳三を演じた岡田准一は、ブログ「イクサガミ」で紹介した今年11月13日配信開始のNETFLIXの大ヒットドラマでも主演しています。明治11年2月、豊国新聞に「大金を得る機会を与える」との広告が掲載され、その3か月後、5月5日の未明に腕に覚えがある292人が京都・天龍寺に集まりました。始まったのは、7つの掟が課せられた「蠱毒(こどく)」と呼ばれる奇妙な「遊び」。点数を集めながら、東海道を辿って東京を目指せという。参加者には木札が配られ、1枚につき1点を意味します。点数を稼ぐ手段はただ1つ、木札を奪い合うこと。手段は問わない。大金を必要としていた剣客・嵯峨愁二郎(岡田准一)は、12歳の少女・香月 双葉(藤﨑ゆみあ)と共に道を進んでいきますが、強敵が次々出現。金か、命か、誇りか。滅びゆく侍たちの死闘が始まるのでした。この「イクサガミ」も最後の武士たちの姿を描いており、まさに令和版「ラスト サムライ」といえます!

 さて、映画「ラスト サムライ」で登場シーンが短いにもかかわらず圧倒的な存在感を示しているのが明治天皇です。歌舞伎役者の中村七之助が演じました。本作で描かれている当時はまだ若年であった明治天皇ですが、かつて教えを受けた勝元らが近代化に取り残されていく現状に心を痛めています。興味深かったのは、天皇への拝謁シーンです。オールグレンが明治天皇に拝謁する場面は2回ありましたが、最初に「天皇は一般人に姿を見せない。これは異例の名誉で謁見には作法がある。話しかけられたら答え、天皇が立ったら低く頭を下げる」などのアドバイスを受けます。しかし、オールグレンは帯刀して天皇に謁見しており、これは絶対に有り得ないことです。その後、明治天皇も同席する元老院の場で勝元は帯刀して現れ、大村から「廃刀令をご存知ないのか!」と叱責されますが、これも廃刀令うんぬん以前に刀を持って天皇の前に現われるというのは有り得ないのです。もちろん廃刀令が出る以前の江戸時代でもそうでした。

 映画の最後でもオールグレンは明治天皇に謁見しますが、いったん逆賊に加担した彼が天皇に会えること自体が疑問ですね。そもそも、勝元率いる反乱軍と官軍との戦いにおいて、官軍の回転式機関銃ガトリング砲によって勝元を含む反乱軍の全員が死亡しました。そのときオールグレンも勝元の側にいたのに、彼だけが生き残ったのも不思議です。というか、脚本の粗さを感じました。生き残ったオールグレンは明治天皇に拝謁。そこで勝元の生きざまを語り、遺刀を渡しました。受け取った天皇は勝元の刀と彼の教えを取り戻し、結んだばかりのアメリカとの契約を破棄。全てを水の泡にされ激怒する大村でしたが、決意を新にした天皇に完全に説き伏せられます。そして天皇はオールグレンに勝元の「死に様」を尋ねました。オールグレンは彼の「生き様」を話し、勝元の遺志を伝えました。それは日本が真に近代国家に生まれ変わるための、勝元からのメッセージでした。

 映画「ラスト サムライ」で描かれている侍たちはあくまでアメリカ人から見たそれであり、ジャポニズムもあってかなり武士道が美化されているという批判もあります。ただ、この映画が「武士道とは何か」を考えさせる作品であることは事実です。武士道と言えば、誰しも思い浮かべるのは一条真也の読書館『武士道』で紹介した新渡戸稲造の名著でしょう。 明治32年(1899年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本の目覚しい歴史的活躍を通していかに見事にその卓見を実証していったか、いまでは想像もできないほどのものでした。ことに、義和団の乱、日清戦争、日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して、です。のみならず、自らの潔い死がありました。こうしたふるまいは、すべて、極東の未知のこの小国における、他のどこにもない「ブシドー」という、ある生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂しました。
「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版)



 わが最新作『「鬼滅の刃」と日本人』(産経新聞出版)でも指摘しましたが、現在世界中のエンタメ界を席捲している「鬼滅の刃」の物語には、神道・儒教・仏教の三宗教のメッセージが溢れています。ブッダが開いた仏教、孔子が開いた儒教は、日本人の「こころ」に大きな影響を与えました。加えて、日本古来の信仰にもとづく神道の存在があります。神儒仏が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるでしょう。「日本人の心の三本柱」である神道・儒教・仏教の三宗教は日本において共生しました。そして、三宗教は混ざり合って、武士道の中で合体を果たしました。そのことを初めて明言したのが新渡戸稲造の『武士道』だったのです!

 武士道とは、いったい何か。「日本に武士道あり」と世界に広く示した新渡戸は、「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土地に固有の花、それが武士道である」と述べています。それは、日本史の本棚の中に収められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の1つではありません。それは、今なお、わたしたちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象です。それは、手にふれる姿や形は持ちませんが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今もわたしたちを引きつけてやまない存在なのです。新渡戸博士は「武士道は、舞台のサムライが花道を去るがごとく、遠からず消えていく運命にある」との予言を残していましたが、栄光につつまれて昭和八年(一九三三年)に世を去りました。当然、後の世に、自分の「予言」が的中したか否かを知ることはなく。はっきり言えば、「戦後日本」は博士の予言は的中したと信じました。つまり、日中戦争から太平洋戦争にかけて、武士道は失われたのだ、と日本人自身が思ったのです。
知覧特攻平和会館の前で



 しかし、日露戦争に比べれば日本の欠点がすべて出たような先の戦争においても、武士道は発揮されたとわたしは考えています。ブログ「知覧特攻平和会館」で紹介した鹿児島の知覧にある施設を訪れたとき、それを強く実感しました。わたしは、沖縄の「ひめゆり祈念資料館」や「広島原爆資料館」のごとく戦争の悲惨な記憶をとどめる資料館として知覧特攻平和会館をイメージしていました。しかし、一歩館内に入るなり、身体が凍りついたような状態になりました。そこには千を超える死者の顔写真や遺書や辞世の歌などが展示されていました。遺書や辞世に書かれた字および内容はどれも立派で、現在の若者のそれとは比較にもなりません。どれにも、自分は死んでゆくけれども、残った家族や国民には健康で幸福な人生を送ってほしいというメッセージが記されていました。よく言われるように、それは軍国主義における洗脳教育の賜物かもしれません。でも、「自己犠牲」という武士道の伝統をわたしはそこに見たのです。南の空に散っていった神風特攻隊の少年や青年たちはサムライでした!

 出撃の前日、数名の少年兵たちが子犬を囲んでいる有名な写真があります。「朝日新聞」の記者に求めに応じて撮影された写真ですが、明日出撃の命令を受けた直後の17・18歳の少年たちが、やさしい笑顔で捨てられた子犬を慰めているのです。明日、確実に死ぬとわかっているのに、子犬に思いやりをかける!わたしは、この写真を初めて見たとき、泣けて泣けて仕方がありませんでした。『葉隠』に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とあるように、かつての武士たちは常に死を意識し、そこに美さえ見出しました。生への未練を断ち切って死に身に徹するとき、その武士は自由の境地に到達するといいます。そこでもはや、生に執着することもなければ、死を恐れることもなく、ただあるがままに自然体で行動することによって武士の本分を全うすることができ、公儀のためには私を滅して志を抱けたのです。

 三島由紀夫が愛してやまなかった『葉隠』にある「武士道といふは死ぬ事」の一句は実は壮大な逆説であり、それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学の箴言なのです! そして、まさにその生の哲学を、私は知覧の記念館でくっきりと見せつけられたのです。特攻隊員は自ら死を望んだのではなく、軍部によって殺されただけではないかという意見もあろうかと思います。しかし、おそらくほとんどが死の前日に撮影されたであろう彼らの遺影には、一切を悟った禅僧のような清清しさがありました。彼らは、決して犬死にをしたのではなく、その死は武士の切腹であったと確信します。いくら長生きしても、だらだらと腐ったような人生を送る者も多いけれども、彼らは短い生を精一杯に生き、精一杯に死んでいったのではないでしょうか。

 そして、「いま甦る、武士道の美学 真のラスト・サムライとは誰か」にも書きましたが、戦後最大のタブーであるA級戦犯と呼ばれる人々に関しても、そこには武士道が存在したという見方があります。巣鴨のA級戦犯たちの最後の様子を記録したレポートなどを読むと、「仏室」の外の廊下で、二班に分かれた死刑囚が、手錠をはめられた手でコップを持ち、末期の水ならぬワインを飲んでから、それぞれ両脇の看守兵を見やって、「ご苦労さん、ありがとう」と声をかけたそうです。慣習からして、思いもかけないことが起こったため、これを見て感動した周囲の米軍将校たちは、わらわらと駆け寄って、手錠に手を重ねたといいます。それから、緊縛された両手を挙げての、声をかぎりの「天皇陛下万歳!」があり、二度の、ばたんという刑場の落とし戸の音が響きました。A級戦犯と呼ばれた人々は、むろん、聖人ではありません。それどころか多くの国民を死なせた責任、何よりも戦争に負けた責任を背負う、断罪された6人の軍人と1人の文官にすぎません。しかし、終焉を待つ心境の深さにおいて、日本人として恥ずべきものは何もありませんでした。

 死に方に現われない生き方はありません。そして至高の死に方を辞世に託する武士道文化は、日本しかありません。従容として死を迎える覚悟を詠んだ彼らの辞世の数々を読んで、そこに共通に表現された「平和日本の人柱」との自覚は、罪状とされた「平和・人道に対する罪」の呪わしさとは、およそ正反対のものであったのです。「ニュールンベルク裁判」は、東京裁判に先立つこと2年2カ月、1946年に死刑執行をみています。死刑宣告を受けた12人中、1人は逃亡していましたし、ゲシュタポの巨魁、ゲーリングは執行前夜に獄中で自殺。このことが日本側の受刑者たちにわざわいして、自殺防止のため夜通し白燭電灯を煌々と独房にともされ、不眠の苦痛を強いる結果になりました。運命との正面対決を受け入れた日本人受刑者にとっては迷惑きわまりない話です。ついに翌日執行を通告しに現われた米軍代表団に向かって、松井石根大将は、「絞首刑で死ぬことは有難い。自殺などしたら意味がない」、東条英機は「あなたがたは警戒しすぎだ。われわれは自殺などしない。立派に死んでいってみせる」と堂々と申し渡しています。

 ナチス戦犯のほうは、そうではありませんでした。残り10人の受刑者に、即日死刑執行を告げに代表団が現われるや、ある者は「ぶっきらぼうに不機嫌な声を吐き出し」、ある者は「絶望し、罵りながら、アメリカの法廷など尊敬するものか」と毒づくありさまでした。裁判中にも、ドイツ戦犯は互いに激しく「罪をなすりあった」り、上からの命令、さらには死んだ仲間のせいでやったんだと他を告発したりの例が目立ちました。まして、死刑宣告のさいの反応は想像に余りあるものだったそうです。日本の場合にも、宣告の瞬間には、当然ながら暴言を吐いたり失神したりの様子が呈されるだろうと、海外の報道陣は興味津々でしたが、その期待はまったく裏切られてしまいました。自若として宣告を聴くや、静かにレシーバーをはずし、のみならず、軽く会釈して退場していく者さえあったのです。なんと皮肉なことか。東京裁判の死刑宣告の際に、わが国の武士道は世界にその存在を広く示したのでした! A級戦犯たちの絞首刑もまた、武士の切腹だったのかもしれません。
 
「世界のクロサワ」と呼ばれた黒澤明監督は、終戦直後に歌舞伎の「勧進帳」を映画化した「虎の尾を踏む男達」を人気のエノケンらを起用して製作しました。そのときの義経や弁慶の一行は、A級戦犯の人数と同じ7人でした。黒澤監督は東京裁判の法廷を「安宅の関」に見立て、連合国側に「武士の情」を求めたのでしょうか。1945年に製作された「虎の尾を踏む男達」ですが、1948年12月23日にA級戦犯たちが処刑された後の1952年に公開されています。戦犯の処刑後、黒澤明監督によって世界の映画史上に輝く大傑作が1954年に作られました。その名も「七人の侍」! 一条真也の映画館「『七人の侍』新4Kリマスター版」で紹介した日本映画史、いや世界映画史に燦然と輝く最高傑作です。現在では、これらは平和の人柱となった人々へのクロサワからのオマージュだとされています。7人の死刑囚は、7人のラスト・サムライだったのです!
2020年1月1日付「朝日新聞」朝刊



 今年は終戦80年。現在わたしたちが謳歌している平和の背後には、多くのサムライたちの犠牲があったことを忘れてはなりません。そして、「死生観は究極の教養である」というわが持論からすれば、武士とは「死を受け容れて美に生きる」という究極の死生観を持った教養人であったと思います。映画「ラスト サムライ」を観た後、わたしは「おそれずに 死を受け容れて 美に生きる そこに開けり サムライの道」という道歌を詠んだのですが、それが15年後の「朝日新聞」の元旦の朝刊で紹介されました。この歌が、ラグビー日本代表強化委員長の藤井雄一郎さんの心に響いたそうです。2020年のラグビー日本代表の面々は、同年最も活躍した「令和元年の顔」でした。ワールドカップで初のベスト8入りした奮闘ぶりは、日本中に感動を与えました。じつは、彼らが心の支えにしていたのが、わたしが詠んだ歌だったと知りました。日本代表は、サムライの美しさを意識したチーム作りをしました。その中心にいた藤井さんは、インターネットで検索し、この歌にたどり着いたそうです。かつての武士が身につけていた潔さや謙虚さを教わる気持ちになったといいます。初めてそれを知ったときは驚きました。
 
 そして、これを知ったわたしは非常に驚くとともに、とても嬉しく感じました。「歌を詠み続けてきて本当に良かった!」とも思いました。わたしは2001年の社長就任のときから「庸軒」の雅号で、短歌を詠んでいます。総合朝礼や社長訓示の際はもちろん、各種の全国責任者会議、竣工記念神事、入社式から創立記念式典に新年祝賀式典まで、とにかくありとあらゆる機会に歌を詠み、社員のみなさんに披露します。そこには当社の「志」を詠み込んでいます。「志」と「詩」と、さらに「死」は本来分かちがたく結びついていました。日本人は辞世の歌や句を詠むことによって、死と詩を結びつけました。映画「ラスト サムライ」でも勝元が辞世の句を作るのに苦心する場面が描かれています。死に際して詩歌を詠むとは、おのれの死を単なる生物学上の死、つまり形而下の死に終わらせず、形而上の死に高めようというロマンティシズムの表われだと言えるでしょう。そう、それは日本的「ロマンティック・デス」なのです!

 そして、死と志も深く結びついていました。死を意識し覚悟して、はじめて人はおのれの生きる意味を知ります。有名な坂本龍馬の「世に生を得るは事を成すにあり」という言葉こそは、死と志の不可分の関係を解き明かしたものにほかなりません。来年はサンレー創立60周年のアニバーサリー・イヤーですが、これまでに詠んだ道歌を選んで『禮の言霊』という歌集を講談社から上梓する予定です。著者名は、もちろん雅号の「庸軒」です。わたしは、これからも多くの歌を詠み続けていき、生涯に1万首は詠みたいと願っています。最後に、「天高く 手を伸ばせども 届かねば 歌に託さん わが志」という歌を披露したいです。
道歌で「禮の言霊」を伝えたい!