No.1183


 12月17日、打ち合わせと会議の間の時間を縫って、アメリカ映画「エディントンへようこそ」をTOHOシネマズ日比谷で観ました。監督今年最後の東京での劇場鑑賞映画でしたが、正直イマイチでしたね。終盤は面白かったですが、なにぶん148分の上映時間が長過ぎました。鬼才アリ・アスター監督の最新作とあってかなり期待したのですが......。
 
 ヤフーの「解説」には、「2020年、アメリカ・ニューメキシコ州の小さな町エディントン。新型コロナウイルスによるロックダウンに住民が不安と不満を募らせる中、保安官ジョー(ホアキン・フェニックス)は、IT企業誘致に熱心な市長テッド(ペドロ・パスカル)とマスク着用をめぐって対立したことから、市長選に立候補する。ジョーとテッドの選挙戦が白熱し、人々はフェイクニュースと憎悪がまん延するSNSにのめり込む。一方、ジョーの妻ルイーズ(エマ・ストーン)は、ある配信者(オースティン・バトラー)の動画を見て陰謀論者になってしまう」と書かれています。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「『ミッドサマー』などのアリ・アスターが監督を務め、ホアキン・フェニックス、ペドロ・パスカルらが出演したドラマ。新型コロナウイルスによるロックダウンが続く町を舞台に、マスク着用をめぐる保安官と市長の対立から思いも寄らない事態が起きる。『哀れなるものたち』などのエマ・ストーンのほか、オースティン・バトラー、ルーク・グライムスらが共演する。第78回カンヌ国際映画祭にて上映された」

 1986年生まれで、現在37歳のアリ・アスター監督は、これまでに2本しか映画を作っていません。1本目は、一条真也の映画館「ヘレディタリー/継承」で紹介した2018年の作品です。主演は、トニ・コレットが務めました。家長の死後、遺された家族が想像を超えた恐怖に襲われるホラー映画です。ある日、グラハム家の家長エレンがこの世を去る。娘のアニーは、母に複雑な感情を抱きつつも、残された家族と一緒に葬儀を行います。エレンが亡くなった悲しみを乗り越えようとするグラハム家では、不思議な光が部屋を走ったり、暗闇に誰かの気配がしたりするなど不可解な現象が起こるのでした。予告編の印象から、わたしはエレンが魔女か何かで、その血統を孫娘が受け継ぐ話かなと思っていたのですが、その予想は完全に裏切られました。「継承」には、もっと深い意味があったのです。
 
「ヘレディタリー/継承」に続くアリ・スターの監督第2作目は、一条真也の映画館「ミッドサマー」で紹介した2019年のサイコロジカルホラー映画です。主演はフローレンス・ピュー。アメリカの大学生グループが、留学生の故郷のスウェーデンの夏至祭へと招かれますが、のどかで魅力的に見えた村はキリスト教ではない古代北欧の異教を信仰するカルト的な共同体であることを知ります。この村の夏至祭は普通の祝祭ではなく人身御供を求める儀式であり、白夜の明るさの中で、一行は村人たちによって追い詰められてゆくのでした。伝承に基づく村の恐ろしい奇習を題材にしたフォークロア・ホラーですが、本当に怖い映画でした。
 
 わたしは古今東西の怪奇幻想映画を鑑賞しており、ホラー映画にはかなりうるさいです。そのわたしが保証しますが、「ヘレディタリー/継承」も「ミッドサマー」も、ホラー映画の大傑作でした。しかし、一条真也の映画館「ボーはおそれている」で紹介した2024年のアリ・アスターの監督第3作目は失敗作だと思いました。日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男性・ボー(ホアキン・フェニックス)は、ある日、直前まで電話で会話していた母親が死んだという知らせを受けます。母親のもとへ向かうべくアパートを出ると、世界は様変わりしていました。現実なのか悪夢なのかも分からないまま、次々に奇妙な出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしか壮大な旅へと変貌していくのでした。同作は映画としての完成度が低く、何よりも179分の上映時間の長さに腹が立ちましたね。もっと、しっかり編集しないと!
 
 そして、第4作の「エディントンへようこそ」は残念ながら「ボーはおそれている」の系譜にある作品でした。長くて退屈であるという意味です。アメリカの政治的対立やSNS炎上、陰謀論、そして暴動......本作で描かれるカオスは、いずれも日本人にはわかりにくいものばかりです。148分の上映時間のうち、前半はとにかく退屈でしかありませんでした。新型コロナウイルスによるパンデミックは、あまりにも非現実的な現実でした。アスターはそんなコロナ禍に本作の脚本を書き始め、さらに「Twitter(現X)に住んでいるようなものだった」というくらいSNSに浸かってリサーチをしたそうです。
 
「SINRA」でのインタビューで、アスターは本作について「この映画自体が『アメリカという支離滅裂な瘴気』のようなもの」「ダークコメディであり、風刺であり、スリラーであり、陰謀サスペンスでもある。そして『いまの世界を描いた映画』であってほしい」などと語っています。「この映画で何を描こうと思ったのか、その出発点から伺えますか?」という質問に対して、アスターは「現在のアメリカ、そして世界の状況を描く映画をつくりたいと考えたんです。いま、人々はそれぞれ違う現実のなかで生きています。本作はニューメキシコの小さな町が舞台となっていますが、コミュニティについての物語であると同時に、コミュニティから外れた人々の物語でもある。同じ空間で生きているのに、同じ世界で生きてはいない人々とでも言いましょうか。そして人々が分断され、孤立し、お互いに疎外していると感じたときに人は何をして、何が起こるのか。その『結果』についての映画なのです」と語っています。

 前作「ボーはおそれている」でも絶え間ない不安を描いていましたが、本作もさまざまな不安が渦巻く映画です。「パンデミック下で人々が抱えていた不安をどのように分析したのでしょうか?」という質問に対して、アスターは「ある意味、多くの人々が同じ不安を共有していたことで結束が生まれた面もある。でも違う種類の不安を抱えている人もいました。たとえば、ウイルスや病気を恐れる人々がいる一方で、『個人の自由』が奪われることを恐れる人がいるように。これはとてもアメリカ的な不安です。そして『エディントンへようこそ』は、そんな不安のあり方が分断された人々の物語でもあります。私の一番の不安として、この映画に深く刻み込まれたもの。それは「社会がますます細かく分断され、私たちが一層孤立し、インターネットを中心とした生活環境の新たな規律によって人間が変容していくのではないか」ということです。それはまるで無法地帯のようです。私たちは、いまや、あらゆるものが旧世界のルールに縛られず変化していく模様を目の当たりにしています」と答えています。

 この映画は、「ジョージ・フロイド事件」の影響を強く受けているとされています。2020年55月、ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが白人警官に首を押さえつけられ、死亡した事件です。その様子を捉えた映像が拡散し、警察暴力と人種差別への批判が一気に高まりました。事件は「Black Lives Matter」(BLM)運動を世界的に広げ、大規模な抗議デモが各地で起きました。また、アスターは「ニューメキシコは興味深い場所です。州全体で言えば民主党寄りですが、小さな町の多くは共和党寄りという複雑な状況にある。私が脚本を書くために取材をしていた当時、小さな町に暮らす多くの人々が強い不満を抱えていました。その理由の一部は陰謀論が人々を侵食していたためですが、同時に国全体が分断されすぎていて、どちらの政党が政権を取っても『反対側の支持者』が置き去りにされるような状態だったということも大きな要因でした」と語っています。このへんも、日本人にはわかりにくいことこの上なかったですね。

 アスターはまた、「ニューメキシコには長く複雑な歴史からくる緊張もあります。人種的な怨恨や分断が深く根づいていて、先住民は社会の周縁に追いやられ、ヒスパニック系とメキシコ系はほとんど交流を持たない。そして白人たち、いわゆる『グリンゴ』(スペイン語のスラングでアメリカ人。主に白人男性を指す)が存在する。私自身ニューメキシコ出身ですが、この地におけるそういった関係は映画で探求するに値する興味深いものだとつねづね感じていました。ただ、現代を舞台に南西部の政治を真正面から描く映画を、これまでほとんど観たことがありません。本作は政治を題材にしていますが、特定の政治的な主張をする映画というわけではありません」とも語っています。
コロナ禍中の福岡空港で



「エディントンへようこそ」を観て、わたしはコロナ禍の中の緊急事態宣言を思い出しました。とにかく、新型コロナウイルスの感染拡大は想定外の事件でした。緊急事態宣言という珍しい経験もすることができましたが、一方で、わたしを含め、あらゆる人々がすべての「予定」を奪われました。個人としては読書や執筆に時間が割けるので外出自粛はまったく苦ではありませんでしたが、冠婚葬祭業の会社を経営する者としては苦労が絶えませんでした。
 
 緊急事態宣言の最中、わたしはブログ『コロナの時代の僕ら』で紹介したイタリアの小説家パオロ・ジョルダーノの随想を読みました。この本の著者あとがき「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」は、まことに心を打つ文章です。ジョルダーノは、「僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを。僕は忘れたくない。パンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを」と書いています。この言葉は、わたしの心に響きました。
サンデー新聞」2020年8月1日号



 また、彼は「僕は忘れたくない。家族をひとつにまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを」と述べ、最後に「家にいよう。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼み、弔おう」と書いています。「エディントンへようこそ」の冒頭、マスクをするしないで主人公ジョーとテッド市長がスーパーマーケットの店内で口論をします。そのシーンを観ながら、わたしはジョルダーノの言葉を思い出していました。最後に、とても退屈な映画でしたが、終盤の銃撃戦だけは迫力満点であったことを書き加えておきます。