No.850
2月16日から公開された映画「ボーはおそれている」をシネプレックス小倉で観ました。世界のホラー映画シーンで最もホットなアリ・アスター監督の最新作です。しかも、主演がホアキン・フェニックスとあって、かなり前から楽しみにしていた作品です。感想ですが、冒頭はすごく刺激的でしたが、後半は中だるみしました。寝不足だったこともあって3度も寝落ちし、途中でストーリーがわからなくなる始末。トホホ、上映時間179分は長過ぎるよ
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』などのアリ・アスター監督と、『ジョーカー』などのホアキン・フェニックスが組んだスリラー。ささいなことでも不安になる怖がりの男性が、母親の突然の訃報を受けて帰省しようとするも、その旅路は現実とも悪夢ともつかぬものになっていく。共演には『プロデューサーズ』などのネイサン・レイン、『ストレンジ・アフェア』などのエイミー・ライアン、『ドライビング Miss デイジー』などのパティ・ルポーンらが名を連ねる」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男性・ボー(ホアキン・フェニックス)は、ある日、直前まで電話で会話していた母親が死んだという知らせを受ける。母親のもとへ向かうべくアパートを出ると、世界は様変わりしていた。現実なのか悪夢なのかも分からないまま、次々に奇妙な出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしか壮大な旅へと変貌していく」
1986年生まれで、現在37歳のアリ・アスター監督は、これまでに2本しか映画を作っていません。1本目は、一条真也の映画館「ヘレディタリー/継承」で紹介した2018年の作品です。主演は、トニ・コレットが務めました。家長の死後、遺された家族が想像を超えた恐怖に襲われるホラー映画です。ある日、グラハム家の家長エレンがこの世を去る。娘のアニーは、母に複雑な感情を抱きつつも、残された家族と一緒に葬儀を行います。エレンが亡くなった悲しみを乗り越えようとするグラハム家では、不思議な光が部屋を走ったり、暗闇に誰かの気配がしたりするなど不可解な現象が起こるのでした。予告編の印象から、わたしはエレンが魔女か何かで、その血統を孫娘が受け継ぐ話かなと思っていたのですが、その予想は完全に裏切られました。「継承」には、もっと深い意味があったのです。
「ヘレディタリー/継承」に続くアリ・スターの監督第2作目は、一条真也の映画館「ミッドサマー」で紹介した2019年のサイコロジカルホラー映画です。主演はフローレンス・ピュー。アメリカの大学生グループが、留学生の故郷のスウェーデンの夏至祭へと招かれますが、のどかで魅力的に見えた村はキリスト教ではない古代北欧の異教を信仰するカルト的な共同体であることを知ります。この村の夏至祭は普通の祝祭ではなく人身御供を求める儀式であり、白夜の明るさの中で、一行は村人たちによって追い詰められてゆくのでした。伝承に基づく村の恐ろしい奇習を題材にしたフォークロア・ホラーですが、本当に怖い映画でした。
わたしは古今東西の怪奇幻想映画を鑑賞しており、ホラー映画にはかなりうるさいです。そのわたしが保証しますが、「ヘレディタリー/継承」も「ミッドサマー」も大傑作でした。しかし、アリ・スターの監督第3作目となる「ボーはおそれている」が大傑作かというと、そうは思えませんでした。前2作に負けないぐらい変な映画ではあるのですが、ただ変なだけというか、映画としての完成度が低いように思いました。前2作はハラハラドキドキで最後までまったく飽きませんでしたが、「ボーはおそれている」は179分という上映時間がひたすら長く感じられて、「あと、どれぐらいあるのかな?」「早く終わらないかな?」と思ってしまいました。
「ボーはおそれている」が物語の変化が少ない退屈な映画というわけではありません。一応、次から次に想定外の出来事が起こっていきます。その奇想天外な展開は、一条真也の映画館「哀れなるものたち」で紹介したイギリス映画にも通じると思いました。この作品は、ヨルゴス・ランティモス監督とエマ・ストーンが再び組み、スコットランドの作家アラスター・グレイによる小説を映画化したものです。天才外科医の手により不幸な死からよみがえった若い女性が、世界を知るための冒険の旅を通じて成長していく物語です。「哀れなるものたち」はエマ・ストーンの、「ボーはおそれている」はホアキン・フェニックスの、それぞれのフルヌードがスクリーンに大映しになって観客は度肝を抜かれますが、ドラマの面白さは圧倒的に「哀れなるものたち」が上で、上映時間の141分がアッという間でしたね。「ボーはおそれている」も、「哀れなるものたち」ぐらいの時間に編集されていれば良かったかもしれません。
アリ・アスター監督といえば、前2作ともにホラー映画の歴史を覆す問題作を発表し、マーティン・スコセッシら名だたるフィルムメーカーたちが称賛し、かつ影響を受けていると公言しています。3作目にしてすでに映画界の流れを作る監督といえるアリ・アスターと、 一条真也の映画館「ジョーカー」で紹介した問題作をはじめ、ブログ「ナポレオン」で紹介した歴史映画など数々の出演作で見せる壮絶な役作りや鬼気迫る演技で現代最高の俳優として知られるホアキン・フェニックスがタッグを組んだ「ボーはおそれている」は、本当に楽しみにしていたのですが・・・。とにかく、ボーの不安と恐怖が痛々しいまでに伝わってきましたね。それにしても、「ジョーカー」といい、この映画といい、最高にイカれた役ばかり演じるホアキン・フェニックスの精神状態を心配してしまいます。
それにしても、「ボーはおそれている」ほど、ストレスフルな映画はないでしょう。冒頭、ボーが寝坊して飛行機の出発時間が迫っているシーンは特に嫌でしたね。わたしも出張が多いので、常に「飛行機に乗り遅れないか」というストレスを心に秘めているからです。ボーは慌てて支度をしますが、部屋のドアに差したままにしていた鍵を怪しい住人に盗まれたり、大家に連絡したら詐欺商法と間違われて電話を切られたり、気分を鎮めるために飲んだ錠剤が水なしでは危険だったのにペットボトルの水を切らしていたり、部屋の水道がおかしくなって蛇口から水が出なくなっていたり、コンビニに駆け込んで水を買おうとしたらクレジットカードが使えず、現金もギリギリ足りなかったり。まあ、次から次にボーにストレスを与えるトラブルが波状攻撃のように襲ってくるのです。これは観客の精神にもダメージを与えるヤバい映像です。心臓が弱かったり、心が弱っている人は注意が必要な映画だと思いました。
最近、俳優の佐藤二朗さんがカミングアウトしましたが、世の中には強迫性障害の人がいます。強迫性障害とは、実際にはありえない事柄や状況に対する不安感に、それが不合理でバカバカしいと分かりながらも過度にとらわれ、その不安を解消するために一見無意味で過剰と思われるような行動を繰り返す病気のことです。具体的には、何度も確認したにもかかわらず、「家の鍵をかけたかどうか」を不安に思って繰り返し家に戻ったり、汚物などを触ったわけでもないのに「手に病原体がついている」ことを気にして何時間も手を洗い続けたりすることを指します。「ボーはおそれている」という映画は、強迫性障害の人にはけっこうキツイ内容だと思います。そして、数々のストレスの中でも最大のものは、「母親が亡くなったので、実家に帰って葬儀をあげなければいけないのに、トラブル続きで帰れない。葬儀は延ばされ、遺体はどんどん傷んでいく」というものでした。これは最悪のストレスの1つでしょうね。
「ボーはおそれている」は、全部で4幕から成り立っています。最初の第1幕は最高に刺激的で面白いのですが、あとはテンポが悪くなって面白くなくなっていきます。最後の第4幕はドラマが大きく動き、パティ・ルポーン演じる母親とボーが対峙します。「えっ、ボーの母親って死んだんじゃなかったの?」と観客は驚きますが、ここから世にも奇妙な物語が展開。この母と息子には常人では計り知れない複雑で歪んだ関係が存在したことを知ります。スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン演じる精神分析医がこの母子をカウンセリングするのですが、 この男がとにかく不気味でした。それ以上に不気味なクリーチャーまで登場するのですが、その怪物がどうやらボーの父親らしいのです。もう、わけがわかりません。
そもそも、起業家で富豪の母親がいながら、その息子であるボーが治安最悪で危険極まりない地区の安アパートに住み、精神分析医に通って薬も飲まされているというシチュエーションからして謎だらけです。こう言っては身も蓋もありませんが、この映画そのものが精神を病んだボーの長い長い悪夢だったように思えました。最後に、映画の中で、ボーの誕生日は1975年5月10日だと明かされました。現在52歳というわけですが、5月10日といえば、わたしの誕生日と同じではありませんか! わたしは60歳ですが、なんだか彼に親近感が湧いてきました。ここまで書いて当ブログ記事をUPした後に、映画評論家の町山智浩氏が「ボーはおそれている」について解説した動画を観たのですが、新発見がありました。
その新発見とは、主人公ボーも監督のあり・アスターもユダヤ人であったということです。この映画で、ボーは基本的に善人なのですが、とにかく酷い目に遭い続けます。何にも悪いことをしていないのに他人から暴力をふるわれたりしながら、「ごめんなさい。ぼくが悪かったんです。すいません」と謝り続けています。町山氏いわく、アメリカで「I'm sorry. I'm sorry.」ってやたらと言っていると「日本人はやたらと謝るね」とか言われるそうです。町山氏がアリ・アスター監督にインタビューしたとき、「このボー君、『I'm sorry.』って言いすぎですね」と言ったところ、監督は「すいません、すいません」と謝ったそうです。町山氏が「なんでそんなに謝るの?」と質問したら、「ぼくはユダヤ系なんだ。ユダヤ系っていうのはなにか、いろんなものに謝りながら。『すいません、すいません』って言いながら生きてるんですよ」と答えたといいます。
アリ・アスター監督いわく、ユダヤ人が謝りながら生きていることの根本には、ユダヤ人が信仰している『旧約聖書』に理由があるそうです。『旧約聖書』というのは「古い契約」という意味で。ユダヤ系の人々が昔、神様とした契約が書いてある本です。その中に「ヨブ記」という書が含まれています。これがユダヤ人にとって、ものすごく重要だとアリ・アスター監督は言ったそうです。というのは、ユダヤ人はもう2000年間、その国を失って差別されてきたわけです。その国を失った理由も、ユダヤ教の神と契約して、その通りに生きようとしたためでした。イスラエル王国、ユダヤ王国というのはローマ帝国の中の属国でしたが、ローマ帝国に対して反乱を起こして、国自体を解体させられたのです。それで、2000年間、国のない民として非常に差別され続けた。ナチスには、ホロコーストで皆殺しされそうになりました。町山氏は、ユダヤ人について「だから、みんながヨブなんですよ。ユダヤ系の人って。『なんでこんな真面目に生きていて、神様を信じているのに、なんでこんなひどい目に遭うの? 訳がわかんないっすよ!』っていうことなんで」と語っています。
映画「ボーはおそれている」はイスラエルのガザ攻撃の前に製作されましたが、現在、イスラエルでユダヤ人たちは2000年ぶりに支配する側に回りました。ずっと支配されてきた民が、いったん支配をする側に回ったら、やっぱり独裁的に振る舞うわけです。町山氏は、「それこそ子供を何千人も今、殺してるんですよね。だからなんだろう?って・・・・・・人間ってなんだろう?って俺は思っちゃうんですよね。今までは『すいません、すいません』って生きてきたのに。一旦、力を持っちゃうとやっぱり人間って、どうしてこうなっちゃうんだろうな?って」と語るのでした。この町山氏の指摘は非常に共感できました。なぜ、2000年の長きにわたるグリーフがコンパッションに昇華していかないのか。それを思うと、悲しいですね。