No.1192


 昨年は204本の映画を観ましたが、今年最初の映画鑑賞は1991年製作の日本映画「波の数だけ抱きしめて」。もう何度も観ている大好きな作品です。一条真也の映画館「東京日和」で紹介した作品と同じく中山美穂が主演ですが、同作の彼女はあまりにも暗い印象でした。今年は明るくてキュートなミポリンの姿を見たくなって「波の数だけ抱きしめて」のDVDを再鑑賞した次第です。久しぶりに胸がキュンとなりました!
 
 1982年。西海岸文化全盛の頃、学生時代最後の思い出に本格的なFM局の設立をめざす若者たち。そんな彼らのひと夏の夢と恋を、湘南の潮風と波を舞台に心地よいユーミン・サウンドにのせて描いた、ちょっぴり懐かしくも新しい青春映画です。劇中のミニFM局「Kiwi」は、実在の「FM Banana」のコンセプトをベースにしたもの。脚本は「病院へ行こう」(1990年)の一色伸幸が執筆。監督は「私をスキーに連れてって」(1987年)「彼女が水着にきがえたら」(1989年)の馬場康夫。
 
 1991年11月。東京の教会で行われた田中真理子(中山美穂)の結婚式に、旧友の小杉正明(織田裕二)、芹沢良明(阪田マサノブ)、高橋裕子(松下由樹)、吉岡拓哉(別所哲也)の4人が集まりました。式の帰り、小杉と芹沢はクルマを飛ばして横横経由で長柄のトンネルを抜け、134号線を茅ヶ崎に向かいます。1982年5月。大学4年生の小杉、芹沢、裕子、真理子の4人は、上智大学に通う真理子のバイト先のサーフショップを拠点にノンストップ・ミュージックのミニFM局Kiwiを運営していました。彼らは学生生活最後の夏休みに何か大きなことをやりたいと無線マニアの芹沢の発案でFM局を始めたのでした。
 
 自分たちの放送が湘南中の海岸で聞けるようになることを夢見る彼らにとって、真理子のDJとしての才能は不可欠でしたが、その真理子はロスアンゼルスにいる両親から航空券を送りつけられており、7月にはロスの大学に編入しなければなりません。真理子は小杉に引きとめてほしいのですが、シャイな小杉は「好きだ」の一言が言えませんでした。そんなある日、彼らの前に若い広告マンの吉岡が出現。真理子に一目ぼれした吉岡はFM放送局の計画を知り、真理子を取り入れるために中継局作りに積極的に協力します。そしてKiwiは2人の男の真理子への想いをエネルギーにして、国道134号線沿いに江ノ島方向へ急速に伸び始めます。
 
 そんな時、吉岡は会社の上司から専売公社が森戸にひと夏オープンするアンテナショップで行うイベントの企画を命じられ、茅ヶ崎から森戸まで湘南の海辺をカバーするFM放送局「FM湘南」の設立を提案。Kiwiは森戸を目指してさらに伸びていきます。同時に吉岡は真理子に9月までアメリカ行きを延ばすよう頼み込み、真理子もそれを了承しました。7月、中継局が葉山まで伸び、いよいよ明日はスポンサーが試験放送を聞きにくるという晩、小杉は真理子に気持ちを打ち明けようと決心し、真理子を呼び出すのでした。
 
 しかし、ふとした行き違いから小杉は真理子の気持ちが完全に吉岡に移ったものと誤解。一方真理子も小杉に思いを寄せていた裕子が小杉と抱き合っているのを目撃して、深く傷つきアメリカへの旅立ちを決心します。芹沢と裕子は、真理子と小杉の仲を取り持つため、試験放送を犠牲にして、小杉の「愛してる」という言葉を電波に乗せ、真理子のクルマに乗せようとします。でも、この放送が失敗すれば吉岡は会社をクビになるのです。悩んだ末、小杉はマイクに向かいますが、間一髪で真理子のクルマは長柄のトンネルに入り、その思いは伝えられなかったのでした。
 
 わたしは、これまでに一条真也の映画館「蝶の眠り」、「Love Letter」、「サヨナライツカ」、「東京日和」で女優・中山美穂の主演映画についてレビューを書いてきましたが、そのすべてが名作だと思います。でも、わたしが一番好きな彼女の主演映画は「波の数だけ抱きしめて」なのです。1980年代という日本が最も明るく、バルブ経済のただ中にあった時代の恋愛を描いており、かつわたしの学生時代にも近いです。この映画が公開されたとき、小倉の船場にあった東宝劇場(現在はもう存在しません)にすでに結婚していた妻と一緒に観に行った記憶があります。2024年12月に中山美穂さんが亡くなったとき、の馬場康夫監督がUPした彼女の追悼動画を観て、改めて「波の数だけ抱きしめて」の魅力を再確認した次第です。
 
 もともと、馬場康夫監督は大好きな映画監督でした。馬場監督は1954年(昭和29年)東京生まれ。成蹊小学校、成蹊中学校・高等学校、成蹊大学工学部卒業。安倍晋三元首相とは、とは幼稚園~大学までを過ごした親友でした。安倍元首相との映画対談がYouTubeにUPされていますが、2人の仲の良さがよくわかります。大学卒業後は日立製作所に勤務し、同社宣伝部に所属していました。1981年(昭和56年)、漫画雑誌「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)において、4コマ漫画企画「気まぐれコンセプト」の連載を開始。その後はテレビ番組の企画や、著作の出版を行い、1983年(昭和58年)に出版した書籍『見栄講座―ミーハーのための戦略と展開』(小学館)がベストセラーになりました。同書は、学生時代のわたしの愛読書でした。
 
 馬場監督は、1987年(昭和62年)には映画「私をスキーに連れてって」を、映画初監督作品として製作。クリスマス・イヴのゲレンデで出会った男女の恋の軌跡を初々しく描いています。"スキー"をモチーフに、現代の若者像を瑞々しく切り取った演出や、ゲレンデでの躍動感溢れるアクションなど、後に"ホイチョイ・ムービー"と呼ばれる礎を築いた記念作です。三上博史、原田知世、布施博。竹中直人、田中邦衛共演。大学時代、スキー選手としてならしたが、都会ではパッとしない商社マンの文夫(三上博史)。彼は友人と出掛けた奥志賀のスキー場で、OLの優(原田知世)と出会います。「私をスキーに連れてって」は興行的に大成功し、わが処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)でも"THEハートフル・ムービー"として取り上げました。
 
「私をスキーに連れてって」の大ヒットとともに日立製作所を退職した馬場氏が率いるホイチョイ・プロダクション製作の青春ムービー第2弾が「彼女が水着にきがえたら」です。東京アーバン・マリンリゾートを舞台に、海底に眠る財宝を追う女性ダイバーとヨット乗りの青年との恋と冒険を描きます。数々登場するディティールに凝ったマリン・スポーツや、全編を彩るサザンオールスターズのナンバーなど、ホイチョイ作品ならではの妙味が魅力。織田裕二、原田知世、田中美佐子、伊武雅刀共演。湘南沖に沈んだ、朝鮮戦争時の輸送機「ドラゴン・レディ」。その機内には100億の宝が積まれていた。原田知世演じるアマチュア・ダイバーのOLは、余暇優先をモットーとするサラリーマンの青年(織田裕二)とともに宝の謎を追うのでした。
 
「私をスキーに連れてって」「彼女が水着にきがえたら」「波の数だけ抱きしめて」のホイチョイ三部作はいずれも商業的に成功し、ホイチョイ・プロダクションズは若者のライフスタイルにおけるイメージリーダーとなりました。三部作はすべて原田知世と三上博史のコンビで製作する予定でしたが、三上がミーハー映画の出演を渋り、2作目はオーディションで織田裕二が選ばれ、好評だったことから本作も原田知世と織田裕二のコンビでの製作を予定していたら、今度は原田が撮影とコンサートのスケジュール調整ができずに降板。オーディションをする時間が無かったことから、河井真也プロデューサーが強引に中山美穂を抜擢。織田と中山は前年のTBSのテレビドラマ「卒業」で共演経験がありました。
 
 織田裕二はこの年1月期のフジテレビのドラマ「東京ラブストーリー」でブレイク中という状況でした。馬場監督によれば、「波の数だけ抱きしめて」の最初の脚本では別所哲也の役が主人公でした。織田にプロットを見せた際、こっちの役(小杉役)がいいと言ったため、馬場監督も脚本の一色伸幸もびっくりして椅子からずり落ちるほどだったそうで、脚本をずいぶん直したといいます。新たに作られた脚本では、別所と織田は同じくらいの出番でした。馬場監督は当時の別所はまだ無名だったと述べていますが、別所は本作が代表作の1つだと語っています。中山美穂が2人のどちらでもなく、年上の男性と結婚するのは、出演作で常に年上のおじさんと結ばれたオードリー・ヘップバーン映画の影響だとか。
 
 劇中、吉岡拓也(別所哲也)が、主舞台であるミニFM局は「辻堂から1キロある」という台詞を言いますが、ミニFM局から見える海に映るべき江の島が映りません。ロケハンで1982年の湘南の雰囲気を残す場所を探しましたが、海岸沿いに大きな建物が立つなど、たったの8年で一変していたそうです。当時、藤沢市辻堂あたりで大幅な護岸工事があり、ビーチを完全に変えたことから、湘南メインで撮ることを断念。このため関東近県の海岸線を虱潰しに当たり、千葉県の千倉町(現南房総市)で合宿して撮影しました。前年の桑田佳祐監督「稲村ジェーン」も1965年の稲村ヶ崎を舞台としていたことから、同様にロケハンに難航し、本作のスタッフも行く先々で「稲村ジェーン」のスタッフの名刺を見たといいます。興味深いエピソードですね。
 
 このように、馬場監督は千葉の千倉に茅ヶ崎あたりのイメージでミニFM局のセットを建てたのです。江の島など、明らかに湘南だとわかるシーンも多いですが、他は大半が千葉での撮影でした。オレンジ色のサーフショップは九十九里浜。当時の中山美穂は人気絶頂でロケ現場に中高生が押し寄せ、その整理が大変だったといいます。わたしがこの映画で最も好きなシーンは、冒頭で純白のウェディングドレスを着た中山美穂がヴァージンロードを進む結婚式のシーンなのですが、舞台となった教会は東京にあるという設定でしたが、じつは神奈川県横浜市にある「保土ヶ谷カトリック教会」でした。昭和13年にチェコの建築家が設計、当時のフランス人神父の私財と母国フランスの協力で建設されました。鐘楼のないロメネスク様式の聖堂ですが、ここを歩く花嫁姿の中山美穂は最高に美しかったです!
 
 この映画の時代設定は1982年になっています。その理由について、馬場監督は日本の若者が全員アメリカ西海岸に憧れてサーファー志向だった1982年のサーファー文化の雰囲気をフィルムに残したかったからと述べています。また、当時、CDがアナログレコードを凌駕していて、アナログレコードがなくなってしまうのではないかという危機感からレコード文化を記録しておきたかったからとも述べています。さらには、ジョージ・ルーカス監督の「アメリカン・グラフィティ」(1973年)の著名なキャッチコピー「1962年の夏、あなたはどこにいましたか?」を意識して、一番いい時代の湘南を振り返るという意味で1982年にしたといいます。なお、エンドクレジットの「時代考証」にはコラムニストの泉麻人氏の名前がクレジットされています。
 
「波の数だけ抱きしめて」のキャスティングは、すべてプロデューサーがやったそうです。馬場監督は「役者に演技をさせることは自分には出来ない」と承知しているため、芝居が出来る人をキャスティングしたとか。登場人物の役名のうち、小杉正明と芹沢良明は、ホイチョイ・プロダクションのメンバーの名前を採用。また馬場監督の映画に必ず出てくる文男と真理子という役名は、馬場監督が高校生の時に撮った8ミリに最初に出演してくれた仲間の名前です。松下由樹は馬場が最も好きな女優だといいます。馬場監督が芝居にこだわらないため、特に「青森まで」他、松下のシーンはアドリブが多いとか。馬場監督は「よく見るとこれは松下さんの映画」と述べています。映画は真っ黒に日焼けしていた松下由樹ですが、「1982年はそんなもんじゃない」という馬場監督の考えから、松下由樹は最も黒い設定でしたが、まだ足らないと撮影前に毎回ドーランを塗ったといいます。
松下由樹さんに花束をお渡ししました
「レッドシューズ」の舞台挨拶に登壇しました



 わたしは、松下由樹さんにお会いしたことがあります。ブログ「花束贈呈と舞台挨拶」で紹介したように、2022年12月9日、リバーウォーク北九州内にあるシネコンのT・ジョイで一条真也の映画館「レッドシューズ」で紹介した日本映画の北九州先行上映が開始され、舞台挨拶がありました。わたしは、映画のタイトルにちなんで、赤のスニーカーを履き、赤のレザージャケットを着ました。この日の舞台挨拶には主演の朝比奈彩さん、共演の松下由樹さん、雑賀俊朗監督も登場しましたが、わたしが登壇して3人に花束をお渡ししました。わたしは、雑賀監督には「おめでとうございます!」、朝比奈さんには「ずっとお会いしたかったです!」、松下さんには「昔からファンでした!」とお伝えしました。そのとき、松下さんが「ホントですかあ?」とイタズラっぽくつぶやいたことを記憶しています。とても気さくでチャーミングな方でしたが、あのとき「『波の数だけ抱きしめて』が大好きなんですよ!」と言えば良かったと後悔しています。最大の後悔といえば、生前のミポリンに会いたかったなあ!(涙)