No.1211

 
 2月7日、京都から小倉に戻りました。その日の夜、日本映画「ほどなく、お別れです」をローソン・ユナイテッドシネマ小倉で観ました。同劇場の2番シアターの映像が不鮮明だったのが残念でしたが、素晴らしい感動作でした。日本の葬儀映画では、「おくりびと」以来の傑作ですね!
 
 ヤフーの「解説」は、「長月天音の『ほどなく、お別れです』シリーズを、『ゴジラ-1.0』などの浜辺美波と『わたしの幸せな結婚』などの目黒蓮主演により実写映画化。ある出会いをきっかけに葬儀会社でインターンとして働き始めた女性が、彼女を指導する葬祭プランナーと共にさまざまな境遇の遺族や故人に向き合う。『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』などの三木孝浩が監督、『余命10年』などの岡田惠和脚本監修のもと、『劇場版 ごん GON, THE LITTLE FOX』などの本田隆朗が脚本を担う」です。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「就職活動に全敗し途方に暮れる清水美空(浜辺美波)は、葬祭プランナー・漆原礼二(目黒蓮)との出会いをきっかけに葬儀会社『坂東会館』でインターンとして働き始める。指南役となった彼の厳しい指導にくじけそうになる美空だったが、礼二が遺族や故人に誠実に寄り添い、出棺時に『ほどなく、お別れです』と優しく告げる姿に感銘を受ける。残された遺族のみならず故人も納得できる葬儀を模索する中、美空は礼二の背中を追いかけるように葬祭プランナーを目指すことを決断する」です。
 
 原作は長月天音著『ほどなく、お別れです』(小学館文庫)ですが、アマゾンの内容紹介には「夫の五年にわたる闘病生活を支え、死別から二年の歳月をかけて書き上げた「3+1回泣ける」お葬式小説。大学生の清水美空は、東京スカイツリーの近くにある葬儀場『坂東会館』でアルバイトをしている。坂東会館には、僧侶の里見と組んで、訳ありの葬儀ばかり担当する漆原という男性スタッフがいた。漆原は、美空に里見と同様の"ある能力"があることに目を付け、自分の担当する葬儀を手伝うよう命じる。漆原は美空をはじめとするスタッフには毒舌だが、亡くなった人と、遺族の思いを繋ごうと心を尽くす葬祭ディレクターだった。『決して希望のない仕事ではないのです。大切なご家族を失くし、大変な状況に置かれたご遺族が、初めに接するのが我々です。一緒になってそのお気持ちを受け止め、区切りとなる儀式を行って、一歩先へと進むお手伝いをする、やりがいのある仕事でもあるのです』--本文より」と書かれています。
 
 小説の『ほどなく、お別れです』は5巻までシリーズ化されていますが、この映画ではシリーズの中でも特に人気の高いエピソードを選び、ショート・ストーリーが次々に連なっていく構成になっています。1つのエピソードは、目黒蓮演じる葬祭プランナー・漆原礼二の「ほどなく、お別れです」の言葉によって終わります。わたしはこの映画が公開されるのを非常に楽しみにしていましたが、じつによく出来ていると思いました。まずは「葬式は必要!」という真っ直ぐなメッセージが伝わってきました。本作を一緒に観た人は「一条真也の影響を多分に受けていると思います」と言っていました。また葬儀を、人生をどう締めくくるかという"思想の仕事"として描いているのが印象的でした。正解を用意するのではなく、遺族が悔いのないところまで伴走しなければなりません。改めて、この仕事は理念というものがないと成立しない仕事だと再認識しました。
 
 映画「ほどなく、お別れです」を観て、わたしは一条真也の映画館「おくりびと」で紹介した日本映画へのオマージュあるいはリスペクトを強く感じました。「おくりびと」の主人公は、楽団の解散でチェロ奏者の夢をあきらめ、故郷の山形に帰ってきた大悟(本木雅弘)です。彼は好条件の求人広告を見つけます。面接に向かうと社長の佐々木(山崎努)に即採用されますが、業務内容は遺体を棺に収める仕事でした。当初は戸惑っていた大悟でしたが、さまざまな境遇の別れと向き合ううちに、納棺師の仕事に誇りを見いだしてゆきます。日本映画として初めてアカデミー外国語映画賞に輝いた名作ですが、本木雅弘が演じる納棺師の所作の美しさが世界中の観客に感動を与えました。特に、彼の指の動きが美しかったのですが、それを「ほどなく、お別れです」では、ジャニーズ事務所(現在はスタート・エンターテインメント)の後輩である目黒蓮が見事に再現していました。
 
 その目黒蓮は、亡くなった故人、動かない遺体に話しかけ、新しい世界への旅立ちをサポートするのですが、一条真也の映画館「月の満ち欠け」で紹介した2022年の日本映画での彼の演技を思い出した。スクリーンで目黒蓮の姿を見たのもこの作品が初めてだったのですが、ともにスピリチュアルな物語として共振しました。「月の満ち欠け」は、一条真也の読書館『月の満ち欠け』で紹介した小説家・佐藤正午の直木賞受賞作を実写映画化した作品で、妻子を同時に失い幸せな日常を失った男が数奇な運命に巻き込まれていく物語です。小山内堅(大泉洋)は愛する家族と幸せに暮らしていましたが、予期せぬ事故で妻・梢(柴咲コウ)と娘・瑠璃を同時に亡くします。深い悲しみに暮れる彼のもとに、ある日三角哲彦(目黒蓮)と名乗る男がやって来ます。彼は瑠璃が、事故当日に面識のないはずの自分を訪ねようとしていたことや、かつて自分が愛した女性・正木瑠璃(有村架純)との思い出を語ります。
 
「ほどなく、お別れです」の主演は浜辺美波ですが、彼女を初めてスクリーンで見たのは 一条真也の映画館「君の膵臓をたべたい」で紹介した2017年の日本映画でした。その整った顔立ちと可憐な雰囲気には「大変な新人女優が現れたな!」と思ったものです。「君の膵臓をたべたい」は、住野よるの小説を映画化した作品です。膵臓の病を患う高校生と同級生の"僕"の交流を、現在と過去の時間軸を交差させて描いています。高校の同級生・山内桜良(浜辺美波)がひそかにつづる闘病日記『共病文庫』を偶然見つけた僕(北村匠海)は、彼女が余命わずかなことを知り、一緒に過ごすようになります。彼女の言葉をきっかけに母校の教師となった僕(小栗旬)は、桜良が亡くなってから12年後、教え子と会話をしていた際に、桜良と過ごした数か月を思い出します。一方、結婚を控えた桜良の親友・恭子(北川景子)も、桜良との日々を思い返すのでした。
 
 映画「ほどなく、お別れです」の最初の柳沢家のエピソードには、「君の膵臓をたべたい」で浜辺美波と共演した北村匠海が妊娠中の妻(古川琴音)と子どもを一緒に亡くした男性を演じています。身重だった彼の妻は歩道橋で転げ落ちて、お腹の中の赤ちゃんともども命を落としたのでした。彼女は自身の葬儀が行われる葬儀会館で、死者が見える美空(浜辺美波)の前に姿を現します。そして、オムツがたくさん入ったバッグを美空に預けて「お棺の中に入れてほしい」と頼むのでした。漆原(目黒蓮)は、「きっと、天国でもオムツが必要なのでしょう。天国で、赤ちゃんを立派に育ててくれるでしょう」と感動的なセリフを吐くのですが、これはちょっと違和感がありました。というのも、亡き母親の霊が物質としてのオムツやバッグを生者に預けるという設定自体に無理があると感じたのです。心霊を扱うのなら、こういうディテールにも注意を払ってほしいと思いました。
 
 続く久保田家のエピソードでは、5歳の女の子が亡くなります。葬儀の目的の1つは、死者に対して「あなたは亡くなったのですよ」と伝えることです。でも、幼い女の子の霊はそれを理解することができません。美空が必死に説明しても、女の子は「いや、遠くになんか行きたくない!」と言うばかりでした。その姿を見て、多くの観客がすすり泣いていました。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林・PHP文庫)に書きましたが、幼くして死んだ子どもは、強力なパワーをもってあの世に参入し、天才として生まれ変わってくることが多いという説があります。長生きできる生命力をもっていた人間が不慮の災難に遭って、この世から去らなければいけないとき、その残された生命力はその後も使用することができるというのです。いわば、生命力には「エネルギー保存の法則」が働いているというわけですが、このような考え方は幼い子を亡くした親の悲嘆に寄り添います。
 
 続く長野家のエピソードは、多額の借金を抱えて失踪した父親(原田泰造)と息子と娘が、母親の葬儀をきっかけに再会し、和解する物語です。葬儀という場は、故人の関係者たちの「出会い直し」の場であるということがよく描かれていました。また、このエピソードでは、「葬儀とはいったい誰のものなのか」という問いがありました。死者のためか、残された者のためか。わたしは、多くの著書で述べてきたように、葬儀とは死者のためのものであり、同時に残された愛する人を亡くした人のためのものであると思います。たとえ愛する人が死者となっても、残された人との結びつきが消えることはありません。その問題について深く考えた人物が、ドイツの神秘哲学者ルドルフ・シュターナーです。彼によれば、死者と生者との関係は密接であり、それをいいかげんにするということは、わたしたちがこの世に生きることの意味をも否定することになりかねないというのです。
 
 この世の人間は死者との結びつきを持てるのでしょうか。そういうことを考える前に、まず言えるのは、死者が現実に存在していると考えない限り、その問題は解決しないということです。つまり、死者など存在しないということになってしまえば、いま言ったことはすべて意味がなくなってしまいます。ところが、仏教の僧侶でさえ、死者というのは、わたしたちの心の中にしか存在していないという人が多いのです。そういう僧侶は、人が亡くなって仏壇の前でお経をあげるのは、この世に残された人間の心のために供養しているのだというのです。もし、そういう意味でお経をあげているのなら、死者と結びつきを持とうと思っても、当人が死者などいないと思っているわけですから、結びつきの持ちようがありません。死んでも、人間は死者として生きています。しかし、その死者と自分との間には、「まだはっきりした関係ができていない」と考えることが前提になるべきです。
 
 シュタイナーは多くの著書や講演で、「あの世で死者は生きている」ことを繰り返し主張しました。彼は、こう言いました。今のわたしたちの人生の中で、死者たちからの霊的な恩恵を受けないで生活している場合はむしろ少ないくらいです。ただそのことを、この世に生きている人間の多くは知りません。そして、自分だけの力でこの人生を送っているように思っています。シュタイナーによれば、わたしたちが死者からの霊的恩恵を受けて、あの世で生きている死者たちに自分の方から何ができるのかを考えることが、人生の大事な務めになるのです。そして、大事なことは、死なない人間はいませんから、残された人は必ず死者とまた会えるということです。このことは映画「ほどなく、お別れです」の中で何度も語られていました。篠原は死について「永遠の別れではない」と言い、美空は5歳の少女に「別の世界に先に行くだけのこと。後から愛する人たちが来たら、そのときはぜひ案内してあげて」と言いました。
 
 考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。そのことを、わたしは『また会えるから』(現代書林)というフォトブックに書き、そこに掲載した詩に夫婦デュオの「ココペリ」が曲をつけて「また会えるから」というグリーフケア・ソングが誕生しました。
 
 映画「ほどなく、お別れです」の浜辺美波と目黒蓮の主演コンビが本当に素晴らしかったです。浜辺美波はひたすら可愛らしく、目黒蓮はひたすらカッコ良く、さらに彼の声の良さが印象に強く残りました。葬祭という仕事の素晴らしさも最大限に表現されており、これは求職者に響いて、採用にも好影響がありそうです。とても嬉しく思いました。ただ、わたしたち冠婚葬祭互助会業界がちょっと引き気味なのは、この映画では「葬祭プランナー」という言葉が使われていることです。業界では「葬祭ディレクター」という言葉を使います。また、原作でも「葬祭ディレクター」が使われていました。映画の中で篠原が美空の両親に説明したように「ウェディング・プランナーと同じく、葬祭プランナーはほの暗い仕事ではございません」と言っていましたが、その気持ちはよくわかります。葬祭の仕事は、社会に必要とされる ハートフル・エッセンシャルワークです。しかし、ウェディング・プランナーという場合の「ウェディング」は儀式としての結婚式というより、パーティーやイベントとしての結婚披露宴を指すことが多いように思います。葬儀という儀式は正しく司ることが求められ、やはり「ディレクター」の方がふさわしいのではないでしょうか。わたしは、そう思います。
 
 わたしは、ぜひ「ほどなく、お別れです」を超える葬儀映画を作りたいと考えています。その原作者は、現代日本を代表する人気作家の町田そのこ氏です。町田氏は映画化された一条真也の読書館『52ヘルツのクジラたち』で紹介した名作で本屋大賞を受賞されました。葬儀社での勤務体験を生かした一条真也の読書館『ぎょらん』一条真也の読書館『夜明けのはざま』という葬儀小説の大傑作も書かれています。この原作をもとに、志賀司ゼネラルプロデューサー(セレモニー社長)とともに、葬儀の本質と重要性をエンターテインメントとして示せるような儀式映画を作りたいと願っています。もっとも、「ほどなく、お別れです」の浜辺美波&目黒蓮コンビに負けないようなキャスティングを考えないといけません。たとえば、女優なら松たか子、北川景子、綾瀬はるか、長澤まさみ、有村架純、広瀬すず、今田美桜。俳優なら役所広司、木村拓哉、菅田将暉、吉沢亮、横浜流星といった人気者の起用も必要かもしれませんね。その未来の映画作りにも、「ほどなく、お別れです」は大いにインスピレーションを与えてくれました。