No.655
12月2日、この日から公開された日本映画「月の満ち欠け」をシネプレックス小倉で観ました。一条真也の読書館『月の満ち欠け』で紹介した小説の映画版です。小説も感動的でしたが、映画はもっと泣ける感動作でした。何かもう、100%、わたし好みの映画でしたね。師走に入って、本年度の一条賞(映画篇)の有力候補作に出合いました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『鳩の撃退法』などの原作で知られる佐藤正午の直木賞受賞作を実写映画化。妻子を同時に失い幸せな日常を失った男が、数奇な運命に巻き込まれていく。監督は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』などの廣木隆一、脚本は『そして、バトンは渡された』などの橋本裕志が担当。『探偵はBARにいる』シリーズなどの大泉洋が主人公を演じ、廣木監督作『ストロボ・エッジ』などの有村架純、ドラマ『消えた初恋』などの目黒蓮、大泉主演作『青天の霹靂』などの柴咲コウらが共演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「小山内堅(大泉洋)は愛する家族と幸せに暮らしていたが、予期せぬ事故で妻・梢(柴咲コウ)と娘・瑠璃を同時に亡くす。深い悲しみに暮れる彼のもとに、ある日三角哲彦(目黒蓮)と名乗る男がやって来る。彼は瑠璃が、事故当日に面識のないはずの自分を訪ねようとしていたことや、かつて自分が愛した女性・正木瑠璃(有村架純)との思い出を話しだす」
この映画の原作は、第157回直木賞受賞作です。地元・佐世保で執筆活動を続ける著者の佐藤正午氏はデビュー34年にして初の直木賞ノミネートだったそうです。「生まれ変わり」というオカルト的に受け取られがちなスピリチュアルなテーマをガチンコで描いた小説が岩波書店から出版され、しかも直木賞を受賞したという事実に、わたしは大いに驚きました。佐藤氏の小説は初めて読みましたが、冒頭部分から筆力を感じました。
リーガロイヤルホテル早稲田のティーラウンジで
小山内堅という初老の男が八戸から東京駅にやってきます。駅に隣接した東京ステーションホテルのカフェに入り、先に入店していた母娘の前に座ります。彼が店員にコーヒーの注文を伝えると、先に着席していた小学生の女の子が「どら焼きのセットにすればいいのに」と言います。戸惑う小山内に向かって、少女は「一緒に食べたことがあるね、家族三人で」と口にするのでした。ここから、世にも不思議な物語が展開されていきます。この場面、小説では舞台が東京ステーションホテルでしたが、映画ではリーガロイヤルホテル早稲田に変更されていました。
リーガロイヤルホテル早稲田のティーラウンジの入口
ブログ「早稲田散策」で紹介したように、先日、わたしは映画の撮影に使用された同ホテルのティーラウンジを訪れました。このホテル、わたしが学生時代にはなかったのですが、ホテルの向かいにある大和書房から2冊の文庫本を出したことがあり、その頃、よくこのラウンジで打ち合わせしていました。この物語では高田馬場が重要な役割を果たすのですが、映画で80年代の高田馬場や早稲田界隈が再現されていたのには感激しました。特に、高田馬場駅前のランドマークであるBIG BOXの外観が80年代そのままだったのは非常に懐かしかったですね!
原作小説にも感動しましたが、映画はさらに感動しました。まず、この映画は女優の力が凄いです。柴咲コウ、有村架純は美しかったし、伊藤沙莉の演技力が素晴らしかった。さらには、なんと「東京暮色」の原節子や「アンナ・カレーニナ」のヴィヴィアン・リーといった伝説の大女優も登場するのです。まさに女優の力を見せつけられたという思いです。この映画で、柴咲コウは結婚式の花嫁、伊藤沙莉は女子高生を演じます。41歳の花嫁、28歳の女子高生と聞けば「?」となるのが普通ですが、まったく違和感がありませんでした。女優というのは凄いですね。
そして、ある意味でこの物語の真の主人公ともいえる正木瑠璃を演じた有村架純が良かったです。彼女が目黒蓮が演じる大学生のアパートを訪れるシーンなどは、一条真也の映画館「花束みたいな恋をした」で紹介した日本映画を連想しました。この映画は恋愛の本質を見事に描いた名作で、どこにでもいる現代の大学生の21歳から26歳までを描いており、青春時代の情熱的な恋愛を見事に描いています。有村架純は ブログ「ひよっこ」で紹介したNHK朝ドラの名作での若い主人公役のイメージが強かったですが、立派な大人の女優になりましたね。「ひよっこ」といえば、米屋の娘役で伊藤沙莉も出演していたことを思い出しました。一条真也の映画観「ちょっと思い出しただけ」で紹介した伊藤沙莉の主演作も恋愛映画の名作でした。
このように映画「月の満ち欠け」の女優陣は強力でしたが、男優陣も負けていません。主役の小山内堅を演じた大泉洋は相変わらずの名演技でした。ともにファンタジー映画である一条真也の映画館「青天の霹靂」、「トワイライト ささらさや」で紹介した主演映画とは違った魅力がありました。「トワイライト ささらさや」はいわゆるジェントルゴースト・ストーリー(優霊物語)で、大泉洋は幽霊になっていました。大泉洋以外でも、「月の満ち欠け」では、25歳で1級建築士に合格したけれども性格の悪いダメ男の役を演じた田中圭も見事な怪演でした。写真家の三角哲彦を演じた目黒蓮も、なかなかのものでした。女優も男優も輝いているというのは、きっとこの映画のメガホンを取った廣木隆一監督が優秀なのでしょうね。 一条真也の映画館「ナミヤ雑貨店の奇蹟」で紹介した映画など、廣木監督のファンタジー映画はとにかく泣けます。
「月の満ち欠け」は、生まれ変わりの物語です。原作を読んだときもそうでしたが、この映画を観て、生まれ変わりに成功したのはいいけれども、そのことを生前の家族をはじめとした関係者に信じてもらうことの難しさを思い知りました。誰だって、「わたしは、あなたの死んだ娘さんの生まれ変わりです」などと言われたら、相手の頭がおかしいと思うでしょう。たとえ、娘を亡くした親が信じたとしても、周囲の人々まで信じさせるのは困難をきわめます。「オードリー・ローズ」という1977年制作のアメリカ合衆国のホラー映画があります。輪廻転生をテーマにしたフランク・デ・フェリッタ原作の小説をロバート・ワイズ監督が映画化した作品です。交通事故で死んだオードリーという娘が転生する物語ですが、オードリーの父親が霊媒からその事実を聞き、転生したという他人の娘につきまとうことから悲劇が始まるのでした。
わたしは、この映画を観て、また原作小説を読んで、一条真也の読書館『深い河』で紹介した遠藤周作の名作を連想しました。この小説には磯辺という老年期に差しかかった男が登場しますが、彼は妻を癌で亡くします。妻は臨終の間際にうわ言で自分は必ず輪廻転生し、この世界のどこかに生まれ変わる、必ず自分を見つけてほしいと言い残して、死んでしまいます。妻の自分に対する深い愛情を初めて知った磯辺は「死後の転生」の問題に捉われ、アメリカの研究者に相談します。研究者は日本人の生まれ変わりという少女がインドにいると教えてくれ、磯辺は理性では信じてはいないものの、妻を失った大きな喪失感の中で彼女の臨終のうわ言に導かれ、インド・ツアーに参加するのでした。
『深い河』では、アメリカのヴァージニア大学において輪廻転生が科学的に研究されたことが紹介されています。その研究で世界的に有名になったのが同大学の心理学部教授イアン・スティーブンソンでした。彼の著書に、世界的ベストセラーとなった『前世を記憶する子どもたち』笠原敏雄訳(日本教文社)があります。まさにこの本は「月の満ち欠け」で重要な役割を果たします。映画にも登場しますが、原作ではもっと重要な存在です。なにしろ、『月の満ち欠け』の登場人物だちがいずれも『前世を記憶する子どもたち』を読むことによって、「生まれ変わり説には一理ある」と考えるのですから......。書名もそのまま登場しますが、正直わたしは「小説として物語を展開する上で、『前世を記憶する子どもたち』に引っ張られ過ぎではないか」と感じました。
その『前世を記憶する子どもたち』には、驚くべきエピソードがずらりと並んでいます。 たとえば、1958年生まれのレバノン・コーナエル村の3歳児イマッドは、「わたしは前世はクリビィ村に住み、屋根裏部屋には銃を隠しもち、赤いハイヒールのジャミレという女を記憶している」と語り、自転車を見るたびに顔色を変えました。これに興味を抱いて現地に飛んだスティーブンソンは、結核で1949年に25歳で死んだイブラヒムの部屋を探しあてました。そして、「屋根裏部屋にはライフルが」「赤いハイヒールのジャミレは彼の恋人」「イブラヒムは従兄弟のすさまじい自動車事故死に衝撃を受けた」など、彼がイマッドの前人格であることを確認したのです。
スティーブンソンを中心とするヴァージニア大学研究チームは長い年月をかけ、世界各地から生まれ変わりとしか説明のしようがない実例を2000以上も集めました。重要なことは、この子どもたちの半分は西洋の子どもだということです。西洋では、インドやチベットなどのアジア地域と違い、輪廻転生の考え方が現在のところ、一般的ではありません。やはり輪廻転生の例が圧倒的に多いのは、インドです。中でも、シャンティ・デヴィの例がよく知られています。1926年にデリーで、デヴィという女の子が生まれました。彼女は「自分は前にマットラという町で生まれ、前世での名前はルジです」と両親に言いました。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)の第十三信「生まれ変わり〜もう一度、会えます」でも紹介しましたが、生まれ変わりは、古来から人類のあいだに広く存在した考え方です。西洋の歴史をみると、ピタゴラス、プラトン、ミルトン、スピノザ、ゲーテ、ビクトル・ユーゴー、ホイットマン、イプセン、メーテルリンクらは、みな輪廻転生を肯定する再生論者でした。世界には、輪廻転生を認める宗教がたくさんあります。
ヒンドゥー教や仏教といった東洋の宗教が輪廻転生を教義の柱にしていることはよく知られていますが、イスラム教の神秘主義であるスーフィーの伝統でも、詩や踊りの中で輪廻転生が美しく表現されています。ユダヤ教では、何千年も前から柱の1つとして、輪廻転生を肯定する「ギルガル」という考え方がありました。ユダヤの神秘思想である「カバラ」も輪廻転生に多く言及しています。約2世紀前に、近代化をはかった東欧のユダヤ人によってこの考え方は捨てられましたが、今でも、一部の人々の間では輪廻転生の思想は生きています。
そして、キリスト教は輪廻転生を否定していると思われています。もちろん、現在はそうです。しかし、過去は違いました。キリスト教も初期の頃は輪廻転生を認めていたのです。もともと『新約聖書』には輪廻転生の記述がありました。それが、紀元4世紀、コンスタンティヌス帝がキリスト教をローマの国教としたときに削除したのです。紀元6世紀には、コンスタンティノープルの宗教会議において、公式に輪廻転生は異端であると宣言されました。それでも、輪廻転生を信じるキリスト教徒もいました。イタリアと南フランスにいたカタリ派の人々です。しかし、彼らは異端として虐殺されました。12世紀のことです。
日本でも、生まれ変わりは信じられてきました。江戸時代の国学者である平田篤胤は、「生まれ変わり少年」として評判だった勝五郎のことを研究しました。文化・文政年間に武蔵国多摩郡で実際に起きた事件ですが、勝五郎という名の8歳の百姓のせがれが「われは生まれる前は、程窪村の久兵衛という人の子で藤蔵といったのだ」と言い出しました。仰天した祖母が程窪村へ連れていくと、ある家の前まで来て、「この家だ」と言って駆け込みました。また向かいの煙草屋の屋根を指さして、「前には、あの屋根はなかった。あの木もなかった」と言いましたが、すべてその通りでした。日本で最も有名な生まれ変わり事件です。
チベットでは、ダライ・ラマが活仏(いきぼとけ)として崇拝されています。ダライ・ラマ1世から14世まで、まったく血のつながりはありません。その地位の継承は、前のダライ・ラマの生まれ変わりとしての化身さがしによって決まるのです。スティーブンソンによると、前世の記憶を語り出すのは幼年時代に多いそうです。その平均年齢は2.6歳で、4歳から6歳頃になると記憶を失いはじめるそうです。「月の満ち欠け」で何度も転生する「瑠璃」という少女は7歳で熱病に冒され、前世の記憶が甦るという設定でした。7歳といえば「七歳までは神の内」という言葉が民俗社会に存在したように、彼岸と此岸の間をたゆたうような境界的年齢なのかもしれません。
また、「月の満ち欠け」における生まれ変わりの特徴は、死者が自分の意志で転生する相手を選ぶという点です。生まれ変わりの背景には、「愛する人と再会したい」などの意図があるというというのです。わたしは、一条真也の映画館「かみさまとの、やくそく」で紹介した映画を思い出しました。胎内記憶・誕生記憶について研究を進める産婦人科医として有名な池川明氏の一連の著作を原作とした映画です。この作品では、「赤ちゃんは自分の意志でお母さんを選んでいる」というメッセージが述べられています。『月の満ち欠け』の主人公である「瑠璃」は、何度も新しい母親を選びながら、愛する人との再会に向けて生き直すのでした。
『ロマンティック・デス』(国書刊行会、幻冬舎文庫)
そして「月の満ち欠け」では、月が「生まれ変わり」のシンボルとなっています。「いちど欠けた月がもういちど満ちるように」生まれ変わって、愛する人の前に現れるというわけですが、これは、わたしには当然というべき考え方です。拙著『ロマンティック・デス』(国書刊行会、幻冬舎文庫)に詳しく書いたように、世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生き、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えるでしょう。そこから、わたしは「月への送魂」という儀式を考案しました。
人類において普遍的な信仰といえば、何といっても、太陽信仰と月信仰のふたつです。太陽は、いつも丸い。永遠に同じ丸いものです。それに対して月も丸いけれども、満ちて欠けます。この満ち欠け、時間の経過とともに変わる月というものは、人間の魂のシンボルとされました。つまり、絶対に変わらない神の世界の生命が太陽をシンボルとすれば、人間の生命は月をシンボルとします。人の心は刻々と変化変転します。人の生死もサイクル状に繰り返します。死んで、またよみがえってという、死と再生を繰り返す人間の生命のイメージに月はぴったりなのです。「月の満ち欠け」のように人間が生まれ変わるというイメージは、皮相的なオカルト批判など超えて、多くの人々にとって死の「おそれ」と死別の「かなしみ」を溶かしていく考え方であると言えるでしょう。まさに「グリーフケア」にとっても最重要なイメージではないでしょうか。
月は輪廻転生のステーションであり、月の満ち欠けのように、人は死と再生を繰り返す。この、もう30年以上も考え続けているテーマがそのまま物語になった小説がわたしの前に出現したのですから、初めて『月の満ち欠け』を読んだときは大いに驚きました。ましてや、その本が直木賞を受賞したと知り、感慨深かったです。この物語では高田馬場が重要な舞台となっていて、周辺の映画館やレンタルビデオ店などもたくさん登場します。早稲田の学生だった頃に、それらの映画館やビデオ店を愛用したわたしとしては、とてもノスタルジックな気分に浸ることができました。その感動は、映画でさらに大きくなったのでした。
「月の満ち欠け」では、ジョン・レノンが殺された日が、物語にとってきわめて重要な日となっています。ジョンは、1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動しました。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開しましたが、同年12月8日、ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡しました。「月の満ち欠け」では、ジョンがヨーコのために作ったラブソング「リメンバー・ラブ」が物語で特別な役割を果たします。
そして、ジョン・レノンの代表曲の1つである名曲「ウーマン」も数回流れます。1980年のアルバム「ダブル・ファンタジー」収録曲ですが、「ウーマン」というタイトルが示す通り、妻のヨーコや世の中の女性に対する思いが綴られた曲です。レノンは同年のインタビューで、「とある晴れた日の午後にバミューダで突然、女性が僕達のために何をしてくれるのか思いついたんだ。」と語っています。この曲をラジオで初めて聴いたとき、「こんなにも優しくて、美しいメロディがこの世にあるとは!」と感動して涙が出てきたことを思い出しました。